(1999年1月16日から)

日本語授業日記のコーナー

以下の用語には注釈があります。 以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記
1.ハンガナ

1.束草の紹介 1998.4.3 試験の準備には
1998.4.7 一時間3本立て
1998.4.8 動物の絵
1998.4.12 なりすまし自己紹介
1998.4.13 「なくす」と「なくなる」の対立
1998.4.14 「こわそうです」
1998.4.16 「南の方」と「南側」
1998.4.19 良子さん、いらっしゃいますか
1998.4.21 親しい人との会話
1998.4.26 漫画の解釈
 
 過去の日記リスト
 
 最新の授業日記


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


1998.4.26  漫画の解釈

   「試験対策」のクラスは、試験対策にこだわらず、自由にメニューを組んでよくなった。そこで、いろいろと楽しい授業を工夫したいところなのだが、なにしろ、夜、一番遅い時間のクラスなので、準備万端というわけにはなかなかいかない。

  木曜日と、金曜日は、『中級で学ぶ日本語』の第一課を少ししていた関係で、猫の話をした。

  教材は、「韓国からの"new"トホホページ」にある、「復活 がんばれ! オカムーミン」の[その5 猫]の文章と漫画を使った。執筆者の「オカトホ」様は、実は、韓国で出版されている良質の日本語教科書の執筆者でもいらっしゃる、とてもエライ方である。

  この”猫”編の漫画と、”その6 ジェットコースター”編の漫画を見て、物語を作ってもらった。その作品のうち、一人のものを紹介しよう。

  高校1年生の女の子の作った話。

もとの絵はそんなふうに見えないところもあるけど、物語を作って話してしまう能力は、大人になるほど失われてしまうと思わされた。

  言語教育理論で、「幼児化」というタームがある。言語学習においては、学習者の精神状態を幼児のようにするのが理想で、教師は、大人の持っている精神的なバリアを解くように誘導しなければならないと言う主張の中で使われる言葉だ。一方で、「大人の学習者を子ども扱いするな」という人もいる。日本の学校の現場では、後者の方がよく言われていることかも知れない。どちらも間違いではないのだろうけれども、前者が重要視される部分と、後者に気を付けなければならない部分は、異なっているはずだ。その区分けが大切だと思う。
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1998.4.21  親しい人との会話

  引き続き、文化初級日本語の第24課。ここの単元は、「親しい人との会話」

  この教科書で、この単元が、ほかの教科書に比べて後ろにある意味が、やっとわかった。

  「親しい人との会話」とは、基本体
(他の日本語教科書では「普通体」。つまり、「です・ます体/敬体」に対する「だ体/常体」のこと。)
での会話を意味する。『新にほんごのきそ』のような他の教科書では、この基本体が導入される最初の時点でこの単元があるが、文化初級では、基本体を使った文型がひととおり終わってから出てくる。これは、理にかなっている、と思う。

  一見、基本体がそのまま、「親しい人との会話」に使えるので、そこで教えてしまおうと考えがちなのだが、実際にやってみると、終助詞の処理など、複雑な要素がある。そのうえ、「〜んです」のように、会話では頻繁にでてくる形が未習では、その基本体「〜んだ/〜の」)での会話も教えられない。「親しい人との会話」なのに、「ね」「よ」もなく、「〜んだ」「〜の」も使えないとすると、会話がとてもぎくしゃくしてしまう。その点、この提出順なら、かなりの練習ができるのだ。

  しかし、きのうは、失敗してしまった。上に書いたようなこともあまり認識せず、基本体ができているから、やらせればすぐできるだろうと思って、簡単に導入しようとしたら、受講生たちが全然ついてこられなかった。今日は、ひとつひとつ、簡単な応答を作って、

    「行く?」「うん、行く。」「あなたも行く?」「ううん、行かない。」

というところから丁寧にやりなおした。けっこう、楽しい。

  こういう会話の練習は、あまり必要でないといういけんもある。外国人の場合、ていねいな話し方からマスターしていけばいいという考え方だ。ただ、一方で、こういう練習をとおして、イントネーションをつけたり、情意的な要素をとりあげたりできることは、他の項目の学習にも役立つだろう。ていねいな形だけでは、表現できない要素があるし、自分が話すときの形ではないとしても、聞き取れなければ困る場面もある。ドラマで勉強する人が増えていることでもあるし、この項目の教え方はもっと研究しないといけないと思った。
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1998.4.19  良子さん、いらっしゃいますか

  文化初級日本語の第24課に、電話をかける場面がある。

とある。教えていて、実際は

と言うことも多いと指摘したのだが、すこし反応がにぶい。それで、もう少し受講生に聞いてみた。

  実は、自分でも以前から気になっていたのだが、韓国の家に電話して、

と言うと、

という反応がめずらしくないのだ。韓国人の電話のかけ方を観察すると、かける方も、そういう聞き方はせず、

ということが多い。私のような聞き方は、まどろっこしいのだろうか。

  
論理的には、いるかいないかを確かめなければ、「かわってくれ」とも言えないはずだが、だから韓国語が変だともいえないだろう。ひとつの言い方で、「いるかいないか」ということと、「いたらかわってくれ」と言うことが表現できるのなら、それはそれで便利なことだ。

  そこで思いだしたのだか、韓国語では、
「誰かいますか」「誰がいますか」の差がはっきりしていない。これを教えるとき、ただでさえ、「か」「が」の発音が難しいのに、両者を聞き分けなければならないということを理解させるのに骨がおれるのである。でも、「誰がいますか」で、「いるかいないか」ということと、「いたらそれが誰なのか」と言うことが表現できるのなら、それでいいのだろうし、実際、韓国語を話す人がそんなに困っているわけではないのである。
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1998.4.16  「南の方」と「南側」

  すでに絶版になっている、韓国の有名「学院」製作の教科書。今は、午後8時のクラスでだけ使っている。

  何かおかしいと思いながら、適切に訂正できないでいた箇所がある。

これだと、済州島は、韓国ではないような印象を受けてしまう。さらに、「済州は、行政区分としての、「北海」のである。「美しいというのだから、「済州と書くのが適当だろう。

  「南の方」「南側」の違いは、言われてみれば明らかだ、と思うのだけれども、正直に言って、きのうまで、「南側」と訂正すればすっきりするということに、自分自身、気がつかなかった。なんか変だと思いながら、「この”南の方””の方”をとって、”南”だけでも十分ですよ。」ぐらいにしか、コメントせずにいたのだった。

  わたしは、書かれたテキストを見ると、つい、それを最大限に肯定するように見るくせがある。以前の学校では、それをとらえて、「秋月は誤用に甘い」と言われたこともあった。これは、学習者の作文をいじって、意図と違うものを作ってしまわないようにするという慎重さを持ちたいからなのだけれども、今回のように教科書の本文を検討するときには、少しでも不自然な部分は見逃さない目が必要である。そうすることから、普段は隠れていてわかりにくい、学習者の誤用の原因が発見できるのだから。

  しかし、逆に考えてみると、この絶版になった教科書は、いろんなことを教えてくれる。日本人が書き下ろしたものだったら、ありえないような種類の”まちがい”がまだまだあるからだ。もっとちゃんと分析して、どこがなぜ、不自然で、どう直したらいいか指摘できるようになれば、かえってこういう材料を使いながら授業をするほうが効果が上がるかも知れない。おそらくは、日本語に習熟している韓国人の先生が書いた本文なのだから、そのまちがいは、初級段階であらかじめ注意しておかなければならないことがまだまだたくさんあることを教えてくれるはずだ。

  参考までに補足しておくが、韓国語では、「南の方」「南側」も、なm.*ちょk】と言うので、受講生に確認した限りでは、両者を日常語でうまく区別できる簡便な表現が見あたらないと言うことであった。
  また、「島」も、「道」も、韓国語では、.ト】であるので、漢字表記をしない限り、ふつうの韓国語の表記(ハングル)では、「済州島」「済州道」は同じになる。 top メール 感想 投稿 


1998.4.14  「こわそうです」

  先週の朝の授業。『文化初級日本語U』。

  『楽しく聞こう』という、準拠聞き取り教材を使った。いろいろな絵が書いてあり、

などということばを聞いて、該当する絵を選んでいく。

  「そうです」の練習としてはそれでいいのだけれども、これをしていると、形容詞の意味の複雑さをつくづく感じてしまう。

  「うれしそう」「うれしい」は、観察対象になっている人物の感情である。しかし、「こわそう」「こわい」は、人物を観察している自分がその人物から受ける感情である。
  ふつう、「うれしそう」と同じような構造を持った意味で、「こわそう」とは言えない。「こわいみたい」と言うしかないだろう。そもそも、この”様態”を表すと言われる「そう」は、名詞につかなかったり、動きを表す動詞につくときと、感情の形容詞につくときと、形態を表す形容詞につくときでは、付加される意味がかなり異なっている。「かわいい」のように、使いたくても使えない場合も多い。ひとことで言って、一般性を欠いているのである。だから、私はこれは助動詞ではなく、な形容詞(形容動詞)を生成する接尾語だとしたほうがいいと思っている。

  これらの”様態”を表すと言われる「そう」の共通点は、その時点で真偽を直接確認できないことだろう。「雨が降りそうです」「火が消えそうです」などの場合を含めて、

という意味にとれる。それなら、「あの男の人はこわそうです」の場合は、「あの男の人はわたし(たち)にこわい気持ちをいだかせるような人だろうと思うが、まだわからない」ということなのか。だったらそこまで推測できるのに「まだ、わからない」のは、なぜだろう。写真しか見ていないからか。遠くで見ているが、直接交渉がない状態だからか。……それとも、「人は見かけによらない」という建て前を言葉にすることでワン・クッションおいて婉曲表現にしているが、実のところ「こわいから近づきたくない」というのと同じ意味なのだろうか。 top メール 感想 投稿 
  


1998.4.13  「なくす」と「なくなる」の対立

  先週の夜の「試験対策」の授業。実際は、初級後半の文法を扱っている。

  「自動詞」と「他動詞」の対立を扱う。『日本語初中級』という教科書は、こういう文法項目を、専門的な立場からよく吟味して作られているので、安心できる。

  日本語には、形態的に類似した「自動詞」と「他動詞」の対立がある。これは、英文法でいう自動詞・他動詞というのとは、文法体系の中で意味することがずいぶん違う。英文法では、直接目的語をとるか、とらないかということに焦点が当てられている。つまり、実際は対象となる名詞を必要とする、似た意味の動詞でも、前置詞が必要かどうかで、「自・他」が分かれる。一方、日本語教育で「自動詞」・「他動詞」を意識して教えなければならない理由は、外見的には同じか、類似した現象を、話し手がどのようにとらえ、どのように表現するかということにかかわって、それらが使い分けられる点である。

  一般に、

    A:ドアを開ける / B:ドアが開く

の二つの形式は、「意志的動作」と、「状態の変化」であると説明される。自動ドアであったり、ドアが壊れていて開けられない場合などは、AとBの一方が成り立ち、一方が成り立たないことがあるが、普通は両方がともに成立する場面が多い。しかし、厳密にはAの開始時期はBに先立つから、

    A:お湯をわかす / B:お湯がわく

の場合は、AとBの成立時点に、タイムラグができることになる。(完成時点は同じ)。

  この項目を教えるときに、いちばん大切なことは、「自動詞」といっても、「起きる・寝る・働く・休む」など、人を主語にとる"動作自動詞"は、排除しておかなければならないということである。わたしは、そもそも、動詞を「自動詞」と「他動詞」の二つにしか分類しないことが誤解を招いてよくないと思う。ここで教えている「自・他」の対立は、「を」格の対象をとるかどうかではなくて、動作主の意志を明示するかどうかの対立なので、「自」の側には、変化を表す無意志動詞だけを入れるようにしないとつじつまが合わないのだ。便宜的には、自動詞を意志動詞と無意志動詞に分けて、3分類にした方が教えやすいと思う。

  ところで、

    A:財布をなくす / B:財布がなくなる

の対立は、どうだろうか。これは、「意志的動作」と、「状態の変化」であると説明してはおかしなことになる。意志的に「財布をなくす」というのは、どう考えてもへんだからだ。

  これは、財布の持ち主と、なくしていた時に財布を預かっていた人物が違うとき、なくした責任者である、預かっていた人物を明示するかどうかの違いとして現れる。「意志」というタームだけでは切れない事例である。ひとつひとつのペアにあたっていくと、こういうものはけっこうある。やたらと類型を増やすのではなく、しかし、無理もないような、「自・他」の対立の意味用法における役割の記述が求められるところである。そうでないと、それに基づく練習も、部分的にしか適用できないものになってしまう。
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1998.4.12  なりすまし自己紹介

  8日の昼。商業高校の課外活動の2回目。宿題にしていた自己紹介をする。
しかし、全員が同じ高校で、歳も同じなので、変化がない。使う語彙も似かよってきてしまう。

  そこで、テレビ番組の雑誌や、ファッション雑誌から人の写真を切り抜いて、それをひとつひとつ割り箸にはりつけ、袋に入れて見えないようにし、ひとりひとりに一つずつとらせた。その人物になりすまして自己紹介するようにしたのだ。

  全体的には企画は成功だった。全員に話させることができたし。ただ、写真が中途半端だった。ある人は有名人で、名前も全員が知っている。ある人は無名な人。あるものは、動物に近い顔が書かれていた。

  学生の気持ちがほぐれていて、もう少し使える言葉があると、いろいろと冗談が言える設定になっていたのだけれども、まだまだ、全員、「正解」を言おうとして黙ってしまう。「正解」じゃなくて、「自分」を表現してほしいのだけれども……
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1998.4.8  動物の絵

  かつて書いた6色のツルとともに、この「学院」に来てから、使い続けている教材がある。動物の絵である。

  もともと、束草に来てすぐの授業で、受講生ひとりひとりに描かせたものだが、新しいクラスで、準体助詞の「の」を導入するときなどに、また、描いてもらって、だんだん増やしていった。

  上手なものもあれば、下手なものもある。描いてもらった後で私が色をつけたり、初めから色つきで描いてもらったりしている。今では、絵教材として、いろんな場面で使うことができるようになった。

  準体助詞の「の」とは、

      Aさんの絵は、あの黄色いのです。

と言うときの、「黄色いの」「の」のことである。ごくごく入門期の日本語であっても、実用的な会話をしようと思うと、

      わたし本です。
      わたし
      です。
      黄色い
      です。

の、三種類の「の」は必須である。そして、ちゃんと区別をしていないと、大変なことになる。

  動物の絵は、ひとりひとりに描いてもらうことで、この三種類の「の」の実際の会話に近い形での練習に活用できるようになる。形容詞や比較を導入するときにも再利用できるので、大切に保管するようにしている。
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1998.4.7  一時間3本立て

  4月3日の日誌で書いた、名称は「試験準備クラス」だが、実力のそろわないクラスは、一時間3本立ての授業をすることにした。

  今後も、受講希望者が来るかもしれないので、1級対策として、聴解問題を20分する。聴解問題をするのは、実力の足りない受講生でも、スクリプトを与えて読ませることならできるからである。状況に応じて、できる範囲で参加させることが可能である。

  昨日は、『これで大丈夫! 日本語能力試験1級聴解問題』というカセットブックの最初にあった、

   きれいじゃないときれいじゃないはおなじじゃない

というところを少しだけした。名詞や形容詞の原形につく「じゃない」は、アクセントによって意味が正反対になる。その練習だ。

  こういうことは、筆記問題で1級に合格するような人でも、できないことが多い。それでいて、初級の受講生でも、意味が十分に理解できる練習だから、いっしょにするのには適している。そういう都合のいいテーマが、いつまでも続くわけではないが、全員が参加意識を持てるテーマをしていくうちに、同じクラスで勉強していくための信頼感が生まれれば成功である。

  次に、まだ初級レベルの人のために、自動詞/他動詞の授業をやり直す。これも20分のつもりが、結局延びて、三つ目のメニューができなくなってしまった。動詞の自他については、韓国語で書かれた文法書にも必ず載っているが、ペアをいくつも覚えるのは至難の業である。まして、どのような時に自動詞文を使い、どのような時に他動詞文を使うかの選択は、単純な文法の変換規則とは別の問題であるから、細かく練習しなければ理解も習得も難しい。これなら、レベルが上の受講生も、いっしょに勉強しなければならないという意識が出てくるだろうと思ってのことである。
  これは、[動詞て形+いる]や[動詞て形+ある]や、受け身や使役にもからんでくる問題なので、一度勉強した人も、気がつかなかったことを練習させることができそうである。
  きのうは、『日本語初中級』という本から、「なる/する」という項目を選んで、両者の使い分けを中心に練習した。

  店で店員が金額を計算して、

   1580円に なります。

と、言うが、客が「安くしてください」と言ったら、その答えは、

  じゃあ、奥さん、きれいだから、1500円に しましょう。

である。そういう使い分けを意識してできるようになると、それが隠れた読解力にもなるはずだ。

  最後のメニューは、フリートーキングを準備していた。これは、昨日は来なかったが、会話力の醸成のために、このクラスに参加したい(試験対策だと言っているのに、本人によれば、試験対策で自分一人でできないことは会話になれることだから、それが必要だという)という人のことを考えたからである。受講生の実力の差を利用して、よくできる人は単語を説明したりして、話す練習を多くし、まだよくできない人は、ことばを増やす場にできればと考えた。
  ちなみに、韓国では、フリートーキングのための(教師用?)教材は、最近になってかなり多く出ているので、材料集めも楽しようと思えば本のコピーだけでもなんとかなるのである。

  窮すれば通ずで、昨日は楽しくできたが、これからまだまだ苦労しそうである。午後9時20分からという時間帯も、わたしにはきつい。何とかしてもらえないかと思ってしまう。 top メール 感想 投稿


1998.4.3  試験の準備には

  中断していた「試験準備クラス」が始まった。しかし、本当に悩みが多い。
  潜在的に日本語能力試験の1級ないし2級の受験を予定している人は、束草にもかなりいる。全部集まれば、10名は来るだろう。しかし、クラスとして続けていくことは非常に難しい。
  ある程度のレベルに達すると、それまでの学習プロセスの違いに応じて、それぞれ、足りないところが異なる。しかも、ある程度自身を持っている人だと、客観的な実力と自己評価が異なる場合も少なくない。

  こういうクラスに来る人は、リクエストが多様であるけれど、結局クラスを作った段階で、実力がそろわないものである。しかし、どの学校に行っても自分に合った授業をしてくれないと思って、ここにやってくるのだから、他のメンバーの他の要請を理解しながらいっしょにやっていこうとする気持ちは薄い。結果的に不満が大きくなる。

  実力が足りなくても、熱意だけでぜひ参加させてほしいと訴える人もいる。しかし、語学の授業は一方的な講義ではないのだ。本人がいくらよくても、そこにいるだけで、こちらは無視できなくなる。迷惑するのは教師の方なのだ。

  受講生も、学びたいことを学ぶ場を求めてくることはよくわかる。しかし、結局のところ、今の環境では、個人授業でなければ解決できない要求も多い。そのことをどう伝え、納得しながらクラスのスタイルを作るのか。こればかりは、いい方法が見つからない。           

  きのうは、初級からやり直さなければいけないのに、「どうしても」という受講生と、当分その人一人だけだと思っていたところに、突然入ってきた、中級以上の会話力があり、本人は文法は自分でできるから会話だけすれば試験対策として十分だと信じているが、テストをすれば文法の理解も表面的なものに過ぎないことがはっきりしている見学生の前で、折り合いをつけようとして、どちらにも役に立たない授業をしてしまった。顔ぶれを見て方針を決めざるをえないところもあるが、方針に合わせて、予め参加を規制することも必要だ。「学院」の事情や、対象者の人数の少なさを考えると、対処のしかたが難しい。
     
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