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| Article #: 7160 (Res to #7159) Entry Date: 01/04/08 18:58:23 | |
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きんちょ |
| | Re: 推量の「でしょう」と「ようです」 |
| | ・明日は雨でしょう
のほうは、結論だけしか いっていないけれども、 その根拠は いろいろであって いいと おもいます。 さしたる根拠がなくても いうかもしれない(いわゆる 希望的観測というヤツ)し、五感や第六感で感じとれる のなら、それでもいいし、データをもとに科学的に 推測しているのでも かまわないし、だれかに きいたの でも いいと おもいます。 ただし、この いいかたでは、そこで文が おわらな ければなりませんし、 「*あしたは雨でしょうが、ふらないかもしれません」 などとは いえませんね。 ・明日は雨のようです こちらのほうは、自分が感知できる情報と、外部から くる知識やデータを総合して推量判断している形式 ですが、話題が「あしたの天気」ですから、「五感 を使って判断したとき」というのには すこし無理が ありそうです。むしろ 判断に対する はなしての 主体的な かかわりの つよさ、ひきよせの姿勢である とか、判断の正当性への確信度が たかいことが、 「らしい」よりも「(の)ようだ」をつかわせている ように おもいます。 しかし、ここでの推論に動員されていない感情的な 要素が 逆の判断を支持している可能性は のこるのでは ないでしょうか。 「明日は なんとなく はれそうな気が するのだ けれど、どうやら あめが ふるようだ」 「あしたは あめのようですが、もしかしたら、 はれるかもしれないと おもいます」 などと いうことは可能ではないかと おもいます。 つまり、「〜ようだ」について「主体的な判断」 (このことをおおくの論者が「主観的」といっている けれども、それは誤解をまねくと おもいます)という ことが いわれますが、そこで動員されているのは 客観的に提示できる根拠であったり、感官をとおして 感知したこと、あるいは生理的な反応であり、それらと 理性的な推論をくみあわせているのであって、単なる 精神状態や勘のようなものではないと おもいます。 そこで、つぎのように まとめてみては いかがで しょうか。 「ようだ」→客観情報や体感情報をもとに 主体的な判断をする 「だろう」→根拠がどうであれ、その判断を 主観が支持している |
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