記事タイトル:「国語」と日本語 


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お名前: 鈴木登    URL
国語−日本語問題は、思いがけない、しかし心当たりのある面白い話題ですね。
私は、このHPをソクチョに興味を持って見ましたが、なかなか奥深いHPで意外な展開になりました。

実は、小学校の頃、どうして「国語」という名称なのか不思議に思っていました。「国語」は英語も中国語も
その国へ行けば「国語」になる訳です。どの国か限定しないとおかしいと感じていたように記憶しています。
多分、「日本の国語」なら納得していたと思います。で、「日本の国語」ではいけないのでしょうか?

「国語」だと古典が含まれるが「日本語」には含まれないというのは少し乱暴な議論だと思います。
「日本語」は外国人に教えるときに使う名称だというのは、なるほどと最初は思いましたが、よく考えると
議論の結論に合わせて定義しただけではないでしょうか?
例えば、「中国語」では古典をやらないかというと、そうではありません。初心者は学習しないというだけです。
「日本語」でも同じではありませんか?多数の受講者が初心者であるという現状を、「日本語」の定義かの
ように錯覚しているのではないでしょうか?
実際には、入門時において日本で育った人のための「日本語」と、海外で育った人のための「日本語」があ
るということではないでしょうか。ある程度進めば日本語を適切に運用する学習が必要です。「国語」は「日
本語」ではないという議論には、「外国人に”国語”は、しょせん分からない」という予断があるのではない
でしょうか?
私の知人にはフィリピンで家庭を持ち、子どもをフィリピンの学校で育てた人がいます。子どもの国籍が日本
人かどうかまでは知りませんが、その子にとって日本語は「国語」ではないのでしょうか?
「日本語」を使う背景には「日本語」は世界の多数の言語の一つという日本の外から見る視座があり、
「国語」には日本の中から見る視座があります。朝鮮では朝鮮語のことを、よく「私たちのことば(ウリマル)」
と言います。しかし、「国語」議論には「私たちの」という視点もなく、排他的に使う余地を残しています。
「国歌」と「君が代」の違いは適切な例えだと思いました。「君が代」だと、その意味から問われるが、「国歌」
なら「国の歌だから」で各論になることを防げるという詭弁的な手法に思えます。
[1998年9月12日 14時24分36秒]

お名前: 秋月 康夫    URL
 管理人の あきづき です。
 
 掲示板の構造上、新規の投稿があっても、きがつきにくいもので、1週間も
ほったらかしにしてしまいました。

 鈴木登さま、ご投稿、ありがとう ございました。

 朝鮮語や、束草に ご興味が おありとのこと、よろしかったら、ほかの
コーナーにも 投稿したり、メールをよこしたり、してください。

 わたしは、日本にいるひとに、「すんでいる くにの ことば」だという
意味で「国語」を おしえるのだと いうのなら、それは それで 一貫し
ているとは おもっているのです。 ただ、それなら、

  「国家語」:その地域の支配権力をかたちづくる国家のことば
  「母語」 :そのひとの第一習得言語
  「母国語」:そのひとが国籍をもつ国家のことば
  「民族語」:そのひとがアイデンディティをもつ民族のことば

は、それぞれ ちがう概念だと いうことを わきまえていなければならな
いでしょう。それを 前提に、教育のなかでの「国語」を どのように か
んがえていくのかが、とわれているのだと おもいます。
 いまの「国語」の 定義では、日本の国家権力のおよぶ範囲に、あたかも
ひとつの「母国語」が 自然に存在しているかのような 架空の前提にもと
づいた概念づけをしながら、その実は、中央のことばの 周縁への おしつ
けが なんの疑問もなく おしすすめられていると いわざるを えません。
 そうではなくて、地域・地域にすむ ひとびとの つかう ことばを あ
りのままに みとめることから出発して、その 権利を みとめたうえで、
現実に「国語」として機能している「日本語」を どのように とらえ、そ
れと どのように つきあっていくかを かんがえる 教科として、「国語」
が 機能するのであれば、それが理想的だと おもっています。

 そういう わたしの たちばからみると、「古典」というのは、「国語」
とも、「日本語」とも いえないものまでもを、「歴史をつらぬく ひとつ
の 日本語」という 虚構のものに まとめあげ、権威づけることによって、
一方では そこから はずれるもの(アイヌ語とか、琉球語とか、在日一世
たちの生活語とか)を 無視してもいいと ひらきなおれる装置にもなって
いると おもいます。
 もし、現代の わたしたちのことば としての 日本語のなかにある 古
典的な要素を あつかうのであれば、それと 同等に、外来語の由来や、方
言などの バリエーションも 位置づけられるべきではないでしょうか。   
[1998年9月19日 21時16分13秒]

お名前: 鈴木登    URL
「国語」の中に色々な意味が隠されているのですね。なるほど。
私にとって「国語」は「国家語」であった訳です。ですから問題は非常にシンプルだった
のです。「日本の国語」という意味で「国語」を理解できたのもそういう理由なんですね。
私の市にはたくさんの「在日」がいます。小学校のときは、クラスにひとりか、ふたりは
いました。その人たちには「国語」は「母語」でした。日本の「国家語」でもいいわけです。
しかし、「国語」が「母国語」かというと、そうではないと言われてしまう訳です。日本語
が「国語」であるためには国籍を変えないといけないことになりかねません。言語の問題
が思いがけないことになってしまいますね。

「古典」は現代日本語の元になるわけですから、やはり「国語」でいいとおもうのですが、
ひとつの流れではありません。ギリシャ語を習った人が、何千年もあまり変わらないこと
に驚いたという感想をかいているのを読んだことがあります。しかし、日本語は時代や
、時代によって変わる支配階層によって言語がおおきく違うのです。江戸時代の「国語」
で書かれた文章が、現代人には簡単に読めないというような言語はめずらしいと思いま
す。そういう意味でも「歴史をつらぬくひとつの日本語」とは言い難いのではないでしょうか。
国語・日本語問題は、思いもかけず自分の中で小学生の頃からもやもやしていたものを
少し整理する機会になりました。
[1998年9月21日 4時13分23秒]

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