(1999年1月16日から)

日本語授業日記のコーナー

以下の用語には注釈があります。 以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記
1.ハンガナ
2.
3.
1999.1.4 ひらがなシート 
1999.1.9 音声の不思議 
1999.1.10-1基準のちがい 
1999.1.10-2“カセット”とは 
1999.1.10-3
「ウリナラ」と「チョイナラ」再論 
1999.1.24 あくしゅ 
1999.1.30 「〜か」節と「は」の共存 
 
 過去の日記リスト
 
 最新の授業日記


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


1999.1.30 「〜か」節と「は」の共存

  まえから、練習をさせながら、ひっかかっていたことだけれども、やりすごしたまま、わすれてしまうようなことが たくさんある。それを わすれないために このページをつくっているのだけれども、それも いそがしいと かくことを さきのばしにしているうちに わすれてしまう。

  これは、そんな 問題のなかの ひとつである。

  『みんなの日本語』の、「〜か わかりません」「〜か どうか わかりません」を あつかう課には、つぎのような文型が ならんでいる。

これらの、オレンジの部分の「」「」の選択は、どうなっているのだろう。

  この文型は、つぎのように図式化される。

ここで、[疑問詞のない節][疑問詞のある節]とは、それだけで文を構成することができる要素がそろっている文中の構成要素のことである。そして、《基本体d》とは、わたしの定義で、名詞と な形容詞の非過去・肯定形で、「だ」も「な」も「の」も つけない形態のことを いっている。

  ふつう、ある文が節として おおきな文の構成要素になるときには、もとの文にある「」は「」に かえられるということになっている。ところが、このうえの 例文では、「」の ままのもの、「」に なっているものが 混在している。単純な文型を提示して、つみたてることを めざしている この教科書にしては、これら 2種類の かたちを 区別する指標は 文型提示の部分からは みいだすことが むずかしい。さて、この こたえは どういうことなのだろうか。 

  例文をみつめながら、はたと かんがえこんでしまった。

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1999.1.24 あくしゅ

  2年まえだったか、韓国の金泳三前大統領が訪日したとき、当時の橋本首相が両手で握手をしたのが、韓国式だとかなんだとかで、話題になった。

  わたしは、握手のしかたも さることながら、どんな場面で握手をするのかが、きになる。

  よるの 一番最後のクラスは 一番日本語の実力がたかいので、教科書に「紹介」の項目がでてきたところで、そのへんをきいてみた。

  韓国では、仕事で はじめてあったときに 握手をするようである。ことばでいえば、「これから よろしく」と いったところだろうか。わたしの感覚では、日本での握手は、初対面よりも、再会の場面でのほうが しっくりするように おもえる。一番、典型的なのは、それぞれ独立した立場のひとたちが、協力してひとしごと おえたときだろう。

  わたしは、これを文化のちがいとして とらえたいと おもっているのだけれど、韓国の学習者は かならずしも そういうめで みていない場合がある。こういうときにも、「なにが ただいしか」という視点をもちこむひとが クラスに何人かはいるものである。そういうひとの 意見を よくきいてみると、つまるところ、「握手とは そもそも こういうものだから・・・」ということが 根拠になっている。韓国にしろ日本にしろ、もともと握手の習慣なんかなかったのに、西洋の習慣をとりいれたのに ちがいない。それを どちらがただしいと あらそっても しかたないと かんがえるのも ひとつの かんがえだけれども、「だからこそ、西洋の習慣の とおりに理解しているほうが ただしい」と 優劣をあらそおうとする 立場も うまれるということだ。ただ、その「西洋」が、韓国では 圧倒的に 「アメリカ合衆国」に かたよっている。そんなところから、現代の事大主義が うまれると いったら、いいすぎだろうか。

  あるラジオのクイズ番組で、「ただしい握手のしかた」が 問題になっていて、「両手で握手する」というのが、「ただしくないものを ひとつ えらぶ問題」の「正解」に なっていた。こうして 「韓国式」は 韓国のなかから 否定される。一方、日本の 首相であった人物は、それを あえて 相手にあわせるつもりで やってしまった。

  そう。日本だって、すこしまえは、そうだった。ひとびとの たわいのない ちいさい習慣をとりあげて、「西洋」の基準で マナーにあっているとか、あっていないとか、さかんに議論していたではないか。その おかしさを やっと卒業しかかっている日本が、いまでも気分は「おいつけおいこせ」の 韓国にあわせようとして、かえって すれちがっているのである。

  たぶん、初対面で握手をするという点では、韓国のほうが「握手の習慣」に 忠実なのだろう。それをあえて とりあげたのは、日本が その習慣に忠実でないことを おしえたかったからではない。「習慣に忠実」であることよりも、自分たちの ありのままのすがたを 肯定して 意味づけ、それと ちがうものがあっても 個性としてみとめるような 主体性のありかたを めざしていくことを うながしてみたかったからなのである。

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1999.1.10-3 「ウリナラ」と「チョイナラ」 再論

  この日本語授業日記を はじめてすぐに、わたしは、”「ウリナラ」と「チョイナラ」”と いう 日記をかいた。これは、その続編である。

  ある受講生(高校3年の女性)が、_チょhぃなら】と いった。それに対して、別の受講生(中学2年生)が、.うりなら】と いうべきだと主張したのである。

  この中学生によると、中学校の国語の先生が、なら】(くに;国家)とカ+.チょk】(家族)には_チょhぃなら】、_チょhぃカ+.チょk】とは いわず、.うりなら】、.うりカ+.チょk】と いわなければ ならないと おしえたのだそうである。

  愛国心をたいせつし、先祖をうやまう 韓国らしい いいぐさだと おもう。もともと、韓国語は 絶対敬語をつかう。つまり、日本語のように[ウチ−ソト]の関係で、自分よりも上位のものであっても[ウチ]に属するものを[ソト]のひとに はなすときに へりくだるようなことは ない。だから、自分の父親をさすときも、_チょhぃあ+,ポ+チ】とはならず、.うりあ+,ポにm】と いうことになっている。父親がそうなら、くにも そうだろう。また、韓国の「家族」概念は、「家系」つまり先祖をも ふくむのだから、父親以上に へりくだり表現をつかわないのも 当然かもしれない。

  でも・・・。たとえば、日本人のわたしに対して 韓国人が韓国について かたるとき、かれらは、自分たちの先祖を 自分のうえにおいて うやまうような きもちで、「わがくに」を あつかっているだろうか。そうではなくて、自分が 韓国を代表しているという 意識で かたるのではないか。日本への対抗意識を むきだしにするような ひとのばあいであれ、自国の現状への不満を ぶつけるような ばあいであれ、封建時代に きっと そうであったように、 王を うえに いただいて かしこみるかのような姿勢で 「わがくに」を かたる 韓国人を 現在、みいだすことは 困難である。大韓民国は共和国なのである。タミがタミを みずから おさめる 民主主義国なのである。

  韓国人以外に韓国語をはなさないという 事実ではない前提にたてば、_チょhぃなら】、_チょhぃカ+.チょk】とは いわず、.うりなら】、.うりカ+.チょk】と いうという 約束ごとは 美風にもなりうるとおもう。しかし、わたしが ”「ウリナラ」と「チョイナラ」”で 問題提起したように、現代において、くにを 論じなければいけないのは、おおくのばあい、他国との関係においてである。ときには、他国の人間とも おなじドヒョーで 議論することが もとめられるだろう。そのとき、相手のくにをたてて、自分のくにを へりくだる_チょhぃなら】という 表現は 韓国語の絶対敬語の体系のなかであっても、意味をもつことが あるはずだ。もし、それが 卑屈であるとされるのであれば、敬語をつかうこと自体が ほかの場面でも 卑屈だというのでなければリクツがあわない。

  そういうリクツが あわないことが おおでをふって あるきだしたら、これは本当の国粋主義の兆候である。

  なんのことか カンのいい読者なら おわかりだろう。金大中大統領の訪日のさい、「わたくしどもの天皇が・・」などと 日本を代表して へりくだってみせた日本人は 皆無だった。韓国語とちがって、日本語では、かりに天皇が国民のうえにたつ存在だとしても、(ちょうど ほかの会社のひとに対しては 自分の会社の社長を よびすてにするのが 当然であるように)よびすてるのが 当然の[ウチ−ソト]の敬語体系を つかっているにも かかわらず、である。 

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1999.1.10-2 “カセット”とは

  「これは……です」という 簡単な文型を つかうために、教室のなかにある ものの なまえをおしえていたとき、つぎのような 指摘をうけた。

  いわゆるラジカセをさして、「テープレコーダー」と おしえると、ある 受講生が「”カセット”じゃないですか?」と きく。わたしは こういうとき ときどき 注意がたりなくて、「はい、そうです」と すませてしまっていたのだとおもう。いままで、何回も ここのところを おしえていて、この質問の意味に きがついていなかったからだ。「テープレコーダー」”カセットテープレコーダー”なのだから、それを 確認しているだけなのだと おもって うけながしてしまっていたのだ。

  よくよく きいてみると、そこにいた受講生は全員、”カセット””テープ”とを ちがう意味に つかいわけているのであった。”カセット”`かせ_`とぅ】は「テープレコーダー」で、”テープ”`てい_`ぷ】は「カセットテープ」なのだと いう。ちなみに、てもとの韓日辞書では、両方とも「カセットテープ」だと かいてあるのだが。

  わたしは、自分が韓国語をならったとき、「テープレコーダー」”録音機”.の+_クmキ】と ならったので、そういうものだと おもっていたのだけれども、どうも これはもう、ことばがふるいらしい。そこにいた わかいひとたちは、「たしかに録音もできるけど、再生するのにつかう機械なんだから・・・」と いうようなかんじである。

  こういうことは、気がつかずに つかってしまって、そのままになることがおおいから、日本語教育のげんば全体で 注意していかないと いけないことだと おもう。

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1999.1.10-1 基準のちがい

  秋夕.`チゅ,そk】のやすみに東京にかえったときに、日本地図をかってきた。

  かべに掲示できるサイズの日本地図がなかったので、かったのだが、しりあいの 日本語書籍専門店の ご主人には、「こんなもの いるの?」と あきれられてしまった。

  韓国で おしえていると、日本の地名が教科書にでできても、学習者が反応できないことがおおいから、おおがたの地図があると 実際 重宝する。ただ、わたしは この地図をかべにはることは しなかった。いくつかの教室でつかうからなのだけれども、理由はもうひとつあって、ずっと はっておくと 領土問題なんかのカラミで なんだかんだいうひとがでてくるのが いやだったのである。(などと いいながら、教室でつかうときには わたしのほうから どうして かべに はらないのか 説明したりして けっこう挑発的なんだけれども・・・)

  わたしが慎重なのは いままで、「日本海」などという表記の部分が ぬりつぶされた 日本製の地図が掲示されているのを ほかの場所でみてきたからであり、それはそれで ひとつの かんがえかたかもしれないけれども、わざわざ日本の地図をはっておきながら そういうところだけ ぬりつぶすというような方法に、どうも しっくりしないものを感じていたからである。学習者が 日本の地図をみて、なにか おもったことを自由にいいあうことじたいは、実は 歓迎こそすれ おそれる理由はないのだけれども・・・。

  ところで、そんな わけで、あるクラスで いつものように わたしのつくえから この地図を ひっぱりだして みせたところ、社会派のAくんは こういった。

.トk.と】=「竹島」について いったのではない。わたしが いわゆる「北方領土」について 説明したのをきいて いったのだ。

と 反応するわたしに、かれはいった。

基準がちがったのだ。ここまで まがおで いわれると、反論する気も なくなってしまう。

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1999.1.9   音声の不思議

  ほかのサイトの掲示板にも かいたことなのだけれども、「な行」「ら行」の 発音のききわけは、韓国人学習者にとって やっかいなことのようだ。

  ここで 不思議なのは、「な・に・ぬ・ね・の」「ら・り・る・れ・ろ」も、ききわけが むずかしいとはいえ、発音することは 苦もなくできるということである。

  発音させると 問題もなくでき、韓国語にある 類似の発音と 同等であると感じさせるものが、どうして、ききとりを はじめた段階で、うまくできなくなるのだろうか。

  この問題をとく かぎは、わたしたちの発音の認識のしくみのなかに あるらしい。

  わたしたちは、ひとりひとり、まったくおなじ発音をしているわけではない。また、おなじ人物でも、おとの連続する環境のなかで 発音は変化するし、おなじ環境であっても、気分によって微妙に 発音はことなる。それを ”おなじオト”として理解するのは、その ちがいを 無視しているからに ほかならない。ある範囲内のおとは、微妙に発音が ことなっていても、それを無視することで ”おなじオト”に なるのである。そうでなければ、コトバは 通じなくなってしまう。

  韓国語母語話者の学習者が 発音する「な・に・ぬ・ね・の」「ら・り・る・れ・ろ」が わたしのみみに、日本語として問題なくきこえるのは、それらが、わたしのもっている それぞれのがわの ”おなじオト”の 範囲内に はいっているのだといえる。しかし、わたしの発音する「な・に・ぬ・ね・の」「ら・り・る・れ・ろ」は、学習者が 仮設している ”おなじオト”と みとめることのできる範囲から はみだしているのだと かんがえられるのである。

  わたしの経験では、一般に、韓国語母語話者の学習者の、「ら・り・る・れ・ろ」を ”おなじオト”と みとめることのできる範囲は 日本語母語話者よりも せまいか、あるいは「な・に・ぬ・ね・の」を ”おなじオト”と みとめることのできる範囲は 日本語母語話者よりも ひろいようだ。かきとりをすると、「ら行」「な行」に とりちがえられることが おおいことから、そう推定してみている。

  音声学の かんがえかたでは、 ”おなじオト”の 範囲というのは、その範囲の中心部分をかんがえるよりも、それぞれの範囲の境界線をどのようにきめるか、という発想が 中心になっていると きいている。ただ、このかんがえかただけでも、かえって とけない部分も あるのではないだろうか。それぞれの範囲の境界は、一本の線のように せまいばあいもあるだろうし、どちらのオトともいえない アイマイな領域が ひろく のこっているばあいも ありそうだからである。後者のような ばあいには、そのようなオトをだしつづけていると、その言語での コミュニケーションのなかでは、「あかちゃんことば」か、擬声語、ときには くちがきけないひとの こえのように みなされることだろう。その種の発音が存在することは、体験的にも あきらかである。

  そこで、そんなことを ふまえて、この「な行」「ら行」の 発音の問題を どう といていくか。そのための方法論など、模索中。どなたか、アドバイスして ください。

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1999.1.4   ひらがなシート

  新年から はじまる クラスのために "ひらがなシート"をつくった。

  ひらがな 46字を コンピュータのワープロで 教科書体をつかって うって、それに描画機能をつかって、全体の輪郭をしめす まるや四角や三角や方向をしめす やじるしを つけくわえた。これらの 補助線のたぐいは、本来は いろをつけて 作成したのだけれども、どうせ コピーすることになるので、プリンターは黒白にして 印刷した。そうすると、自然に濃淡がでてくる。

  つぎに、作成したものから もじだけをぬいたもの、やじるしだけを のこしたもの、わくだけで 補助線もやじるしも ないものを それぞれ つくって、4ページにした。

  B4のかみ1枚に おもてうらで この4ページをいれて コピーしてみると、おもしろい つかいかたが できることに きがついた。おりまげて、字のある 1枚目の プリントのうえに わくだけのプリントをかさね、うえから なぞってかき、それが おわったら、いま なぞったものを よこに みながら、輪郭や補助線だけの ページに かきうつす。そして、最後に やじるしだけの ページに てほんをみないで自分で かいてみるのである。

  この方法は、きょうから ためしてみている。効果をみながら 改善していきたい。

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