この教科書は、執筆者がそれぞれ本文のもとになる文章を書き、その中から、
日本語能力試験によくでる文型を抽出したり、その中に文型をしのびこませたり
する作業をしたあと、文章全体の難易度順に課を配列して作られたと聞いていま
す。
1課あたり、提出される文型が4つぐらいということなので、そうなるように、
本文に含まれる新しい文型が調整されたことはよくわかります。しかし、その結
果、本文に無理が出たり、反対に、文型の提出順に無理があったりすることがあ
るようです。
このうち、本文に無理が出ているといわれる部分は、「どうも文章が不自然だ」
という程度だと思うので、私は特に重大な欠陥だとは思いません。しかし、文型
の提出順については、かなりおかしなところがあると思います。それは、どのよ
うな文型をどのような順番で出していくかを先に考えて作られていないからです。
たとえば、「〜つもり」の出し方を見ると、第7課の本文で、
1 「コーヒー一杯飲んだつもりで」と考えて、つい〔特急電車に〕乗ってしまう
という使い方が出ています。 (〔〕内は、筆者が補充)
これは、「〜つもり」の使い方としては、いちばん難しいもので、明らかにして
いないことを、したと想定して実際にしたことと比較衡量するという、思考の遊技
をするのに使われることばです。この使い方が本文にあるために、この課の「使い
ましょう」でも、
2 特別料金は500円だから、コーヒーを一杯飲んだつもりで、特急電車に乗った。
が、
3 やさしく言ったつもりだったが、「〜しなさい」と聞こえてしまった。
の前に練習することになっています。
こんなものは、教師が順番を変えればいいと言えなくもありませんが、より基本的
な使い方が最初に本文にでてこないのは、教科書の欠陥であると言わざるをえません。
初級で使用された教科書によっては、この段階で、
4 明日、海へ行くつもりです。
という使い方さえ未習の可能性があるのですから。
教える文型が設定される前に本文が作られていることの欠陥は、他のところにもあ
らわれています。第3課では、本文で、
5 お母さんは、お父さんがいない方が食事の用意が楽でいい、なんて言っていました。
とあるのに、この課の「使いましょう」で練習される文型は、
6 辞書なんてなくてもいいです。
という、同じ「なんて」でも、相当に違うものを練習させることになっています。これ
なら、本文を中心にしながら文型を学ぶという理念はないのも同然です。
この同じ3課では、「〜がる」も取り上げられていますが、これは、導入のための例
文としては、およそ不適切な文が、本文に書かれています。
7 もちろんこれは冗談で、本当はずいぶん寂しがっているんです。
という、上記 5に続く文です。
「〜がる」を教えるとき、一番大切なのは、感情の持ち主がその感情を積極的に表出
し、相手に伝えようとしている点です。時には、本当の感情と異なる感情を相手に認識
させようとして、ほしくないものをほしがって見せたり、軽蔑していてもうらやましが
ってみせたりすることがあります。「強がる」というのも、そういう使い方ですね。し
かし、この本文では、「本当は寂しいのに、強がっている」というのが正しい解釈です。
つまり、ここで述べられていることは、単純に「寂しがっている」のではなく、「ほ
んとうは寂しいのに寂しくないふりをしている。しかし、そんな見え見えの態度が、子
どもの自分には、かえって自分が寂しいことを訴えているように思えてならない」とい
う、極めて複雑な錯綜した感情なのです。こんな文を最初に提示されて、「寂しがる」
と「寂しそう」の違いを正しく理解できたら、その方が不思議というものです。
この部分に関する限り、日本語の中級教科書として失格だとまで言ってもいいと思い
ます。難解なのは許せますが、正しい理解を妨げるものを作ってはいけません。
こういうところが、修正されれば、もっといい教科書になると思うのですが、実際に
日本語学校で採用されて使われると、どうしてもそこにある教科書を前提に授業を組み
たてなければならなくなるので、今述べたようなことも、ある意味で「わかっていても
それだけ言ってもしかたがない」ことになってしまいがちです。なぜかというと、こう
いう部分を修正して使おうとすると、新しい教科書を作るのと同じようなことになって
しまうからです。
そういう意味では、教科書は慎重に検討して選ばなければならないのかも知れません。
[1998/04/23 09:24:22]