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Article #: 3564 (Res to #3559) Entry Date: 00/05/10 14:37:36
From: きんちょ
Subject: 修飾関係も西田哲学?(Re:#3606)
Message:  なるほど。Oyanagiさんの説明で、へんなことをおもいだしました。 わたしは大学のとき、三木清という西田幾多郎の影響をうけた哲学者の研究をしたのですが、三木の本のなかに つぎのようなことが かいてありました。うろおぼえです。  「長い机」「白い鳥」では、客体に対する主体の認識が   のべられているだけで、客体と主体とは分立している。  ところが、「楽しい夏」「おそろしい夕べ」となると、  もはや主客の区別は混沌として、ひとつになっているのである。 三木は、主客が ひとつに「なった」んじゃなくて、もともと 主客が わかたれていない 場所があって、そっちのほうが もともとなんだということを、西田哲学の解説としての意味もふくませながら説明したくて、そんなことをかいたのだったと おもいます。 こんなふうに いわれると、にわかに「ああ、やはり日本語というのは西田哲学のように主客合一で できているのかな」などと かんがえたくなります。実際、時枝文法の「陳述」論というのは、そういう発想が したじきに あるわけですね。 でも、おなじことをOyanagiさんのように<転移修飾>で あるとか、「省略されたウチの関係」だと いっても説明できる。哲学なんて 案外、そんなもんでしかないのかな、とも かんがえさせられたり します。どっちの説明をとるかは きっと このみの問題なのでしょうね。

VALUE="Re: 修飾関係も西田哲学?(Re:#3606)"