(1998年3月6日から)

日本語ノート

以下の用語には注釈があります。

以下の資料をはりつけました。

表題リスト  

 過去の日記

1.ハンガナ
2.
3.

1999.4.5 「ないですか」の用法2 
1999/04/19 あたらしい授業日記について1999/04/19 感想も かきこめます
1999/04/19 "かきとり"は試験?
1999/04/19 90分授業
1999/04/19 中学生の発音
1999/04/19 〜と ともに
1999/04/20 きょう1日のスケッチ
1999/04/21「ん」の発音
1999/04/22 サッカー
1999/04/26 カラオケ
1999/04/26 「誤用」ということば
1999/04/27 「もっと」についての発表者
1999/04/27 せーの!
1999/04/28 が・ぎ・ぐ・げ・ご
1999/04/29 など と 【_トぅ~】

 1997年12月
 1998年かみ半期
 
1998年しも半期
 
1999年かみ半期


注意) 文中の【  】にはさまれた部分は、ハングルの発音を表すためのハンガナです。


[

15]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/29 Thu 22:20:03 など と 【_トぅ~】

 日本語の「など」は、ふつう【_トぅ~】と 訳されている。反対もそうだ。

 

 ところで、韓国語で、【A,B,C,D _トぅ~】と かいてあるとき、

実際、A,B,C,D以外には 該当するものが ないことがある。と、いうか、

わたしが新聞記事をよんできたかぎりでは、そういうことが ほとんどである。

これを「A,B,C,Dなど」と 訳したら、意味がちがってしまう。日本語の

「など」は、「A,B,C,D」以外の「E」や「F」があるというのが 前提

になっている。

 

 まえに、このことを かいたかどうか わすれてしまったが、最近の授業で

問題になったこともあり、辞書だけでは きがつかないテンなので、ここで指摘

しておきたい。


[14]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/28 Wed 22:22:09 が・ぎ・ぐ・げ・ご

 

 ひらがなを おしえながら、発音をチェックし、そのあと、かきとりを くり

かえしているのだけれども、韓国人学習者に いちばん むずかしいのは、どう

も「が・ぎ・ぐ・げ・ご」の鼻濁音のようだ。

 

 わたしも、意地になって 鼻濁音で発音して かきとらせている。

 

 学習者が発音するときには、[g]音で かまわないと おもうのだけれども、

ききとりが できなくては こまるからだ。それに、発音するときも、「ん」

に「が・ぎ・ぐ・げ・ご」が つづくときは、鼻濁音にしてほしい。

 

 しかし、実際は、発音指導のほうが うまくいって、ききとりのほうで つ

まづくことが おおい。

 

 こういうことは、かなの導入の段階である初期に やるべきだというのが、

わたしのかんがえである。もっと あとの段階でやると、かきとりをしていても、

単語をすでに モジでおぼえていてしまっていて、発音をききわける練習に な

らないことが おおいからだ。


[13]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/27 Tue 21:23:31 せーの!

 同僚の日本人の先生が、わたしから ひきついだ 中級のクラスについて、

こんなことをいった。

 

 「『みんなで いってください』って指示したんですけど、みんな、いわない

 んですよ。それで、しばらくしたら、『せーの?』『うん、せーの』なんて、

 こごえで いっているんです。」

 

どうも、わたしが授業しているとき、指示はいつのまにか『せーの』一本ヤリに

なってしまっていたようだ。

 

 「そうですよ。先生も『せーの!』で やってみてください。それで、自動的

 に いいはじめるように 訓練されていますから。」

 

と、わたしの こたえ。かくして、いま、となりの教室では、『せーの!』が

連呼されている。あらためてきくと、なんかヘンなカンジ。

 

 


[12]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/27 Tue 21:16:51 (TO #11) 「もっと」についての発表者

 このうえの 11番の記事は、つぎの発表について かかれています。

 

 

> つざき・こういち(津崎 浩一)先生                  <

>                                    <

>      韓国 カトリック大学校                   <

>                                    <

>  副詞「もっと」の誤用と、文脈および待遇表現を考慮したその指導について<

>                                    <

> 在韓日本語講師研究会 第28回 定例会での発表 より         <

 

 

 きのうは、発表のレジュメをぬきに かいたので、紹介できませんでしたが、

かってに 感想だけかいては、ルールに反しますので、このように紹介するし

だいです。もちろん、わたしの感想は、津崎先生のご意見とは別個のものです。

 

 

 

 


[11]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/26 Mon 22:22:43 「誤用」ということば  〜「もっと」について

 ソウルで、研究会があって、発表をきいた。

 

 「もっと」の誤用について。

 

 こういう副詞の文を検討すると、単文ではヘンにおもえても、状況設定によっ

ては なりたつ文もでてくる。

 

 一例をあげると、

 

   あめが ふっているから、もっと 気をつけて かえったほうがいいよ。

 

この文を、訪問客の かえりがけにいったら、ずいぶんと ヘンな カンジが 

するだろう。なにと くらべて「もっと」と いっているのか、不明だからで

ある。しかし、韓国語では「もっと」に 相当するコトバで、うえのような 

表現が 以上のような状況で 可能になるらしい。

 

 それでは、日本語ではダメなのかと いうと、そうでもない。訪問客を 駅

まで おくって かえる途中、訪問客が すべって ころんだバアイ、わかれ

ぎわに、このように いうのは、自然だろう。

 

 わたしは、そもそも、単文だけをとりあげて、誤文かどうか 判定すること

に それほど 意味があるのかどうか、疑問に感じている。「誤文」というの

は、その文、単独では、その文が意味をもつ状況が想定不可能なものを さす

のであり、「想定不可能」と いっても、活用形などの形式がととのっている

かぎり、それは ききての 想像力の範囲を こえているかどうかに かかっ

ている。想像力、ファンタジーの たくましい ひとであれば、ほかのひとが

おもいもよらない状況設定をして、解釈してしまうことも ありうるのだ。

 

 ところが、コトバには、このような 相手の想像力に どのくらい 解釈を

あずけるかの、ハバのようなものも ある。「もっと」は、かなり 丁寧に、

そのへんの解釈を はなしテが 提示する約束になっている コトバなのだろ

う。だから、ききての 常識の範囲で、「ナニとくらべて "もっと"なのか」

という解釈がつかないと、はなしテの「つかいかたが ヘンだ」と、みなされ

て しまうんだろう。

 

 あるいは、自分だけわかったつもりで、はいったばかりの食堂で、

 

  サラダ、もっと おおくしてください。

 

と いっても、サラダをはこんでくるまえなら、相手には つたわらない。そ

れが、韓国語では、OKなのだとすれば、これは、どれだけ 相手のみになっ

て はなすかという、待遇法の 問題なのかもしれない。みんなが 自分勝手

な 解釈で そのような つかいかたをしていたら、「もっと」自体に、そう

いう意味が 派生するようにも なるかもしれないからだ。


[10]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/26 Mon 00:08:09 カラオケ

 あたらしい先生がきて、中級のクラスを まかせることになったけれども、やは

り授業を毎日つづけていくためには、受講生ひとりひとりと したしい人間関係を

つくっておかないと いけないと おもい、カラオケにいくことを提案した。

 

 日本語のうたを うたうなんて、名目にもならない名目だけれども、当然のよう

に、そんなことは無視して、おおさわぎ。

 

 それはともかく、2次会で おさけをのむと、みんな、韓国語がわからない 先

生のために、一生懸命、日本語ではなす。それがよかった。

 

 これで、一回、授業をつぶしても、それが、つぎの授業での 話題を提供するの

だから、おつりに、利子がついてくるというものだ。


[9]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/22 Thu 22:24:36 サッカー

 今日は、早朝、サッカーをみたので、一日、あたまが いたかった。

 

 ナイジェリアでの 日本ユースの活躍には びっくりした。

 

 「ひさしぶりに日本のサッカーが活躍していて、こんなこと、わたしの人生で

二度とないかもしれないから、あさ、はやおきしてテレビをみたんだ」と、遠慮

がちに いいわけじみた いいかたをする わたしに、高校生のおとこのこたち

が、「いやいや、日本のサッカーは よくやっている。こんどは優勝するとおも

いますよ。」なんて、いってくれた。すなおに うれしい。

 

 わかい ひとたちの感覚は、確実に かわってきている。日本だから、サッカー

だからといって、対抗意識をまえにだしたりは しなくなった。同年代のおんな

のこたちは、中田選手のファンが急増中だ。


[8]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/21 Wed 21:30:25 「ん」の発音

 おなじことを 何回もおしえていると、さすがに なれてくる。

 

 「ん」の発音も、以前は 1時間くらいかけていたけど、要領よく、すぐでき

そうな部分は ちからをぬいて、むずかしいところを強調するやりかたで、30

分で、かきとりまで おわらせた。

 

 やはり、この項目で一番のポイントは、母音のまえの「ん」の鼻母音の発音だ。

いままで、単語ごとに 発音してみせて まねをしてもらっていたが、今日は、

「あいうえお」を そのまま鼻母音でいってみる練習を いれてみた。これは、

「ん」の発音をしているあいだ、母音がうごいていく様子をまねするのに、ちょう

どいい。「あいうえお」を全部、鼻母音でいったら、たとえば、「う」だけ、鼻母

音にしないでいう練習とかが、かんがえられる。

 

 ちょっとした発見だった。


[7]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/20 Tue 22:43:28 きょう1日のスケッチ

あさ7時: 「〜たらいいと思います」の練習。あさのクラスは あつまりが わ

     るくて、実質の授業時間は すくなくなるけど、中学生3人(だんご3

     姉妹)と 22歳の女性だけで、それなりに安定した関係がつくれて 

     いる。でも、ある程度以上、複雑なことをおしえようとすると、拒否反

     応がつよくでてしまい、実際、全然定着しない。

      「日本語の発音が上手にならないんですがどうしたらいいですか」な

     んて例文に、わざと「あきづき先生のようなハンサムなおとこの日本人

     の先生に ならったらどうですか」などという回答例をだして 反発を

     かうようなことをしてでも、集中させないと やっていけない。

 

あさ8時: 文化初級3課の「ねこ」の授業。この課は おもしろくて、いろんな

     ことができる。「の」の用法の整理を わすれずにする。もっと、おも

     しろくできそうな気がして、自分で不満になったりもする。逆に 何回

     もおしえていて、自分ひとりが なれているために、つい、雑になって

     しまうこともある。

 

 中学校: 運動会がちかいため、エアロビの練習で 欠席がめだつ。数字を0か

     ら9まで おしえて、電話番号の練習。40分には ちょうどいい メ

     ニュー。

 

午後5時: 対比となる文を て形で つなぐ練習。「文化初級」の吉田さんと佐

     藤さんは おりにふれて 利用できるキャラクターだ。動詞の導入のと

     きに登場したキャラクターを 何回も別の文型の練習に つかいまわせ

     るので、一回で復習と文型の定着の両方のために使用できる。

 

午後6時: 自動詞と他動詞のペアの練習。導入から3時間めだけど、まだ、定着

     していないことが おおい。このへんになってくると、練習が機械的に

     なるか、会話の語彙がむずかしくなるかしがちで、たのしく、いつのま

     にか おぼえてしまうような授業というのが できなくなる。

      この項目、着目すべき観点がおおくて、いりまじっているから、どう

     いう方針でおしえていったらいいのか、まよってばかりだ。

 

夜7時半: もういちど、「ねこ」の授業。このみの女性にめがいってしまって、

     こまる。意味はすぐとれるけど、文法的には高度なことが ふくまれて

     いる。そういうときに、その「文法的な部分」に 注意をむけさせる 

     ことを じょうずにするのに苦労する。  


[6]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 23:02:02 〜と ともに

 あたらしく 同僚になった たむら先生が、わたしが ゆずりわたしたクラス

の授業のことで相談してきた。

 

 「〜と ともに」を つかった作文で、「たむら先生がくるとともに、あきづ

き先生は さみしくなくなりました。」という文をつくったひとがいて、たむら

先生は 不自然だとおもうと いう。

 

 こういう こまかい不自然さを追及していく感性は 大切だとおもう。問題は、

ただ「不自然」で おわらせないこと。また、自分かってな基準で「誤用」と 

きめつけないことだと おもう。

 

 たぶん、「不自然」のもとは、「先生がくる」が 一回で完結するうごきであ

るのに対して、「さびしくなくなる」が 本来は 段階をおって すこしずつあ

らわれてくる変化であると おもわれることの ズレから くるのではないかと

いうことになった。そして、なるべく作成者の趣旨をいかしたかたちで よりよ

い例文に なおしてみようと提案。その後の処置は、たむら先生に おまかせし

た。

 

 「たむら先生と いっしょに しごとをするようになるとともに、あきづき先

生も まえより あかるくなってきました。」などが 妥当なところだろうか。

でも、「あきづき先生は 本当に 単純な性格です。それまで さみしそうにし

ていた あきづき先生は たむら先生がくるとともに 急にさみしくなんかなく

なって、おどりながら しごとをしたり しています。」などという方向で修正

するのも わるくないかもしれない。

 

 

 それから、たむら先生は、「〜と ともに」と「〜と 同時に」は、前件と後

件の関係がちがうとおもうと いうようなことを いった。簡単にいうと、前者

は因果関係があるけれども、後者は前件と後件はそれぞれ独立の事象じゃないか

というような趣旨だ。

 「〜と 同時に」も 因果関係を示唆することがあるけれども、たぶんそれは、

二次的なもので、この語じたいの機能ではないのだろう。だから、因果関係かど

うかで どちらかを選択するように指導してはいけないのだけれども、因果関係

を きわだたせるか、暗示するかのちがいは でてくることになる。そして、因

果関係のみとめられない同時性のときには、後者をつかうべきだということに 

なるだろう。

 これを教案の段階にまで もっていくのは、ひと作業だ。これも たむら先生

に まかせてしまったので、どのようになったのかは わからないけれども、き

っと いい授業になったことだと おもう。

 

 誤用が でないようにするのは おろかなことだと わたしは おもう。誤用

のたくさんでるような授業から、教師は指導の素材をみつけ、学習者も問題に 

きづかされるのだから。

 

 


[5]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 22:25:53 中学生の発音

女子中学校の授業で いつも おもうのは、発音がとてもいいことだ。

 

けっこう人数がいても、たいていの発音は、数回の練習で完全にそろってしまう。

 

今日も、母音の無声化の指導をしたら、2回で全員完璧にできてしまった。

 

これが「学院」の成人クラスなら、何回も説明しては やらせての くりかえし

で、なかなか できるようには ならないものだ。やはり、わかいうちは ミミが

やわらかいのだろうか。


[4]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 03:41:14 90分授業

中学校の課外授業は、2つの女子中学校でおこなわれる。

今週から、木曜・金曜は、月・火・水とは 別の学校にいくことになっている。

 

週2日しかいけないので、1回90分の強行授業だ。

 

中学生相手に、90分の授業はたいへんだ。いまから、ユーウツ。

しかも、交替でおしえると、2日授業したあと、つぎは10日以上、あいだが

あく。いったいどうなることやら。


[3]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 02:48:44 "かきとり"は試験?

 4月になって再開された、中学校の課外授業。

 

 ことしからは、学校での いのこりの強制は禁止されたので、課外授業をとらな

いひとは、帰宅するようになった。だから、日本語をとるひとは、本当に勉強した

くて おかねをはらって勉強する こどもたちばかりだ。これで、だいぶ やりや

すくなった。

 

 ・・・と、おもっていたら、逆の効果も。

 

 最初の週の導入の授業のおわりに、「来週からひらがなの かきとりをします」

と 予告した。かきとりをしながら ひらがなを すこしずつ確実におぼえられる

ように 練習していくという つもりだったのだけど、それが まずかったよう

だ。

 つぎの週、出席者はみごとに へって、22人ぐらいいたはずが、9人になって

いた。「テストだってきいて、となりのクラスのひとは、みんな かえってしまい

ました。」なんて、出席した生徒にいわれ、ボーゼン。

 

 ま、すこしは つらいことも してもらわないと どうせ ながつづきしないの

だからと、ひらきなおるしかないけれど、受講料がもったいない。

 学校が いのこりを強制していたときは、生徒といっしょになって 学校のやり

かたにフンガイしていた わたしだが、自由になったとたんに イーカゲンになっ

ていく すがたを マノアタリにして、こんどは こどもたちに 批判的にならざ

るをえないのであった。

 


[2]きんちょ (ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 01:57:28 (TO #1) 感想も かきこめます

 したの[1]の記事に、「しばらくは、みなさまの かきこみは できないよう

になっています。」と かきましたが、実は、かきこめます。

 

 わたしの勘ちがいで、いまの設定のままでも、感想は かきこめます。

 

 記事の番号を クリックすると、「コメント入力」のフォームが でますので、

そこから 感想を おくってください。

 

 どうぞ、ご自由に「授業日記」に チャチャをいれてくださいませ。

 


[1]きんちょ さん(ak@chuwol.com) 1999/04/19 Mon 00:10:34 あたらしい授業日記について

 掲示板のような形式で、あたらしく「授業日記」を はじめようとおもいます。

 

 しばらくは、みなさまの かきこみは できないように なっています。

もし、感想などがあれば、そのための別の掲示板がありますから、そちらに

かいてください。

 

 いままでとちがって、授業のエピソードを きらくに 分析をくわえないで

かくために この形式にかえてみました。

 これからも よろしくおねがいします。


1999.4.5 「ないですか」の用法2

  3月15日の記事のおわりに、つぎのように かいた。

そこで、もう一度、形容詞の例をみてみよう。

これは、「B自身の推量というより、『B自身が心の中でホテルが高いと判断していて、それをAにソフトに伝えようとしている』という意味」だと されている。「推量」と「判断のソフトな伝達」とは なにがちがうのだろうか。どちらも、Bが そう おもっていることには ちがいがないのではないか。

  わたしには、このばあいの、「いや、高くないですか」と「いや、高いでしょう」の ちがいは、Bの 確信のどあいではなく、BのAへの 伝達のしかたのように おもわれる。

  たとえば、わかりきったこと、たとえば、「3は1より おおきくないですか」と「3は1より おおきいでしょう」では、どうだろうか。どちらも 誤文ではない。事実上、Bにとっては わかりきっていても、このような いいかたは することがある。たとえば、Bが家庭教師でAが生徒だったら、この ふたつに どのような ニュアンスのちがいが あるだろうか。

  ことばの形式に対応してかんがえていっても、このばあい、正解にちかづけそうである。「3は1より おおきくないですか」は、疑問形だけに、生徒にかんがえさせて、おなじ結論になるかどうかを きいている。「3は1より おおきいでしょう」は、あらかじめ結論を提示して、同意するかどうかを きいている。後者は、前者にくらべ、なにもかんがえずに「はい」と こたえても やりすごせそうな印象を 生徒にあたえてしまうだろう。前者なら、「はい」と こたえても、「なぜ そうなのですか」という 追撃の質問が まっているかもしれない。回答に責任がとわれそうな 印象をあたえるのだ。

  このように、Bにとっての 確信度のたかさではなく、Aに対する伝達のモードのちがいが、この ふたつには 反映されていそうである。それをもとに、「いや、高くないですか」を みてみると、これは、「いや、高いでしょう」にくらべ、Aに対しても 同意をせまった表現だといえる。わたしは、Aが そのホテルのことを まったくしらないときに、

というのは、いかにも つくったような会話で、ちぐはぐだとおもう。このダイアローグは、

のように、 BがAに 自分とおなじ認識をせまるときにこそ、ぴったりとするのではないか。

  これと おなじ用法と されたもので、名詞をつかったものを みてみよう。

これは、BはA自身のことについて話題にしているのだから、あきらかに、BはAに 自分とおなじ認識をせまった表現である。これに対し、用法がちがう(「推量」)と された例は どうだろう。 

  ここで、この用法が、いままでと ちがってしまうわけが、わかるのである。文のかたちは、おなじだから、いままでのようにBはAに 自分とおなじ認識をせまっていると かんがえてみることはできる。しかし、Aは はじめから、「どのくらいかかる」か わからないと 表明してしまっているのだ。

  発話にあたっては、選択可能な一群の ことばから、なにかを選択し、なにかを選択しなかったことで、相手に意味をつたえているという理論がある。これに のっとると、たとえば、「やすいでしょうか」に対する「たかくないですか」の「たかい」という形容詞については、あらかじめ「やすい」か「たかい」かという 軸のなかで、どちらであるか、あるいはせいぜい、中間か、ぐらいの候補からの選択でしかない。しかし、「どのくらいかかりますか」に 対する「6時間ぐらい」は、数字のかずだけ候補があるなかからの選択だと いわなければならない。「BがAに 自分とおなじ認識をせまっている」とはいえ、これでは、Aに 同意する、しないの こころの準備ができないのは 当然である。Aが もし、しっていれば、「そうです、そうです!」と いうだろう。しかし、しらなければ 反応のしようがない。

  形容詞に関しては、用法が限定されるというのは、結局、話題について、Aがしっているものがでてくる以上、Aも なんらかの判断がくだせるような状況で 発話されることが おおいからなのではないだろうか。たとえば、形容詞でも、トッピョーシもない形容で、Aの同意をせまったら、どうなるだろうか。これは、結局、同意をもとめない、ひとり推量にちかい発話としてしか 機能しないのではないか。

あるいは、

以下、さらにつづく。

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