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Article #: 2061 (Res to #2059) Entry Date: 99/10/22 23:55:37
From: きんちょ
Subject: Re:「簡約日本語」について
Message: 「簡約日本語」は、日本語の習得課程にみられる中間言語のモデルとして だされたもので、日本語話者の日本語を改造しようとか、語彙を制限して凍結させようなどという意図や、学習者の日本語をその段階にとじこめようとする意図は、なかったと理解していますが、ちがうのでしょうか。たしかに中間言語のモデルとしても、それを人工的につくって提示することに どのような意味があるか、そのモデルが適切か、などの批判は ありえましょうが、学習のステップとして、ああいう かたちでの「日本語」であってもいいから もっと学習者が情報発信型のコミュニケーションをこころみるべきだという発想があってもいいし、むしろ日本語話者のほうが あのような制限されたはなしかたに対してでも あゆみよる必要をはじめて指摘したものとしての意味があったと おもいます。エスペラントについて、「文化」としての言語の側面をつくりえないという批判はエスペランティストにとっては陳腐なものでしょう。エスペラントは当初から自然言語にとってかわるものとして創造されたものではないからです。しかし、わたしが理解するかぎり(わたしはエスペランティストではありません)エスペラントは、それをつかうという行為がすでに「ある ひとつの自然言語が ほかの自然言語をおしのけて つかわれる」ことを拒否するという「文化」を創造し、実践しています。これを「文化」とはみとめない態度は結局、自然言語についても、母語話者による非母語話者へのあゆみよりを拒絶することにつながり、かえって言語をとざされたものにするのに てをかしはしないでしょうか。日本語が日本人だけのものではないということは、日本の「文化・慣習」をうけいれていないひとも日本語をはなすということです。日本語がそういうひとたちの日常語になるとき、「簡約日本語」的な異質な日本語が出現するのは おどろくべきことではないとおもいます。それは そのひとたちの「文化・慣習」に ねづいているのでしょうから。そして、そちらの「文化・慣習」のほうが「正統日本語」が依拠するものより、ひょっとしたら内容がゆたかであるかもしれないのです。そのことに「正統日本語」が はやく気がついて、あゆみよりや相互浸透をしていけば、「ひとつの日本語」のなかに包摂することもできるかもしれませんが、このままでは その期待はうすそうです。

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