記事タイトル:[中級から学ぶ日本語]第4課 


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お名前: 秋月 康夫    URL
  『テーマ別 中級から学ぶ日本語』の第4課の本文は、次のような文章です。

    毎日利用する電車は、日本人を知るのにちょうどよい教室のようなものです。
  日本に来たばかりのころは、朝の満員電車にどうして我慢できるのだろうかとふし
    ぎでたまらなかったし、お酒のにおいをさせて、座席で眠っているサラリーマンを
  見て驚いたこともありました。
    この間もきれいに化粧した若い母親が二人、三、四歳の子供を連れて乗ってき
  ました。子供たちは………《中略》………母親たちはお菓子を食べながら、一生懸
  命話を続けています。途中で大きい荷物を持って乗ってきたおばあさんがいたのに、
  立とうともしないので、あきれてしまいました。
    このように、日本の若い母親の中には時々子供のような人もいます。日本に来
  る前は、日本人は親切で礼儀正しいと聞いていましたが、本当にそうでしょうか。
  私は日本が大好きですから、こんな母親や、こんな母親に育てられている子供たち
  を見ると、ちょっと心配になるのです。

  この本文に対して、[答えましょう]という問題がついていて、

      「次の質問に答えてください」
     8.どうして電車は日本人を知る教室なのですか。

となっています。

  満員電車におどろくと同時に、おもっていたより日本人が礼儀ただしくないと
なげく外国人がいるものかと、わたしはこの、外国人のふりをして日本人が かい
た文章をよみながら不思議におもったものです。そして、この[答えましょう]の
設問ですが、どうにも納得ができません。

  最初に、「知る」ということばの つかわれかたに対する違和感があります。
  本文をかいたひとの意図をくんで、電車がなぜ「日本人を知る教室」になるの
かを かんがえれば、「日本人のいろいろな生態を観察できるから」とでも こた
えるしかありません。もちろん 電車のなかでだれかが日本人について なにか 
はなして おしえてくれるのではないのですから、ここで「日本人を知る教室」だ
というのは、「日本人を理解するためのわかりやすい事例が おおくある」という
こと以外には かんがえられません。そして、そういう「事例」が、本文には い
くつか かかれているのです。
  しかし、これでこの筆者は、「日本人を知った」と本当に おもっているので
しょうか。
  実際、この本文を よむと、筆者は かえって、日本人のイメージが混乱して、
とまどっているようにもおもわれます。まあ、いままでしらなかった日本人の別の
面をみて、日本人をよく「知る」ようになったのだといえなくもありませんが、そ
れなら、「日本人を知るのに”ちょうどよい”教室のようなものです」という表現
とは すこし なじまないのではないでしょうか。「知る」のに”ちょうどよい”
教室なら、「ふしぎでたまらなくな」くなったり、「あきれ」たりしないで、そん
なことがおこる原因を理解するというところまで いかなければへんだと かんが
えるのは、わたしだけでしょうか。
  たしかに、「日本人の意外な面を知りました」という つかいかたはあるから、
原因にまで たちいらなくても 「知る」ということばはつかえます。それならせ
めて、「日本人の意外な面を知るのにいい教室のようなもの」だと言うべきではな
かったでしょうか。「意外な面を知った」ということは、そのままでは「日本人を
知った」ことにはならず、かえって「日本人がわからなくなった」と いうことだ
と いうのが、ごく普通の わたしたちのことばづかいだとおもうからです。

  次に、「教室」という比喩に対する違和感があります。
  この人は、そもそも「教室」というところを、どのような ばしょだと かん
がえているのでしょうか。わたしは、教室というところは、物理的・時間的制約の
ために 実体験をつうじて まなぶことが できないことを、そのかわりに 先生
が いろんな くふうをして、おしえる ばしょだと おもってきました。だから、
日本以外のばしょにいる とてもいい先生が日本人についておしえる教室では、た
とえば、「先生の教室は、まるで日本の電車のなかのようです」ということができ
るでしょう。しかし、その反対に、実際の日本人をみているときに、そこがその日
本人を知る「教室のようだ」というのは、どういう意味なのでしょうか。「本当の
日本人をみていても、実は日本人ではない役者たちが演じているようにしかみえな
い」とでもいいたいのでしょうか。
  まさか、そんなはずはありません。
  これににた つかいかたで、「ファーブルにとって、自然は生物学の教室のよ
うなものだった」というのがあります。わたしは、この例はよく理解できます。「
生物学」はたしかに、ふつう教室でまなぶものだからです。生物学の対象である生
物をみても、そこから教室でまなぶような生物学的認識にいたるかどうかは、その
ひとの素養によるのですから、この文は、ファーブルのひとなみはずれた観察力を
表現したものだと解釈できるのです。(ただ、「生物学」というものを多少、矮小
化した表現のような きがしなくはないけれども。)それからついでに、このよう
な表現を、少年時代のファーブルが自分で口にすることはなかったであろうという
ことも つけくわえておきましょう。
  でも、「日本人を知るのにちょうどよい教室」というのは、そういう解釈がで
きません。この筆者は、外国から日本にきているひとなのです。そのひとが、「日
本人」という対象は、ふつう自分のくに(あるいは日本語学校でもかまわないけれ
ども)の教室でまなぶものだと かんがえるでしょうか。わたしには、そんなこと
をかんがえるひとが いるとはおもえません。自分が日本へきたのですから、実地
で体験することすべてが、教室のようなせまい ばしょよりも日本人をしることに
つながるとかんがえるのがふつうだとおもいます。はじめから そういう目的を意
識して日本へくるひともおおぜい いるくらいなのです。
  もしも、「ファーブルにとって、自然のなかで めにする昆虫は、標本のよう
なものだった」とかいてみたらどうでしょうか。きっとファーブルは昆虫記をかけ
ずじまいにおわってしまったことでしょう。

  百歩ゆずって、日本人「論」のようなものなら、教室でまなばれるものだと考
えることはできます。そして、この筆者は、電車のなかで、日本人「論」のための
有益な事例観察ができたので、「日本に きたおかげで教室で学ぶ日本人論の事例
観察の代わりができた」と思ったとしましょう。それなら、いいたいことは理解で
きなくもありません。しかし、それなら、うえにのべたように、ただ意外な面をし
ったというだけでは不十分なはずです。その原因にまでさかのぼって納得がいかな
くては、教室のかわりとはいいがたいのではないでしょうか。あるいは、このひと
は、教室で先生に矛盾する(たとえば「日本人は礼儀ただしい」と「日本の母親は
しつけをしない」のような)説明をきかせられて、困惑することに教室の意義をみ
いだしているのでしょうか。そこまで研究意欲と問題意識がたかい ひとだという
のなら、それはそれで立派なことですが……。

  この2点から、そもそも、「電車は日本人を知る教室」だという表現が、文章
のながれに即してかんがえても不適切なのです。不適切な表現について、「どうし
て」ですかと きかれても、まともこたえられないのは しかたがありません。
  わたしなら、

    筆者が、「知る」ことは 教室のなかでしか できないことだと
   おもっているから

と、こたえるでしょう。


  最後に。このような本文ができあがった理由についてです。これはあくまで想
像ですが、いちばんの理由は、日本人が外国人のふりをして書いたからです。つま
り、そのために自分のいいたいことを かくのではなく、「外国人ならこんなふう
にかんがえるかもしれない」という想像で作文をしているので、ことばのこまかい
ところに こころをこめられていない文章なのです。もし、自分の文章をかくのだ
ったら、「教室のようだ」という比喩をつかうときには、たとえられているイメー
ジのどこがどう「教室」と共通なのかを意識しながら、そういう比喩をつかうかど
うか決定するはずです。しかし、ここでは、「しることができる ばしょ」=「教
室」ということばのおきかえ以上のかんがえもなしに、ただ、既習文型の「ようだ」
をもりこもうとして操作をしてしまったのでしょう。そして、この教科書をつかう
教師たちも、執筆者のした操作をなぞるように[使いましょう]の質問をくりかえ
し、「しることができる ばしょだから」というこたえを無意識に強制してきてい
るのだとおもいます。
  しかし、慣用句となったものをのぞいて、いや、ときには慣用句でさえも、比
喩をつかうときにはその比喩が適切であるかどうかを自分のいいたいことにてらし
あわせて選択する必要があるのです。だから、ながくつかわれてきた慣用句でも、
その比喩のつかいかたが社会的な差別を助長するとかんがえられるものは、つかわ
ないようにするのが当然なのです。「教室のようだ」という比喩のつかいかたで、
そのひとのめざす教室観がでてくるのですから、日本語教師が日本語教育のために
かいたテキストでそういうことの吟味がされていないとしたら、それはやはり、問
題だといわなければならないでしょう。
[1998/05/10 12:38:40]

お名前: 中村 元    URL
中村 元と申します。

ここしばらくWWWから離れてNetnewsとNiftyの記事ばかり見て
いました(投稿も)。
最近ようやくこちらの世界(?)に戻ってきましたので、また
書き込みをさせていただきます。何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、私は『テーマ別 中級から学ぶ日本語』を所有していないため、
中味は見ていないのですが、秋月先生が引用された第4課の本文は、
読んでいてあまり気持ちのいいものではないですね。
「毎日利用する電車は、日本人を知るのにちょうどよい教室のような
 ものです。」などと言われると...
「教室」という言い方にもひっかかるものがありますが、電車という
特殊な状況下で見られる日本人の姿・行動というのも、あくまで日本を
知るための一つの材料にしか過ぎません。

これは半分冗談ですが、この人は駅のすぐそば(駅前等)に住んでいて、
学校(会社)も駅前にあり、勉学(仕事)があまりにも忙しくて、生活は
家と学校(会社)の間を往復するだけの毎日。日本人の行動をゆっくり
観察できるのは電車の中ぐらいしかない、などと余計なことを考えて
しまいます。

また、文章全体が、この著者の独善的な価値観を読者に押し付けて
いるようで、登場する日本人たちもあまりにステレオタイプすぎ、
気になります。

以下、特に気になった部分を列挙いたします。

1)「この間もきれいに化粧した若い母親が」
  
なぜ、「きれいに化粧した若い母親」とわざわざ書いたのでしょうか?
ここには、単なる描写だけではない何かがあるように思えてなりません。
著者の価値観が見えかくれしているようで...

2)「途中で大きい荷物を持って乗ってきたおばあさんがいたのに、
      立とうともしないので、あきれてしまいました。」

電車の中には他に乗客はいなかったのでしょうか? その人達は
おばあさんに席をゆずったのでしょうか、ゆずらなかったのでしょうか?
この人は立ってそれを見ていたのでしょうか、それとも座って見て
いたのでしょうか? 座って見ていたとしたら、なぜ自らおばあさんに
席をゆずろうとしなかったのでしょうか? 母親と子供達の様子をつぶさ
に観察できる位置にいたのだから、おばあさんのいた所からそんなに
離れていたとも思えません。それとも、おばあさんに席をゆずった上で
このように書いているのでしょうか? 気になります。
もし立っていたとして、席をゆずらない人達に一言「席をゆずってあげて
下さい」と発言することもできたはずなのですが...

3)「日本の若い母親の中には時々子供のような人もいます」

この「子供のような」というのはどこの国の子供と比較しているので
しょうか? 日本? それとも、この人の生まれ育ったところ?  
「このように」と書いたということは、「この事例に象徴されるように、
日本の若い母親のうちのある者は」と述べたいのだと思います。
はたして、「子供のような人」は「日本の若い母親のあるもの」だけなの
でしょうか? また、子供の中にも電車の中でお菓子を食べず、お年寄りに
席をゆずるものも当然いるでしょう。
「子供のような」は時としてプラスのイメージで使われることもありますが、
そのへんのところも練習問題等では Followされているのでしょうか。

4)「日本人は親切で礼儀正しいと聞いていましたが」

この状況設定で「親切」という言葉をもってくることは問題ないか
と思いますが、おばあさんに席をゆずるゆずらないは、はたして礼儀
正しいか礼儀正しくないかという問題なのだろうかという疑問が
わいてきます。そうではなくて、人間にとってもっと本源的なる何か
とかかわってくるように思うのですが...
 
5)「こんな母親や、こんな母親に育てられている子供たちを見ると、
   ちょっと心配になるのです。」

電車の中で子連れの母親を見るという機会がそんなに頻繁にあるとも
思えません。もし、この文章が日本での滞在期間がそれほど長くない
人物の手記という設定で書かれているとしたら、「日本の若い母親
の中には」という部分はどうにも不自然です。
それとも、日本では電車に乗っている子連れの女性が皆こうだとでも
言うのでしょうか?ここにも、やはり著者の価値観が見えかくれして
いるようで、釈然としないものを感じます。なぜ、若い母親だけなの
か? それにしても「こんな」はないでしょう。

と、まあ、このような感想を持った次第であります。
ちょっといじわるな見方をしてしまいました。
確かに電車の中で老人が立って、その目の前に元気いっぱいの子供や
若者が平気な顔して座っている、まさに「席をゆずってやれよ」と言い
たくなるような光景を目にすることもあります。
自分も気付かずにやっていたりして...
だとしても、日本語の教科者の場合はバランス感覚というものも
必要でしょう。あの文章では、「非があるのは若い母親だけ」と
言わんばかりです。

深読みのしすぎかなあ?

                          草 々
[1998/05/16 04:27:38]

お名前: 秋月 康夫    URL
 中村 元さん、フォロー、ありがとうございます。

 なんか、ヘンだとおもうのが、自分だけなんじゃないかと心配でした。でも、
中村さんは、わたしが、なんとなくヘンだと おもっていたことを、わたし以
上に的確に指摘してくだいましたね。

 さて。最初の投稿では、わざと かかなかったのですが、わたしは、どうか
んがえても、この文章は、日本人の筆者が自分でいいたいことを、文章の中で
想定されている筆者である外国人の口に語らせたものだとおもうんですよ。こ
れが、はじめから日本人がかいたものだとすれば、中村さんの指摘された点も、
「そういうことを言う偏見オヤジも、よくいるよな」(「きれいに化粧をした
若い母親が」などという特定のしかたをするのはオヤジだというのも偏見?)
で、すんでしまうことだと思うんです。教科書に載せる文章として適切かどう
かは別にして。

 で、わたしが一番気にいらないのは、どうしてそれを、来たばかりの留学生
かとも思えるような外国人が語っているようにしたてたのか、という点です。
なんか、こういうあからさまな“偏見”も、外国人なら少ない経験で決めつけ
をすることが多いから不自然じゃないんじゃないか、という意識が働いていた
んじゃないかと、感じられるんです。これは、うすうす感じている自分たちの
精神のいやしさを、「もっといやしい外国人だったら持っていても普通だ」と
いう、いやしさの2乗のような かきての てのこんだ偏見で、他者におしつ
けたものであると いえはしませんか? こういう言説の構造は、差別問題を
あつかっていると、けっこう頻繁にみられるものなのですが……。

 たしかに、ごく少ない経験で、「日本人は……」と決めつける留学生は、少
なからずいることでしょう。しかし、そこには、その人なりの知識や、自分の
知っている社会との比較からの類推など、その人なりの論理の前提となる背景
があるはずです。そして、その「背景」は、その人独自のものだから、むしろ
その「背景」を語らせることで「決めつけ」を双方向の異文化認識へと変えて
いくことができるのです。
 ところが、この文の筆者として想定されている「外国人」の論理からは、そ
ういう独自の「背景」が全然見えてきません。「日本人は礼儀正しい」という
のがきいただけの知識なのに、そのイメージがくずれたといってなげくだろう
か? 勝手にいいイメージだけふくらませて勝手に幻滅する人もいるかもしれ
ないけど、それで、「日本が心配」になるだろうか? こんなに単純に幻滅で
きるひとが、どうして「日本が好きですから」なんていうのだろう? むしろ、
この人が日本の社会に帰属していると考えたほうが納得できるような論理ばか
りなのです。簡単に言えば、「日本人の論理じゃないか!」ということです。

 ただ、このテキストも、深読みすれば日本の言論のある一面を教えるいいも
のかもしれません。日本人は、自分の口で自分のくにの社会を批判することが
不得意なのか、こわいのか、あるいはそれが自己矛盾と感じられるのか、はた
またそのほうが説得力があると感じるのか、外国人の口をかりて、自分の言い
たいことを言ったり、世論を誘導しようとしたりする風潮があるということ、
ときには、韓国人が自己批判をしているようにみせかけて韓国への罵詈雑言を
書く元国連大使のような人物までいて、その著書が未だにベストセラーとかな
んとか銘うって、店頭にならべられていたりするという、そういう事実がある
ことをよく示してくれているからです。

 そして、わたしも、この批判から免れません。中村さんが、「筆者はなぜ、
自分から席を譲らなかったんだ」とおっしゃいましたが、わたしも、この教科
書を自分の学校で使っていて、専任講師をしている間、つぶやき程度にしか問
題点を出そうとしなかったのですから。書こうと思えば、この上にある最初の
投稿ぐらいの文章は、いつでも書けたのです。この教科書について、この欄に
書いていることのほとんどは、最近になって急に気がついたことではありませ
ん。ただ、この教科書でずっとやってきた伝統にはむかうことになるのが、こ
わかっただけなのです。
 精神のいやしさは、自分も変わりませんね。 
 
[1998/05/17 10:53:04]

お名前: 鈴木登    URL
私は、専門外ですが、以前JICAの研修センターで日本語の先生の事務処理を一時
手伝って、ピンチヒッターとして(厳しい)特訓を受けた後、日本語を短期間教えたこと
があります。その程度のバックグランドですが、大変興味を持ってこの掲示板を読み
ました。

本題ですが、問題となっている文章は日本人が書いたことは確かなのでしょうか?
掲載されている文章を読みまして、女性の中国人だとこんな事を書くかもしれないなと私
は感じました。毎日が授業で追われている研修生が日本語の作文するときにに身近な
「教室」を例えに出すことは十分考えられることです。また、外国へ行きますと女性の化粧
の仕方が違うので、脈略に関係なく印象の強かった「化粧」に触れても不思議には思えま
せん。「あきれた」ところで文章が終わっているので、筆者が「おばあさん」に席を譲ったか
どうかはこの文章からでは議論できないと思います。もし、この文章の筆者は日本人で、
教材のために外国人が書いたものとして創作したとすると、逆によく出来ているな、と思い
ます。
しかし、稚拙な内容の文章を日本語の教材として載せることがいいのか、また問題のある
文章の内容を理解させるような設問が適切かという点では、疑問を感じます。
例えば、英語の場合ですが、日本人の書いた英語を教材にして英語を学ぶのは、ありえな
いことではありませんが、一般的に問題があると思います。文章の技術的な問題だけでな
く、文章の背景にある文化や発想も英語の大切な文章の要素だからです。
皆さんとは少し違った受け止め方をしましたので、こちらに書き込んでゆきます。ありがとう
ございました。
[1998/09/15 03:03:38]

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