|   |
このページは (月刊日本語 presents)に きんちょが投稿した記事のログを投稿者本人が保存したものです。 このサイトには きんちょの投稿しか おいてありません。 以下のリンク、および、ログのなかにあるリンクは もとの掲示板に つながっていますので、おまちがいのないように ご注意ねがいます。 |
| 記事検索|ツリー状に表示|タイトル&コメント一覧 | |
| Article #: 4888 (Res to #4887) Entry Date: 00/09/03 18:14:17 | |
| |
きんちょ |
| | ボランティアの弊害って?(異文化と言語教育) |
| | > 「その国の現地の人の感覚・考え方に近い人、近く
> なくても好きの人のほうが言語能力が上な気が > します。」 ことばの教育が、文化的・言語的マイノリティーに、マジョリティーへの同化をせまるものなのか、文化の多様性をみとめ、少数言語の権利を保障するような社会をめざすために寄与しようとするものなのか、という発想のちがいが このスレッドで最初に提起された問題の核心部分ですよね。未熟者さんの投稿は、その核心部分をすっとばして、なんのための ことばの教育なのか かんがえないままに 発言しているように おもいます。 もし、うえのようなことが いえるのなら、それは、その「国の現地」の社会が文化的多様性をもっておらず、排外的だからでしょう。その「現実」を肯定することは、学習者のアイデンティティーをひどく きずつける危険が あります。それに、そもそも「言語能力」は その ひとが すんでいる地域のマジョリティーの言語の習得度によって はかられるものではありません。それ自体が、同化主義の価値観による基準でしょう。(そんな基準に よりかかるマジョリティーや、マジョリティーに同化したがる ひとびとのマイノリティーの言語の習得能力は その傲慢さゆえに じゅうぶんに発達しない、というような関係なら あるかもしれませんけれどもね。) もし文化の多様性をみとめあうことをめざしているのなら「その国の現地の人の感覚・考え方」というものを一様で固定的に とらえることは できないはず。日本語教育の対象者にはマイノリティーとしての文化をもち、独自の価値観をもちつつ日本社会に定住していくひとが ふくまれています。「地域日本語教師」は とりわけ そういう ひとたちを対象者にしています。そういうひとたちの たちばに たって、そのひとたちをきずつけることなく 生活の たすけになるような日本語教育とは どんなものなのか……という問題意識は、わたしが しるかぎり「ボランティア」の教師のほうが 明確に もっているケースが おおいようです。 |
# of Responses: 1
| VALUE="Re: ボランティアの弊害って?(異文化と言語教育)" | |