記事タイトル:【感想のメール転載】「国語」と「日本語」 


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お名前: Yoshiho Sugaさん   
 メールで、この問題への感想が寄せられました。
ご本人が、掲載してかまわないとおっしゃいましたので、
転載いたします。−−−−−−管理人。

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Subject: 
         「国語」と「日本語」問題に ついて
   Date: 
         Thu, 28 May 1998 18:38:15 +0900
  From: 
         Yoshiho Suga 
     To: 
         akizuki@chollian.net


はじめまして。パイザさんのHPから飛んできたものです。住んでおられる地域
の観光情報だけではなく、現在の韓国情勢や「在日」、そして日本語教育と非常
に多くのテーマを扱っておられる上に、それぞれが充実しているので驚きました。
私は日本語教師ではありませんし、正式に日本語を教えたこともありませんが
(認定試験は合格しましたが・笑)日本語教育や「在日」の問題に関心がありま
すので、興味深く読ませていただきました。


ところで、壁に

> この問題について「日本語」教育に携わる
> 人が多く集まる場所で訴えたのにもかかわらず、ほとんど反応がないことの理
> 由を考えているうちに、あることに気がついた。

ということで、先生は日本語教師は国語と日本語の差に無関心なのではないかと
いうことを書いておられますが、「国語教育」と「日本語教育」は本来別物であ
ると思っているので、看板の書き換えに冷淡なのだとは考えられないでしょうか?

先生のHPにも書いてありますが、国語教育と日本語教育はそもそもの組み立て
が違います。伝統的な国語教育は日本語を母語とする者を対象に行う教育で、例
えば活用を教える場合にも「「歩く」に「ない」をつけるとどうなりますか?そ
の形を未然形というのですよ」というように、その言語の文法規則を身につけて
いることを前提にしています(地方ではそうはいかないでしょうから、方言と
「教科書の言葉」の二本立てになってしまいますが、テレビ・ラジオの影響で標
準語が十分普及していますから、「・・・地方で話される標準語」程度には標準
語が理解できているはず)。それに対して日本語教育は文法を知らない非日本語
話者を対象にしているので文法の説明も言語史にあまりこだわらずに、外から見
て理解しやすい組み立てになっているはずです(例えば形容動詞を語尾変化の一
種としてまとめてしまうとか・・)。そして、現在学校で「国語の教師」によっ
て行われている授業はあくまでも国語の授業であって日本語の授業ではありませ
ん。今後、日本の学校に通う非日本語話者の数が増えれば国語の授業を日本語の
授業に変えていく必要もあるでしょうし、標準語と異なった文法をもっている地
方(九州の鹿児島方言は文法的にも標準語と異なる点があったと思います)など
では日本語の授業の方がいいのかもしれませんが、公立学校の場合文部省の検定
済み教科書を使用しなければいけないということもありますし、受験対策の問題
もありますから授業内容の変更を教師・生徒(日本語話者の)が望むとも思えま
せん。今回の問題は、単に看板だけをかけかえるだけで、その看板の差の捉え方
も「国史が日本史に変わったんだから、同様に国語も日本語に変えるべき」とい
うようなことで(資料の方を読んでませんので詳しくはわかりませんが)、「
「日本語教育」を行う必要が増してきたから今後は「国語教育」ではなく「日本
語教育」を行う。そして、それにふさわしい教科名として「日本語」という教科
名を採用した」ということではありません。まあ、「国語」という教科名が「日
本語」に変わることで、国籍と母語と国家語の関係を教師や生徒が考えたとすれ
ば、それはそれで意味があったと思いますが・・。

また、日本語の授業の名称として「国語」と「日本語」と、どちらがふさわしい
かということについては、私は国語でいいと思います。日本という国家が標準語
として日本語(の東京方言+α)を採用しているのですから、国家語としての日
本語(標準語)は存在しているわけです。あえてそれを否定する必要もないでし
ょう。他国の例を見ても、例えばインドは多民族多言語国家ですが、国語として
ヒンディー語が定められてますし(独立直後はヒンディーと英語が国語でしたが)、
日本の朝鮮学校でも朝鮮語を「国語」として教えています(それはそれで事情が
あるでしょうが)。日本語を母語としない生徒がいても、習う生徒が「これは、
日本で国語と呼ばれている言葉だけど、私の言葉はこれとは違う」と思っていれ
ばいいだけの話です(もちろん、教師や学校は生徒が自然にそう思えるような環
境を整える努力をしなければいけません)。

以上、思いつくままに書いてみました。乱筆多謝。
[1998年5月31日 8時50分25秒]

お名前: 藤田修司   
 広島大学で国語教育学を学び、現在高校で国語教師をしているものです。このテーマには興味がありましたので、投稿します。
 広大には「教科教育学科国語教育学」(略称「教国」)と「日本語教育学科」(「教日」)の二つがあり、学問として明確に区別がされています。
「教日」はあくまで、語学としての「日本語」を外国人に教えるための授業のあり方を模索する学問であり、
「教国」は「日本語」を日常語として修得(もちろんレベルに差違はありますが)している学習者を対象に、
その運用力を高めるとともに、言葉の教育を通じて学習者の思考力・想像力などの諸能力を発達させて
いくことを目的とした授業をいかに組み立てていくか、ということを考えています。つまり対象と目的が
両者では全然違うのです。(もちろん日本語によって生み出された文化を享受するという視点もあります)。
そういう意味から、我々はこの二つを明確に区別して(もちろん重なる部分もありますが)学問を組み立てて
きました。そんな立場からしてみると、「国語」を「日本語」に変えろという主張には、違和感を感じざるを得ません。
うがった見方をすれば、「読み書きを教えればそれでいいんだ」という偏狭な
(でもありがちな)「国語」教育観さえ
感じられてしまいます。我々は「日本語の授業で「国語の授業」を終わらせないために何をすべきか」を
ずっと考えてきたのですから、そうした考え方にはとても承伏できません。
もちろん「単なる用語の問題じゃないか」と言う意見もあるとは思います。でも、やはりことの本質にかかわる以上、
そんなに簡単にすませられないのです。
(それでも「国語」という用語がダメだと言われるなら、「日本語」とは違うもっと適切な新しい用語を作って欲しいですね)
 これを読んで下さった、特に国語の先生、どう思われますか?
[1998年7月1日 1時5分29秒]

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