記事タイトル:【転載】「国語」は「日本語」ではない 


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お名前: 藤田 修司さん    URL
《 以下の投稿は、このまえの【感想のメール転載】「国語」と「日本語」の
 スレッドにレスポンスとして1998年7月1日に投稿されたものですが、内容が
 独立しているので、管理者の責任で 独立した投稿として ここに転載しま
 した。
  なお、その際、管理者がタイトルをつけ、改行と段落がえの位置を整えた
 ことを おことわりしておきます。もとの文章はそのままにしてありますの
 で、ご了承ねがいます。
 
                         −管理人: 秋月 康夫 》



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 広島大学で国語教育学を学び、現在高校で国語教師をしているものです。こ
のテーマには興味がありましたので、投稿します。

 広大には「教科教育学科国語教育学」(略称「教国」)と「日本語教育学科」
(「教日」)の二つがあり、学問として明確に区別がされています。「教日」
はあくまで、語学としての「日本語」を外国人に教えるための授業のあり方を
模索する学問であり、「教国」は「日本語」を日常語として修得(もちろんレ
ベルに差違はありますが)している学習者を対象に、その運用力を高めるとと
もに、言葉の教育を通じて学習者の思考力・想像力などの諸能力を発達させて
いくことを目的とした授業をいかに組み立てていくか、ということを考えてい
ます。つまり対象と目的が両者では全然違うのです。(もちろん日本語によっ
て生み出された文化を享受するという視点もあります)。

 そういう意味から、我々はこの二つを明確に区別して(もちろん重なる部分
もありますが)学問を組み立ててきました。そんな立場からしてみると、「国
語」を「日本語」に変えろという主張には、違和感を感じざるを得ません。う
がった見方をすれば、「読み書きを教えればそれでいいんだ」という偏狭な
(でもありがちな)「国語」教育観さえ感じられてしまいます。

 我々は「日本語の授業で「国語の授業」を終わらせないために何をすべきか」
をずっと考えてきたのですから、そうした考え方にはとても承伏できません。
もちろん「単なる用語の問題じゃないか」と言う意見もあるとは思います。で
も、やはりことの本質にかかわる以上、そんなに簡単にすませられないのです。
 (それでも「国語」という用語がダメだと言われるなら、「日本語」とは違
うもっと適切な新しい用語を作って欲しいですね)

 これを読んで下さった、特に国語の先生、どう思われますか?
[1998年7月26日 16時0分43秒]

お名前: 秋月 康夫    URL
藤田修司さま

「イカの足通信」管理人の秋月ともうします。

「掲示板:国語⇔日本語問題を考える」への ご投稿、ありがとう
ございました。

 掲示板の構造上、すでに投稿されている部分へのレスという形を
とりますと、目立ちにくいもので、最近、チェックをおこたってい
たため、お返事が おくれました。3週間ちかく なんの応対も
いたしませんで、失礼したこと、おゆるしください。

 ご意見、拝見しました。

 わたしの見解はすでに およみのことと思いますが、わたし自身
が、「国語」「日本語」でいえば 「日本語」ばたけの人間なので
「国語」じゃなくて「日本語」なんだという 議論には なれした
しんでいるのですが、反対に「国語」のがわに いらした藤田さん
が「日本語」じゃなくて「国語」なんだという部分があるのでした
ら、もうすこし「こんなところだ」と、説明していただけると議論
がふかまると思います。

 「日本語学」のひとは、国語学から自分たちを区別する気持ちが
つよいのですが、かんがえてみれば、「国語学」のひとたちにも、
「日本語学」じゃないんだという意識があっても不思議じゃありま
せんよね。あたりまえのことですが、わたしには盲点でした。

 ただ、

  「国語」を「日本語」に変えろという主張には、違和感を感じ
  ざるを得ません。うがった見方をすれば、「読み書きを教えれ
  ばそれでいいんだ」という偏狭な(でもありがちな)「国語」
  教育観さえ感じられてしまいます。

と いうのは、「日本語学」に対する それこそ偏狭な理解にもと
づくと いわなければなりません。わたしは日本語教師として、「
読み書きだけ教えている」つもりは ありませんので、この点だけ
は指摘しておかなければなりません。
 わたしの過去の「壁」の記事など参照されれば、むしろ、「国語」
という わくぐみをはずれて、「日本語」としておしえることで、
異文化理解をふくむコミュニケーションの手段としての言語という
面を強調することになるのだという主張が もとになっていること
が おわかりかとおもいます。それへの賛否は問いませんが、それ
をふまえて ご議論いただけると、光栄です。

 そのうえで、

   我々は「日本語の授業で「国語の授業」を終わらせないため
   に何をすべきか」をずっと考えてきた

と いわれる部分は なんなのか、具体的にしりたいのです。「日
本語」ではない「国語の授業」とは、どういうことをさしているの
でしょうか。


 追伸:うえの原稿をかいたあと、藤田さんが、「国語」教育について、

    ・「日本語」を日常語として修得(もちろんレベルに差違はあり
     ますが)している学習者を対象に、その運用力を高めるととも
     に、言葉の教育を通じて学習者の思考力・想像力などの諸能力
     を発達させていくことを目的とした授業
     
    ・日本語によって生み出された文化を享受する

   という記述をしていることに気がつきました。しかし、わたしの認識
   では、そのことこそ、日本語を母語としない日本語学習者に対する日
   本語教育においても、もとめられていることなのです。わたしの意見
   がそういう認識からでてきているということも、心にとめておいてい
   ただけると、さいわいです。    
[1998年7月26日 16時9分38秒]

お名前: 藤田修司   
 秋月さん、ご丁寧なレスをいただき、ありがとうございました。

 最初に述べておかねばなりませんが、私個人は「日本語教育学」を修めた
わけではありませんので、「日本語教育」の現状に関する認識などについて
は、不理解な点(及び誤解している点)が多々あると思います。その意味で、
もし前回、心外に思われるような発言がございましたら、謹んでお詫びした
いと思います。また、それと同時に、こうしたやりとりを通じて、自分の知
らない「日本語教育」の実状について学ぶことができたら、大変喜ばしいこ
とと思います。

 では、前回の秋月さんのご指摘をふまえた上で、もう少しこちらの意見を
言わしていただきたいと思うのですが、まず「国語教育」が具体的な教育内
容として何を内包しているか、という点をまずおさえておきたいと思います。
現在、普通の高校では、ご存じの通り、「現代文(文学的文章・論理的文章)」
「古文」「漢文」の三つの「読解」を柱に、「文法」「表現」「語彙」をあ
わせる形で、「国語」の授業は行われています。これらの学習を通じ、「日
本語」の「運用力」を育て、日本語によって生み出された「文化」(もちろ
んものの見方・考え方も含みます)を享受させるのがその基本的な目的です。
 ここでいう、「運用力」は単に「日本語」を正確に「理解」し、適切に
「表現」することができる力、という意味にとどまりません。同時に「日本
語」をもとに深く「思考」を組み立てていく経験と鍛錬を積ませることも
「国語」の授業の大切な柱です。
 たとえば、「文学教育」ですが、人によって意見に差はありますが、大筋
としては、一つの作品を深く読み込むことを通じて、学習者の認識を変革し、
作品の内容を一つの典型としてとらえる中で、自らと自らを取り巻く世界に
対して問題意識をもって考えさせる点を目的としています(もちろん論説文
の授業もそうなのですが、「文学教育」の方がよりこうした目的が表に出て
くることになります)。
 また、「古典教育」に関してもそうです。「古典」は我々の日常言語では
(基本的に)ないため、ともすれば必要ないように言われますが、古典世界
の物の見方・考え方を学ぶ中で、今の日本人の姿を相対的に考えていかせる
(たとえば、時代をこえて受け継がれてきたものは何か、時代と状況の中で
変わっていったものは何か、などといった視点です)意義深い科目だと考え
ています。
 このように言っていけば、我々の目指すところが「日本語」の修得ではな
く、母語である「日本語」を適切に運用させる中で「いかに学習者の認識を
深化・変革していくか」にある点を理解していただけるのではないかと思い
ます。私のような浅学の身が「国語教育」を代表するかのような発言をする
のは非常に不遜なのですが、少なくとも自分はこのようなことを大学で学び、
実践しているつもりです。
 
 ただ、もちろん「日本語教育」の方がこうした点をまったくふまえていな
いで単に「言語」だけを教えているなどとは考えていません。ですが、それ
はやはり(失礼な言い方になるかもしれませんが)レベルが違うのではない
でしょうか? たとえば、自分の受けた英語教育をもとに考えてみますと、
やはりメインは明らかに「言語」の修得におかれていました。もちろんアメ
リカ的な考えについて色々学べて面白かったですが、深く読み込むというい
わゆる文学的なものではなかったと感じています。
  ここら辺について、どう思われるか、また意見をお聞かせねがえればと思
います。

 わかりにくい点も多々あるとは思いますが、一応、このような形でお返事
させていただこうと思います。それでは。

P.S. 素朴な疑問として、日本語教育では、古文・漢文は扱われるの
   ですか?
[1998年7月30日 22時22分25秒]

お名前: 秋月 康夫    URL
 藤田さん、お返事、ありがとうございました。

 日本語教育で古典をあつうことは、まずないと おもいます。あつかったと
しても、その時点で すでに「日本語教育」のわくを はずれているともいえ
るでしょう。

 おっしゃること、よく わかりました。

 レベルの差は、たしかに あるでしょうね。ただ、レベルの差だけじゃなく
て、質がちがうところで、けっこう、おなじようなことを めざしているよう
な気もしました。
  
  「古典」は我々の日常言語では(基本的に)ないため、ともすれば必要な
  いように言われますが、古典世界の物の見方・考え方を学ぶ中で、今の日
  本人の姿を相対的に考えていかせる(たとえば、時代をこえて受け継がれ
  てきたものは何か、時代と状況の中で変わっていったものは何か、などと
  いった視点です)意義深い科目だと考えています。
    
というところで、「ははあ」とおもったんですが、「今の日本人の姿を相対的
に考えていかせる」という意義づけは、むしろ「国語」じゃなくて「日本語」
として そとから日本語をみる視点をやしなうことで 自分たちの言語を相対
的にかんがえていけるのではないかという わたしの発想にもつながるところ
があるような気がします。古典については、えてして「日本人としての連続性」
のほうが強調されがちなイメージをもっていましたので。

 わたしのことばづかいで、強引に藤田さんの おかんがえを表現すると、
「母語としての日本語教育」というべきような気もします。「非・母語として
の日本語教育」と、「母語として」の それは、当然 区別されなければなら
ない面がありますよね。そこのところの議論と、この場で問題にしようとした、
「国語」なのか「日本語」なのかということと、わたし自身は、区別して論じ
たいというかんじなんですが、これは あくまで わたしのことばづかいによ
る強引な整理ですから、藤田さんには おそらく抵抗が おありのことと お
もいます。

 あるいは、「国語」という わくでも、このように進歩的な目標をかかげて
がんばっておられる先生がいらっしゃるわけですから、わたしのほうが、勝手
に「国語」にせまくて貧困なイメージをあてはめて 非難していただけなのか
もしれませんね。 
 #  藤田さんが英語教育の例をあげたように、わたしも、「国語」という
  と、重箱の隅をつつくような漢字のよみかきや、古語や四字熟語の暗記に
  大部分がしめられていたようなイメージがあったのは事実です。


 でも、……。藤田さんのように言語活動やを重視し、「学習者の認識を深化・
変革していく」ことを大切におかんがえなら、「国語」ではないほうがいいよ
うな気がする……と、いうのは、それが学習者の主言語だから大切なのであっ
て、国家のことばであるからではないはずだからです。


 また、気がむいたら、ご投稿ください。
 このテーマからはずれるようなことでしたら、「つぶやき会議室」というの
もありますので、なんなりとどうぞ。
[1998年8月2日 1時4分50秒]

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