(1999年1月16日から)

日本語授業日記のコーナー

以下の用語には注釈があります。 以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記
1.ハンガナ
2.直接法
3.結果の残存

1998.8.8 人間くらい…影響されるものは…
1998.8.13 みかけだけの制約
1998.8.16 みかけだけの制約2
1998.8.22 みかけだけの制約3
1998.8.28 短文完成という形式
1998.8.29 〜じゃありません
 
 過去の日記リスト
 
 最新の授業日記


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


1998.8.29   〜じゃありません

   『文化初級日本語』第7課。ここでは、

という文が とりあげられている。まなぶべき文型は、「〜じゃありませんか」である。

  この文型では、アクセントイントネーションが重要である。

  • 「ありません」アクセントをつけて、「ませ」をたかく、「ん」をひくく 発音するか、アクセントをつけないで、ずっと ひくく 発音するか。
  • 文の末尾をあげる イントネーションで、「か」をたかく発音するか どうか
  • で、4種類のいいかたができる。これを つかいわける必要がある。

      そこで、わたしは、つぎのようなスキットをつくってみた。

      これは、うまくいった。おもっていたより、みんな、いっしょうけんめい、やってくれた。
      学習者を観察すると、「ませ」をたかく、「」をひくく アクセントをつけて発音する「〜じゃありませ」より、ずっと ひくいままで アクセントをつけないで発音する「〜じゃありません」のほうが むずかしいようで、なかなか できない。しるしが はっきりしているものよりも、しるしが ないもののほうが、まねするのが むずかしいという ことだろうか。

      教科書では、このなかで、「確認」の文が とりあげられている。まず、これは否定ではないということを おしえるのが この本のねらいなのだろうが、これ以外の3つの かたちについても どこかでとりあげる必要が でてくるだろう。また、このように対比することによって、たとえ全部をおぼえられなくても、ひらがなでは あらわされていない アクセントイントネーションといった発音の要素に めが むかうといいと おもう。

      アクセントをつけて発音する「〜じゃありませ」は、名詞と な形容詞につけることができる。これは、本来の否定形なので、い形容詞につくときは、「〜く ありませ」、動詞につくときは「〜ま(したしい あいだがらの 会話では「〜ない」)と しなければならない。これらは、うえの「納得」「不審」の 例文につかわれているけれども、否定の意味を「納得」したり、否定の意味に「不審」を いだいていることが わかる。

      アクセントをつけないで発音する「〜じゃありません」のほうは、名詞い形容詞な形容詞動詞肯定否定非過去過去に つけられる。これらは、うえの「確認」「主張」の 例文で つかわれているけれども、名詞以外につくときには、「確認」の つかいかたはできないので、注意しなければならない。(ただし、名詞文以外でも「〜です」をつけてから これをつかい、じゃありませんにすれば、確認の意味にできる。)この、「〜じゃありません」には 否定の機能はなく、そのまえに かいてある意味を そのまま「確認」したり「主張」したりする。

       この教科書が すごいところは、この項目に関連して、おなじダイアローグに「理解」の終助詞「か」を いれているところである。この項目のある ダイアローグのつづきに

    「マンションの入り口にありましたよ。」「ああ、そうですか。」

    という会話がつづく。この最後の「そうですか」の「」は、さきほどのスキットの「納得」の つかいかたにつながる。疑問ではなく、“いま、あなたの はなしを きいて 理解した"という 意味の「」である。この「」は、あがり調子で発音してはいけない。また、韓国人の学習者のおおくが、この「」をつかうべきところで、「」をつかって しらずしらず、相手に不快感をあたえることがあるので、注意しなければならない。 top メール 感想 投稿 


    1998.8.28   短文完成という形式

      8月18日から前回までの はなしの つづきである。

      この はなしの もとになっている教科書は、
    『中級から学ぶ日本語』の第10課であるが、この教科書の「使いましょう」という項目は、このように、いつも短文完成をすることになっている。

    というような問題形式なのである。

      この教科書の作成者の はなしを きいたかぎりでは、こうした問題のねらいは、学習者が自由に自分の思想を 日本語をつかってのべられる機会を つくることだという。このような 問題形式なら、たしかに、独自のこたえかたをすることが 可能である。また、客観的に適切な解答が 何種類かに かぎられる ばあいでも、その理由を 教師が適切にのべることで、文型への理解が ふかまることも あるだろう。

      しかし、この形式の問題は、一方で、いままで考察したように、「誤文」や 「みかけの うえでの誤文もどき」を うみかねない。そして、「誤文」と「誤文もどき」を きちんと区分けして、学習者に納得させることは、教師にとって至難のわざなのである。

      このことが むずかしい理由は、学習者が想定した文脈が、正誤を判断する教師に 十分うけとられていないことが あるからである。「いそいでいたので、かぎをしめないまま、でかけてしまいました。」と、学習者がいったときに、学習者がどのような背景を かんがえているのか、それとも、ただ、ことばを操作して下線のうえを うめただけなのか、そういうことが わからないと、適切な指導ができないだろうということである。

      わたしが、この教材を日本にある 日本語学校でつかっていたときには、うえのような 学習者のつくった文を 「ただしい」 みとめるか、「ただしくない」と するか、教師たちのあいだで、さかんに議論された。しかし、こんなおかしいことはないだろう。日本語を母語とするプロの教師のあいだで、議論しなければ正誤もきめられないような文を、学習者に「ただしい」とか、「ただしくない」とか、いって、その結論をおしつけているのである。良心がある教師なら、そういう ふるまい自体が、ごまかしをふくんだものであることに きがつかなければならない。いや、きがつくべきであった(と、反省をこめて いおう)

      「ただしい」か どうか、教師のあいだでさえ 議論しなければならないようなものは、まさに、「ありうる表現だが不自然におもわれるばあいがある」と いうべきであり、それ以外の「ただしい」でも「ただしくない」でも ありえない。それを「ただしい」とか「まちがっている」とか、単純化したとたんに、教師はうそつきになり、「なぜ不自然におもわれるのか」という内省は されなくなる。ところが、この「内省」こそが、言語という対象に ちかづく唯一といってもいい 大切なみちであることを、教師はあらためて こころしなければならないだろう。

      はなしを もどそう。この「短文完成」という 問題形式は、作成者のねらいに反して、このような とりあつかい上の 困難のために、かえって、よけいな「誤文」や「誤文もどき」に なやまされないように、教師が かたちを制限したり、状況設定をして こたえを誘導したりする必要をうんでしまう。こたえの「正誤」に 関心が集中するのは、教師だけでなく、学習者もえてして そうなる傾向がある。そのなかで、多人数のクラスで でてくる いろいろな文について、ひとつひとつ 学習者の意図と背景設定を たしかめながら 適切な指導をくわえることは、物理的にむずかしい ばあいも すくなくないのである。

      最大の問題は、このような すべての 問題を、「短文完成」という 「一文」の作成のなかで 解決しようとする わくぐみだろう。この わくぐみで処理しきれない課題をかかえてしまうのなら、わくぐみ自体をかえたほうがいい。たとえば、せっかく本文があるのだから、本文の状況設定にのっとって、その 登場人物が なにかをいう かたちにするというのも いい。これに類する しくみをつくって、「あなたなら、こんなとき、どう いいますか」という かたちに 問題の形式をかえるのだ。そのなかで、文型をつくることにより、つくられた文の適切さが、文法的なカタチのただしさではない 基準で はかられるようになるだろう。そういう 工夫が 必要なのである。 top メール 感想 投稿 


    1998.8.22   みかけだけの制約3

      前々回前回の「まま」について。

      この文型のまえでは 動詞の「ない形」を つかわせないようにしようと主張する教師もいたと、前々回にかいた。このような発想は、どこからでてくるのだろうか。

      ひとことで いって、ある文が不自然におもわれるか、そうでないかをきめるのが、文脈であるよりも、このような 文法的なかたちであるとしたほうが、おしえやすいからである。

      文法的なかたちは、教師にとっても、学習者にとっても、みえやすい ちがいである。これを、ひとつのかたちに 制限することで、誤文がへるのなら、そのようにおしえるのが、らくなのである。

      しかし、こういう発想が、根本的に ことばへの理解を ゆがめていることを、わたしは いままで のべてきたつもりである。そして、もうすこし ふかくて 本質的な理解にもとづいて ことばをおしえていこうとするのなら、「不自然だ」という 理由だけで 学習者のかいたものを排除しては ならない。学習者に なにが なぜ、どのように不自然なのか かんがえさせ、自分でそれを 判断できるようにするためには、まず、教師が 自分の言語使用について 先入観なしに 率直に分析する姿勢を もちつづけていなければならないという、平易な原則を 確認したい。それをしなければ、ネイティブの教師である意味は なくなってしまう。 

      これを前提に、次回は、『中級から学ぶ日本語』という教科書について考察する。
     top メール 感想 投稿  


    1998.8.16   みかけだけの制約2

      前回につづき、『中級から学ぶ日本語』の第10課の文法項目、「まま」。

      課題は、

    が よくて、「かぎを しない」「くつを ぬいだ」では 不自然に感じられる理由を説明することだ。

      この課題をかんがえるとき、ヒントになるのは、「かぎを しない」も「くつを ぬいだ」も、場合によっては自然につかわれるということだ。前回にもかいたが、

    などには 抵抗がすくないだろう。つまり これらは、文法形式の問題ではなく、誤文でもなく、文脈とのかねあいの問題なのだということが わかる。
      ここでは、「
    かぎを する」べき瞬間、「くつを ぬいだ」瞬間に 焦点があてられていることが わかる。そういう瞬間に はなしてと ききての意識がむかっているときに これらの表現は 抵抗なく うけいれられるのである。

      それでは、これらの文脈がないときには、どうして不自然に感じるのだろうか。文脈との かねあいだとすると、もういちど「まま」の 意味に たちかえって かんがえる必要がでてくる。

      「まま」は そのまえに形容詞(や一部の状態性の動詞)が つくときには、その状態がつづいたなかで なにかがおこなわれることを、そのまえに動作性の動詞がつくときには、[た形]をつかった結果の残存]形式か、[ない形]について、おなじ動作主が なにかをすることをしめす。つまり、「まま」のまえは、つねに状態性の形式をとる。したがって、「まま」のあとに のべられる事態に さきだって 「まま」のまえに のべられる状態が成立していることになる。
      しかし、このさきだって成立している状態をしめすのに、動作性の動詞の[た形]をつかった結果の残存]形式や、[ない形]を つかうとすれば、その状態の成立時点に おこなわれた/おこなわれなかった うごきを ともにしめすことになる。たとえば、「
    かぎを あけたまま、出かけた」というようなばあい、実際に「あけた」場面が 多少なりとも意識される。つまり、「出かける」直前に「かぎを あけて」、その結果が残存したままなのである。ためしに、つぎの文をみてほしい。

    この下線部分では、「あけた」と「しない」の どちらが適当だろうか。わたしは、「しない」だと おもう。
      つまり、このように、「出かける」直前に「
    かぎを あけた」のではないとき、「出かける」直前に「かぎを する」べきだったのに しなかったということが 状況としてうきあがってくるときには、「しない」が 選択されると いえるだろう。

      「くつを はかないまま、出かけた」の 場合はどうだろう。いうまでもなく、最初にあげたような特殊なばあい以外は、「くつを ぬいだ」のは、「出かける」はるか まえで あるはずである。「くつを ぬいだまま出かけた」というのが、一般的に不自然にきこえるのは 当然だというべきだろう。

      次回は、さらに この問題の背後にある事情を 考察する。   top メール 感想 投稿      


    1998.8.13   みかけだけの制約

      『中級から学ぶ日本語』の第10課の文法項目に、「まま」というのがある。

      「つかいましょう」の例文は、

    で、2番に

    という問題がある。

      ここで、よく、

    という こたえかたをする学習者がでてきて、議論のまととなるのだけれども、この可否と、「」とするのなら その理由をどう説明するかということが 教師のがわの問題になる。

      たしかに うえの文は、なにか ぎくしゃくしているような印象をうける。「不自然だ」という理由から、学習者がこのようにかくと、「まちがいです」といって なおす教師もいるだろう。さらに、わたしが しっているひとのなかには、このような「誤文」(わたしは かならずしも 誤文だとは おもっていないのだが)を さけるために、この文型のまえでは 動詞の「ない形」を つかわせないようにしようと主張する教師もいた。

      しかし、つぎの文は ヘンだろうか。

    ごく ふつうに つかわれる表現だといえるだろう。また、つぎの文は どうだろう。

    わるくはないかもしれないが、「くつを はかないまま」のほうが、はるかに自然ではないだろうか。

      ある文が「不自然だ」と ネイティブ・スピーカーが感じるとき、その理由は さまざまである。なかには文法的に不可能な文である ばあいも あるだろう。しかし、あきらかに 文法的な形から逸脱しているケースを別にして、「誤り」とまではいいきれず なにか「不自然だ」とおもわれる ような ばあいの おおくは、表現にあった文脈が なりたちにくいか、十分にあたえられていないことが その原因だとおもわれる。

      たとえば、最初の「かぎをしないまま、出かけてしまいました」にしても、もし、その直前に、《かぎをかけようとしたけれども うまくかからない》という 文脈があたえられていたら、ほとんど 不自然に感じることがないだろう。

      だから、これを

    という ふうに 指導してしまっては いけないのである。

      では、どうしたらいいか。つづきは、次回に。 top メール 感想 投稿 


    1998.8.8   人間くらい…影響されるものは…

      『中級から学ぶ日本語』の第8課。本文の冒頭は、つぎのようである。

    なにげなしに よんでいると、 どうとも おもわないのだけれども、この部分は、「つかいましょう」にも そのままとられていて、いわば、文型の おてほんとして あつかわれている。

      たとえば、

    なら、いろいろな動物のなかで が いちばん人間の生活とふかくかかわってきたということが わかる。しかし、最初の例文はなんなのだろう。いろいろなもののなかで 人間が いちばん外見に影響されるということなのだろうか。この場合、「いろいろなもの」とは、なんなのだろうか。

      どうかんがえても、ここで、人間を、ほかのものとくらべているとは おもえない。しかし、では なにとくらべているかというと、これも あいまいである。ほかの動物とくらべているとするのにも 無理がある。ものということばは、いわゆる「モノ」のほかに 人間をさすことはあるけれども、動物をさす例はみつけにくいからだ。

      結局、この例文は、

    と いうこと以上には、なにもいっていないようである。だったら、

    という解析がなりたつ文型の おてほんとしてかかげるのは、不適当だったというべきだろう。

      どうして、こんなことになったのか。たぶん、すべての文型を本文にもりこもうとして、この文型をつかう必然性がないのに、冒頭の文をむりやり この文型をつかってかこうとしたからだろう。この教科書の作成過程に付随した おとしあなだというしかない。 top メール 感想 投稿 


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