Subject: 現代日本反動勢力の韓国史認識(2)
   Date: Mon, 14 Sep 1998 11:49:05 +0900
   From: FUJINAGA Takeshi <funtak@las.osaka-sandai.ac.jp>


V.右翼勢力の韓国史認識

右翼勢力の復活

 1982年の「教科書問題」で、日本政府が歴史教科書の記述の是正を約束し
たことは、日本の右翼勢力の大きな反発を引き起こした。このとき右翼勢力は、
韓国、中国などの批判を「内政干渉」と非難する一方、日本政府の姿勢を屈辱
的な「謝罪外交」と指弾した。彼らは過去の日本の侵略政策・植民地政策を、
徹底して弁護しようとしており、「教科書問題」を契機として、韓国をはじめ
とするアジア諸国からの批判に、正面から敵対する論陣を張るようになる。こ
こでは右翼勢力の歴史教科書攻撃の背景を理解するために、第2次大戦後にお
ける、日本の右翼の動向とその歴史認識の変遷をたどることにしたい(17)。
 第2次大戦の敗北は、日本の右翼・国家主義者の思想的基盤であった皇国史
観の虚構性を明らかにした。また日本占領政策の決定機関GHQ/SCAP(連合国
最高司令官総司令部)は、日本の軍国主義を解体させるため、戦争責任者・協
力者を公職から追放し、右翼・国家主義団体に解散を命じた。だが冷戦の進展
にともない、アメリカは日本に反共の砦としての役割を担わせる方向へと政策
を転換し、日本の独立回復を決定したサンフランシスコ講和会議(1951年)
前後の時期に、21万余人の公職追放者のほとんどが追放を解除されて、右翼
勢力は復活した。そして1950年代には、保守政治勢力が右翼の中に存在する
暴力集団を、左翼抑圧の手段として利用する風潮が生まれ、右翼と保守勢力の
癒着が進行していった。
 復活した日本の右翼勢力は、軍事力の放棄を定めた日本国憲法をGHQ/SCAP
に押しつけられたものと批判し、その破棄と「自主憲法」の制定を要求すると
ともに、日本の再軍備、反ソ・反共などの主張を掲げた。だが大衆的な支持基
盤をもたない右翼勢力は、体制化して保守政権の親米路線を支持し、彼らの「自
主独立」のスローガンとは矛盾するはずの日米安保体制(=アメリカに対する
軍事的従属)を擁護する立場をとった。このように1960年代までの日本の右
翼は、親米反共主義を掲げる保守政治勢力の行動部隊という性格が濃厚であっ
た。

林房雄の「大東亜戦争肯定論」

 このころ発表された小説家・林房雄の「大東亜戦争肯定論」(18)は、第2次
大戦後の日本の右翼の歴史認識をまとまった形で示した最初の論著であり、今
日なお、その主張は「保守派の基本的な歴史観を代表するものとして根付いて
いる」(19)と評価される、重要な著作である。
 林の主張のポイントは「大東亜戦争」が「東亜百年戦争」の最終局面であっ
たというところにある。林は日本の近代を、徳川時代末期(19世紀半ば)の
欧米艦隊の日本近海出没を起点とする、欧米列強と日本との約1世紀にわたる
戦いの時代ととらえ、この戦いを「東亜百年戦争」と命名した。林の論点の骨
格は「日本が植民地化されずに欧米列強に対抗し、近代化を遂げるという道筋
をとるとすれば、アジア諸国を併合し、欧米によるアジア侵略を阻止する行動
をとる以外に選択肢はなかったのではないか」というところにあり、したがっ
て「多くの「日本人」は、「侵略戦争は悪であった、しかし仕方がなかった」」
すなわち「自衛のための戦争であった」という認識に誘導されてしまうことに
なる(20)。こうした観点から、林は日本の韓国植民地化についても、次のよう
に述べている。

  私は朝鮮併合を弁護する気持ちはない。その必要も認めない。朝鮮併合
  が日本の利益のために行われ、それが朝鮮民族に大きな被害を与えたこ
  とは誰も否定できない。ただ私は朝鮮併合もまた「日本の反撃」として
  の「東亜百年戦争」の一環であったことを、くりかえし強調する(21)。
  ……幕末に発生して明治六年[1873年――引用者]に爆発した「征韓
  論」の真の対象もまた朝鮮の背後に存在する「大国」であった。大清帝
  国とロシア帝国であり、特に後者の露骨な南下政策であった。/[中
  略]征韓論の直接の動機は李王朝の排外主義と日本侮蔑であったように
  見えるが、その背後にロシア帝国の南下政策があったことを、当時の日
  本の指導層は見抜いていた(22)。

 林の議論の内容が、第2次大戦前の皇国史観のような非理性的なものとは違
った、かなり周到な論理構成をとっている点には、充分注意しておく必要があ
るだろう。林は日本の韓国植民地支配を、決して正当化してはいない。しかし
林は、このような肯定できない過去を含めて、それを「自衛のため」であった
と、日本人のナショナリズムに訴えかけているのである。こうした立場からは、
韓国植民地支配の責任を追及しようとする日本の知識人の姿勢は、「階級史
観」に立つものとして厳しい批判の対象となる。

  朝鮮に被害を与えた日本人を祖先に持ちながら、学者顔の進歩人諸君は
  何の特権によって日本を鞭打つのか。それによって、彼が加害者とは無
  縁の「階級」に属することを証明するつもりなら、これほど卑劣な手品
  はない。/[中略]学者顔の偽善者諸氏は、おそらく戦争の被害を受け
  た日本の「人民」の名において、「正義と人道の鞭」を日本支配階級の
  資本主義と帝国主義に対してふるっているつもりであろうが、そんな正
  義人道面は朝鮮民族に対しては通用しない(23)。[傍点原文]

 林は韓国植民地化が韓国人に大きな被害を与えたことは認めつつも、日本が
欧米諸国の侵略(とくにこの場合は「ロシアの南下」)に対抗し、独立を維持
するためにはやむを得ない選択であったことを強調する。だが「大東亜戦争肯
定論」から読みとれるのは、そのような主張の背景に、アジアでは日本だけが
植民地化を免れ近代化を達成したという、強烈な優越意識――裏を返せばアジ
アに対する蔑視――が存在していることである。例えば、イギリスの文明史家・
トインビーの著書に依拠する形で述べた、次のような一節には、林のこうした
自尊意識が端的に表明されているのである。

  日本だけが例外であった。トルコ帝国から大清帝国に至る東方の諸帝国
  は東漸する西洋文明の前に紙の城の如く崩壊し、残骸となって横たわっ
  たが、日本という極小の島国だけは「毛を刈られる羊」の仲間に入らな
  かったのだ(24)。[傍点原文]

「新右翼」「宗教右翼」の登場

 ところで1960年代後半になると、日本の右翼陣営の中にも新たな動きが台
頭してくる。学生運動の高揚に対抗し、体制化した既成右翼の対米従属路線を
批判する、従来とは違った主張をもつ右翼学生の活動が繰り広げられるように
なるのである。「民族派」を自称する彼らは、第2次大戦後の日本の支配体制
を「ヤルタ・ポツダム体制」、すなわちヤルタ協定とポツダム宣言により規定
された体制と把握し、その打破を主張した(25)。このように反体制的な立場を
とる「民族派」学生運動出身の活動家や団体は、のちにマスコミで「新右翼」
と呼ばれるようになった。
 一方で1970年代の半ばごろから、右翼的な宗教組織の政治活動が目立ちは
じめた。その代表的な存在が生長の家、神社本庁、靖国神社などである。これ
ら「宗教右翼」の目標は、一言で言えば、敗戦前の日本の姿を復活させるとい
う、きわめて反動的なものであり、第2次大戦後の日本の政治体制を否定する
という意味では、やはり「反体制的」な性格をもっていた。
 第2次大戦前、天皇制支配の思想的支柱となった国家神道(日本国家権力の
保護を受け、国教的性格をもった神社神道)は、日本の敗戦により解体し、日
本全国の神社を包括する神社本庁や、国事殉難者・戦没者を合祀する靖国神社
などの、宗教法人に再編成された。だが神道関係者の中に国家神道の復活を望
む声は根強く、とくに靖国神社は日本遺族会(第2次大戦における戦死者遺族
の団体。1953年結成)と密接な関係を結びながら、靖国神社国営化をめざす
運動を繰り広げていた。また新興宗教団体・生長の家は、1960年代中盤より、
その代表を自民党代議士として国会に送り込み、一方で先述の「民族派」学生
団体の組織にも大きな影響力を行使していた。さらに韓国から上陸した統一教
会が、その政治組織である国際勝共連合とともに、大学を中心として急速に勢
力を拡大し、反共主義の立場から、日本の保守的な政治家や知識人に接近して
いったことも指摘しておかねばならない。
 「宗教右翼」は従来の右翼勢力と異なり、堅固な宗教組織を基盤に、豊富な
資金力と大衆動員戦術をもって、日本社会の右傾化を進める政治運動を繰り広
げていった。例えば元号法制化運動において、生長の家は神社本庁、日本遺族
会などと協力し、まず各地の地方議会で元号法制化を決議させ、地方からの圧
力で中央政界を包囲する戦術をとった。1978年7月には、生長の家と神社本
庁を中心に「元号法制化実現国民会議」がつくられ、翌1979年6月、ついに
「元号法」が国会で成立した。このような地方議会を制圧する作戦は、その後
の右翼の政治運動における常套手段として定着することになる。「元号法制化
実現国民会議」は、1981年10月、憲法改正を目標とする「日本を守る国民会
議」に改編された。結成大会には、学者・財界人・政治家など約800名が参加
したと言われる。
 こうした日本の右傾化を阻止する役割を果たしたのが、先に触れた1982年
の「教科書問題」だったのである。戦前体制の復活を目指す日本の右翼勢力の
運動は、「教科書問題」にはじまるアジア民衆の反撃で、挫折を味わうことに
なる。例えば1986年8月15日、当時の中曽根康弘首相は、第2次大戦後の現
職首相として初めて靖国神社を公式参拝したが、この行動は日本国内のみなら
ずアジア諸国からも強い批判を浴び、以後、首相の靖国神社公式参拝は一度も
実施されていない。このような意味で「教科書問題」は、日本の右翼勢力に、
その政治戦略を阻む最大の「敵」が、アジア民衆の声であり、これと連帯しよ
うとする日本の知識人や市民運動であることを認識させる契機となったのであ
る。日本の右翼が「教科書問題」に対する日本政府の対応姿勢を、「謝罪外交」
と執拗に非難しているのもこうした理由からであり、彼らは歴史教科書の記述
や、その基盤たる敗戦後の日本の歴史研究に対する攻撃を、改めて強化してい
くことになる。
 これと並行して「宗教右翼」は保守政治家の一部との連携を強め、自民党国
会議員を組織して、靖国神社への天皇・首相などの公式参拝を推進するグルー
プを結成させた。このグループに属する議員たちは、1993年8月、就任間も
ない細川護煕首相(当時)が、第2次大戦を「侵略戦争」と明言したことに反
発し、「歴史・検討委員会」を設置した。さらに第2次大戦後50周年に合わせ
て提案された「戦争謝罪国会決議」に反対して、1994年12月、自民党議員に
よる「終戦五十周年国会議員連盟」が、1995年1月には新進党議員の「正し
い歴史を伝える国会議員連盟」が結成され、一方、民間では、前出の日本を守
る国民会議や日本遺族会、また「英霊にこたえる会」(靖国神社公式参拝を推
進する政治運動団体。1976年結成)などが中心となって、「終戦五十周年国民
委員会」が組織された。これら諸団体の猛烈なキャンペーンによって、1995
年6月の戦争謝罪決議(戦後50年国会決議)は内容を骨抜きにされたうえ、
多数の欠席者を出す惨憺たる結果に終わったのである。

中村粲の韓国史認識

 このような新しい動きを見せる右翼の認識を代弁する形で、過去の日本の侵
略や植民地支配を正当化しようとする議論が、1980年代の後半から目立つよ
うになった。ここではその代表的なイデオローグである、中村粲・獨協大学教
授の主張を紹介しておく。
 中村は主著『大東亜戦争への道』の冒頭で、第2次大戦後の日本の歴史認識
を次のように批判している。

  戦後の滔々たる自虐史観の風潮の中で、依然として東京裁判判決を盲信
  し、あの戦争の原因責任ともに日本にありとして、祖国の過誤失点のみ
  を内外に揚言して時を得顔なる学者・言論人が少なくない。彼らの筆に
  なる歴史書・歴史教科書また日本の歴史を出来るだけ醜悪に描くことを
  以て進歩的なりと自負するかの如くである(26)。

 中村は第2次大戦後の日本の歴史認識を「自虐史観」と決めつけ、「日本の
歴史を出来るだけ醜悪に描く」ものと激しく非難する。過去の過ちを繰り返さ
ないために積み上げられてきた良心的な研究成果に、正面から対決する姿勢を
まず明らかにしているのである。あわせて「教科書問題」に対する次のような
彼の認識は、右翼勢力のこの問題に対する見方を典型的に表明するものとなっ
ている。

  戦後、我国最大の問題は歴史問題である。前科者の烙印を押された男が
  一生を日陰者で過ごさねばならないやうに、歴史を断罪され、“侵略
  者”の汚名を負はされた儘の日本は、国際社会への完全な復権を達成し
  たとは決して云へないであらう。/歴史問題とは何か。昭和五十七年
  [1982年――引用者]に高校歴史教科書の文部省検定に対して中国が内
  政干渉を行なつた第一次教科書騒動、昭和六十一年[1986年――引用
  者]に内外を騒然とさせた高校教科書『新編日本史』検定に対する中韓
  両国の干渉、同じ年の「藤尾発言」に対する韓国の、また六十三年[19
  88年――引用者]には「奥野発言」に対する中国の抗議と圧力が、我国
  当局者をいかに動揺せしめ、卑屈な対応に走らせたかを想起してみれば
  よい。(27)

 このような立場に立つ中村は、日本に植民地化される以前の韓国を、ひたす
ら無気力で内紛に明け暮れ、近代化にも独立の維持にも意欲をもたない国とし
て描く。例えば、甲午改革についての中村の評価は、以下のようなものである。

  朝鮮の内訌なかりせば、明治維新を範とした諸改革は着々実施され、必
  ずや朝鮮の独立と近代化を大きく前進せしめたであらう。[中略]だが、
  朝鮮はこの機会を利用することを知らなかつた。/朝鮮はこの貴重な時
  機に独立を忘れて内部の暗闘に明け暮れ、近代化を日本の侵略として排
  斥した。[中略]日本が指導させた近代化と独立の貴重な機会を有効に
  活かし得なかつたのは、やはり朝鮮自身の反省すべき点と云ふ他ないだ
  らう(28)。

 また「韓国併合」については、次のように述べる。

  我国は他国に先立つて韓国を独立国家と認めたにも拘らず、この国は独
  立し得なかつた。その結果、我国は二度、国運を賭して戦つた。我国は
  三たび戦ふことを欲しなかつたが故に、空名にしか過ぎない独立を取消
  し、この国を併合したのである。/優勝劣敗の苛酷な原則が支配する世
  界で、日本民族が生き残る途は他になかつたのだと筆者は考へる。併合
  は痛恨の悲劇だつたが、これによつて初めて東亜の政局が安定したこと
  も掩ふべからざる事実なのであつた。(29)

 このような中村の主張を読んで、激怒される韓国の読者も多いと思うが、こ
の文章は公刊されることを意識して、まだ抑制した表現を使っているほうであ
る。いわゆる「慰安婦」問題を主題とした彼の講演の記録には、排外意識と韓
国に対する差別意識が露骨に表明されている。

  向ふ[韓国――引用者]は今でも日本を敵性国家と見てゐるんです。日
  本は自分の国を奪つた国だ、その日本人から物を盗むのが何が悪いんだ、
  と言つてゐるやうな国なんですよ。オリンピックの格闘技で「日本野郎
  は叩き殺せ!」といふ野次を飛ばしてゐる国なんです。日本人を殺して
  も罪にならない、かういふ国が隣にあるといふことを日本人はよく考へ
  ないといけないと思ふ。日本人は両手を上げて南北統一に賛成してゐる
  が、これは極楽トンボもいいところで、日本人は統一コリアの対日攻勢
  に対する備へがなくてはならないと思ふんです。日本は国や、民族や、
  文化を奪つた。その日本を奪つて何が悪いんだ。かういふことが国是と
  して通つてゐる国です(30)。

 私はこの一節を読んだとき、現代日本社会にいまだこのような排外意識に凝
り固まった人間が、「知識人」の仮面をかぶって存在していることに、背筋の
凍る思いであった。中村の歴史観は、先に紹介した林房雄の議論より、いっそ
う復古主義的な性格が強く、ひたすら日本を弁護するための詭弁に終始してい
る。ただ注意しなければならないのは、中村が第2次大戦後の日本の歴史研究
の成果に対抗するため、「実証的」な装いをもって、さまざまな「証拠」をあ
げながら反論を試みている点である。資料の選択や解釈が恣意的なのは言うま
でもないが、歴史学界の研究成果を直接検証することが困難な一般の読者にと
っては、その虚構性を見抜くことが難しい叙述のスタイルをとっているのであ
る。
 また後述する「日本型歴史修正主義」の「慰安婦」問題に対する議論は、中
村の主張から借用したものが多い。例えば、以下のような部分である。

  人間らしい感情は慰安所にもあつた。なかには朝鮮人と日本人の間の恋
  愛、結婚、心中まであつた。[中略]/それから報酬はきはめて良かつ
  たといふこと。もし仮に彼等が一日五十人、六十人とつたならば、一日
  に日本人の月給の二ヶ月分、三ヶ月分も稼ぐことができたことになる。
  一ヶ月となれば二十倍、三十倍、これが二年間になつたらどのくらゐに
  なるか。家が一軒建つのは間違ひござゐません(31)。
  ……軍の関与といふのはどういうものかといふと……要するに慰安婦の
  募集に関して軍の名を騙つて、誘拐に等しいような募集をしてゐる業者
  がゐる。これは軍の名誉にかかはるから許せない。警察と十分に連絡し
  てこれを取締まれといつてゐるのであります。これは軍の関与と言へば
  関与だけれども、善意の関与だと思ふんです(32)。

 中村は、「慰安婦」の生活がそれほど悲惨なものではなかったかのように印
象づけるとともに、「慰安婦」連行にあたっての日本軍の関与――当初日本政
府は、日本の国家権力はこれに関係していないと主張していた――は、民間業
者の「強制連行」を防止するための「善意の関与」であったと強弁している。
このような詭弁は、のちに歴史修正主義者たちによって、「慰安婦」問題の犯
罪性を糊塗するためのレトリックとして活用されることになるのである。


注
(13)高崎、前掲書、p.240。
(14)『朝日新聞』1982年8月27日。
(15)大韓民国政府『韓・日会談合意事項〈仮調印内容解説〉』1965年、p.87。
日本語版は『朝日新聞』1965年2月20日夕刊による。
(16)『朝日新聞』1995年10月13日。
(17)以下、日本の右翼勢力の動向については、主として次の文献を参考にした。
社会問題研究会編『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、猪野健治・宮
谷和彦『右翼』現代書館、1988年、堀幸雄『増補 戦後の右翼勢力』勁草書
房、1993年。
(18)「大東亜戦争肯定論」は、月刊誌『中央公論』の1963年9月号から65年
6月号にかけて連載された。その前半は『大東亜戦争肯定論』番町書房、1964
年、として、後半は『続・大東亜戦争肯定論』番町書房、1965年、として公
刊されたが、両者を合わせたものが改訂版の『大東亜戦争肯定論』番町書房、
1975年、として改めて出版された。本稿はこの「改訂版」を参照した。
(19)小倉利丸「『大東亜戦争肯定論』批判」『aala』第98号、1995年、p.7。
(20)小倉利丸「現代のレビジョニストは『大東亜戦争肯定論』をどこまで超え
たか」天野恵一編著『「自由主義史観」を解読する』社会評論社、1997年、p.143。
(21)林、前掲書、p.290。
(22)同前、pp.294-295。
(23)同前、p.290。
(24)同前、p.62。
(25)ヤルタ・ポツダム体制とは「「米ソ二大国による戦後世界の分割支配」を
「ヤルタ体制」といい、その日本版としての「占領憲法」を基幹とする「反天
皇・反民族・反国家的戦後状況」を「ポツダム体制」と規定したもの」だとい
う(前掲『右翼・民族派事典』p.36)。
(26)中村粲『大東亜戦争への道』展転社、1990年、p.1。
(27)同前、p.16。引用文中の『新編日本史』は、前出「日本を守る国民会議」
編集の高校日本史教科書である。「藤尾発言」とは、藤尾正行文相(当時)が、
1986年7月に『新編日本史』の記述を擁護し、同年9月には「日韓合邦」は
伊藤博文と高宗の合意に基づいて行われたと述べたことなどを指し、藤尾は文
相を罷免された。また「奥野発言」とは、1988年4月、奥野誠亮国土庁長官
(当時)が閣僚の靖国神社参拝に対する中国の批判に反発した「妄言」のこと
であり、この事件によって奥野も長官辞任に追い込まれた。
(28)同前、pp.68-69。
(29)同前、p.129。
(30)中村粲『慰安婦問題の虚像と実像』国民会館、1993年、pp.50-51。
(31)同前、p.12。
(32)同前、p.14。