(2000年2月27日から)
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以下は第2章 |
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わたしは 1997年10月中旬から、2000年2月中旬まで、2年と4か月間、韓国の江原道 束草市(カンウォン・ド ソクチョ・シ)と いうところに すんでいました。
そこでは、「学院(ハグォン)」と よばれる私的教育機関で語学教師をしていました。
ちょっと わきみちに それますが、韓国では いわゆる「学校」での公教育の ほかに、「ハグォン」と いうのが あって、それぞれ許可をえて いろんな分野の ことをいろんな対象者に おしえています。「学校」でも「ハグォン」でも ないのに、おかねをとって ものをおしえる営業活動をするのは、ごく小規模なものをのぞいて違法です。そして、「ハグォン」の許可をもらうと かならず「○×ハグォン」という名称をなのることに なっているので、おしえる内容別に、「なんとかハグォン」というものが ちまたに あふれます。暗算ハグォン(実際は そろばんじゃなくて 小学生以下の学習塾)、料理ハグォン、進学ハグォン(これは 日本でいう予備校)、ピアノ・ハグォン、コンピュータ・ハグォンなどなどです。そんな なかに、「外国語ハグォン」と いうのが あって、わたしは そこで、日本語をおしえていたのです。
わたしの いた DARI外国語専門ハグォンというハグォンは、1997年の10月、わたしが そこで つとめはじめる直前に開校しました。わたしが DARI外国語専門ハグォンのためにつくった日本語のホームページも のこっています。
そして、2000年2月、このページをかく直前に、わたしは、釜山(プサン)へ ひっこしました。そこでも、ハグォンの教師をすることに なっていますが、ひっこしの おもな目的は、釜山大学の大学院に かようことです。どうして、そういうことに なったかは、おいおい 説明するとして、ここでは、はなしをうんと、さかのぼることにします。
そもそも わたしが日本語教師になったのは、もう12年も まえのことです。最初は、東京の新宿の となりの 大久保(おおくぼ)という ところにある日本語学校の教師をすることから はじまりました。それから、川崎にある専門学校の日本語科で はたらき、つぎに、韓国の慶尚道 亀尾市(キョンサン・ド クミ・シ)という ところにあるハグォンで 1年あまり講師をし、その後、福岡県福岡市にある日本語学校で専任講師をしてから、また、韓国へ いき、ソクチョ、そして、いま、プサンに きています。その あいだに しりえたことを すこしずつ おはなししていこうと おもいます。きっと、なにかの やくに たつことだと おもいますので。
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ここで、よく 「どうしたら韓国で日本語の教師に なれるのですか」とか、「どうしてソクチョへ いったのですか」などと きかれるので、すこし、そういう はなしをしておきましょう。
前者の質問には、わたしは たいてい、無責任にも ひとのサイトを紹介して、それを みるように すすめることにしています。その記事は、森山 新という韓国の大学の先生が かかれたもので、よく まとまっているので、わたしが アドバイスするより正確で役にたつと おもうからです
で、詳細は そちらに ゆずるとして、わたしの個人的な あしあとを、ここには かいておくことにします。
わたしが日本語教師になったのは、1988年です。ソウル・オリンピックの としですね。ちょうど その まえの としぐらいに、当時のタケシタという首相の まえの ナカソネという首相が いいはじめた留学生100万人計画というのの影響で、留学のために近隣諸国からくる外国人の入国資格審査と資格外活動の条件が緩和され、それに対応して、東京などの大都市では、雨後のタケノコのように あちこちに日本語学校が つくられたのでした。当時は まだ景気もよく、労働力不足もあって、たとえば、ガソリンスタンドが そこで はたらかせる外国人のアルバイト生を入国させるため、日本語学校を設立し、そこへ「就学」ビザで外国人留学生を入学させるということも あったのでした。
そんな時代に、わたしは日本語教師になりました。そのころは まだ、日本語教育振興協会も できたばかりで、日本語学校の設置基準も できていませんでした。わずかに、日本語教育能力検定試験というのだけは まえの とし(1997年)に はじまっていて、話題になっていました。この試験は、のちに、日本語学校の設置基準のなかで「教師の資格」の なかに くみこまれることになりますが、そのときは、ゲンバの教師たちからは当然のごとく歓迎される雰囲気ではありませんでした。実際、教師養成講座で あたらしく教師に なろうとするひとをおしえていたベテランの先生が この試験を放棄したり、あるいは うけても おちたり する一方、たまたま その試験に合格した ひとが、どうしたら実際に はたらけるか わからず、養成講座に くるというような状況だったのです。そして、その時点では、圧倒的に日本語教師のほうが不足していて、末端の日本語学校では、検定試験の合否など かまっていられないといった感じだったと おもいます。
それでは、わたしは どうやって日本語教師に なったのか、説明しましょう。
そのとき、まだ わたしは大学に在籍していました。いろんな事情で、わたしは、学部生を7年間つづけたのですが、1987年度は
その6年目で休学中でした。わたしは、休学中に精神療養かたがたイタリアへイタリア語をならいに
いき、あきに帰国しました。7か月あまりの不在中に、東京で おこった劇的な変化が、外国人留学生と日本語学校の急増、そして、日本語教育能力検定試験のスタートでした。わたしが帰国したときには、すでに
その試験の出願は しめきられていましたが、その影響もあって、ちまたは、ちょっとした日本語ブームであり、あちこちで「教師養成講座」が
ひらかれていました。そこで わたしは、アルクの雑誌(ただしリンクは類似のもの)をかって、「養成講座」のリストをみて、いちばん
はやく教師になれそうで、費用の あまり かからないところをえらんで、もうしこんだのです。
もうしこみの電話をしたときのことは、いまでも よく おぼえています。電話ぐちに
でた担当のひとは、その養成講座を開設した日本語学校の管理者だったのですが、ほかの養成講座が長期間の課程で高額の授業料をとったうえ、そこを修了しても
その機関で採用されないことが おおいのに対して、「ウチ」の養成講座では どんどん受講生を日本語学校に採用しているのだと
いったのです。
いま、これをよんでいる ひとは、「そんな うまい はなしが あるものか」と おもうかもしれません。でも、そのときの担当者の説明は、けっしてウソではありませんでした。わたしは、格安の受講料で、週3回、1回2時間か
そこらで たしか4か月の講座に年末(か88年の正月だったかもしれない)から
かよい、講座を修了していない2月には、教室に はいって授業をしていました。
いま かんがえると、そのインスタント「養成講座」は けっして質のたかいものでは
なかったと おもいます。おそらく、くだんの担当者に高額ぼったくりのように いわれた「ほかの養成講座」の
ほうが、まともであったのには ちがいありません。基礎理論から みっちりと講義をして、ひとつの教授法に習熟させようと
すれば、その程度の期間と費用が必要なのは当然で、それだけのノウハウをもっている機関であれば、当然、現役教師の質も
たかいのですから、養成講座をでたからといって、すぐに 新人を大量に採用すれば、ゲンバに混乱をもたらすことは必至です。だから、いまの
時点で かんがえれば、わたしは あのときの短期促成型「養成講座」には、問題が おおく、ほんとうに日本語教師を
そだてるものとしては もっと充実したものでなければならないという意見に賛成します。しかし、その当時、わたしは休学中の学生で、つぎの年度は最終学年とはいえ、それまでに規定の単位は取得しており、卒業論文をのこすだけの状態でした。大学には週1日しか
いかず、かといって4年で卒業しなかったため、あそんでいるわけにも いかず、在学中なので就職も
できないなかで、4月から、なにか できるしごとをさがしていたのです。そんな わたしにとって
その養成講座は、ぴったりなのでした。
その養成講座のある日本語学校で当時使用されていた教科書は、漢字圏の学習者用のものと、非漢字圏の学習者用のものに わかれていたのですが、養成講座の前半は、非漢字圏の学習者用の教科書の授業の すすめかたを1課から順に、養成講座の後半は、漢字圏の学習者用の教科書の すすめかたを おなじように講義していき、ある ところまで いったら、受講者が順に そこまでの ある単元の模擬授業をしてみて、それを講評するといった ぐあいだったと おもいます。ただ、講師の先生も、きっと、おなじようにして「養成」されてきたのでしょう。その講義は そういう意味では、非常に実践的でした。そんな促成栽培で「養成」された教師が、教室に でても やっていけるための秘訣のようなことをいろいろと はなしてくれたように おもいます。そして、あるひ、さきほどの担当者に「どうですか、養成講座にでて自信が つきましたか?」と きかれ、「ええ、まあ」と こたえたら、その つぎの週から、わたしはクラスを担当することになりました。それまでの養成講座の講師が いっぺんに同僚になり それ以来、したしく つきあうようになりました。いまでも日本語教師をつづけている ひとは おおくは ありませんが、そのうち なんにんかとは つきあいが つづいています。
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「みちをあるいている ひとをつれてきて日本語教師にする」などという
はなしが まことしやかに されていた時代、わたしは、日本語をおしえはじめました。
おなじ養成講座で勉強していて ひとあし はやく 教師に なっていた ひとの授業を
たしか 1日だけ みせてもらい、そのクラスをふたつに わけて できた あたらしいクラスで
週3日 おしえることになりました。その学校のシステムは、ひとつのクラスを月・水・金と、火・木とで担当教師をかえて
ふたりで おしえるというものでした。1日に午前と午後のクラスがあり、月・水・金か
火・木で、ひとつの単位に なるので、勤務時間帯は4つに わかれていることに なります。そして、そのうち
クラスをわりあてられた時間帯だけ勤務するので、おなじ時期には4つまでしか 担当クラスは
できません。そして、わたしは、つとめはじめて2か月も たたないうちに 4クラスもつことになりました。たしか、3クラス以上もっていると
常勤教師あつかいとなり 厚生年金が ついたように記憶しています。
いまでは信じられないことですが、そのころ、日本語学校の
おおくは随時入学でした。つまり、毎日、あたらしい学生が入国しては、勉強をはじめていました。学校では、新規学生が
ある程度 日本語が できるときには、レベルの あうクラスに いれますが、たいていは、ゼロから
はじめる ひとたちなので、そのときには、いちばん レベルの ひくいクラスに いれます。したがって、いちばん
したの クラスでは、まいにち「あ・い・う・え・お」から おしえなければならないということも
おこりうるのですが、それほど心配は いりません。そのうち、人数が ふえてくると、いちばん
したのクラスは ふたつに わけられます。そして、そのときまでに すこしでも できるようになった
ひとたちで 1課からスタートするのです。
こういう方式は、オーソドックスな日本語教育学、たとえば なんでもいいのですが、日本語教育関係のテキストで、「コースデザイン」をあつかっているようなものをよめば、あたまから考慮の対象外であることは明白です。どんな「コースデザイン」のテキストでも、まず、コースには
はじまりと おわりが設定され、そこからカリキュラムづくりが はじまると かいてあるでしょう。いつ
はじまって、いつ おわるか わからないクラスについて、計画をたてて教育するなどと
いうことが ほんらい できるはずがないのです。
しかし、かんがえてみれば、おしえている教師のほうも、計画をたてるだけの能力をもっては
いませんでした。なかには、そういうことが できる先生も いるには いたのですが、もし、開講日が設定され、クラスの期間と達成目標が
しめされていたとしても、その当時の状況では机上の空論に おわったかもしれません。なにしろ、学生の実質の出席率の
ばらつきが あまりにも ひどく予測の範囲をこえていたからです。
この学校の当時のシステムをたとえれば、駅まえから発車する巡回バスみたいなものだったかもしれません。バスに
お客さんが 何人か たまると発車し、最大でも2年で もどってくるバス。途中下車する
お客さん、もっと ゆっくり いこうとして、途中で ひとつ うしろのバスに のりかえる
おきゃくさんなどが いて、のっている お客さんが いなくなると、バスは また駅に
ひきかえしてきて、あたらしい お客をのせるというようなものです。駅まえに お客さんが
たまると、バスは増発され、それが はけると へらされたりも しました。
このシステムの長所は、運転手と客が合意すれば、ゆっくりでも、はやくでも はしれるということです。ときには、運転手と客が、はしっていないところも、はしったことに
してしまうことだって できました。運転手にしても、計画的に はしることが できるように
なるためには、何回かは このようにして、実際に運転してみることが必要だったのに
ちがいありません。しかし、いつまでも このような やりかたをしていると、計画なしに運転することに
すっかり なれてしまい、しまいには交通ルールも まもらなくなったり、うらみちや
ちかみちをとおり、停留所をいくつか すっとばしたりするように なります。運転には
なれるけれども、目的地には たどりつけない運転手のように なってしまう危険が そこには
ありました。
この日本語学校で はたらきはじめたころ、わたしは おおきな錯覚をしていました。それは 勤務が
おわる時間についてです。1日4時間と きめられた授業ですが、午後の授業は 1時からスタートして、なぜか
ほかの先生たちは4時になると かえっていました。わたしは ちいさいころから けっして算数は
にがてではなかったのですが、みんなが そうしているので、なんとなく そのことに納得して、ずっと4時にタイムカードをおして
帰宅していたのでした。1か月ぐらいして、ひるやすみにミーティングがあり、「タイムカードを
おす以上、5時以降にしてください」と いわれました。そして、それからは、5時まで
のこっていた先生が、ほかの先生のタイムカードを全部おして かえるという習慣に
なったのでした。
わたしは、そのときまで、授業が おわる ほんとうの時刻が 午後5時であることをしりませんでした。なぜなら、ほとんど
すべてのクラスが 4時には おわっていて、あとは教師が あつまって雑談をするというのが、そこで
おしえはじめたときからの習慣だったからです。
その日本語学校では、出席簿は、ひづけごとに○か×を記入する欄があり、授業時間の半分以上いないと△に
なると いう ぐあいの管理をしていました。これは あくまで想像ですが、たぶん、そういうことから、4時間の授業時間のうち2時間教室にいれば出席になると
いう計算が成立し、すべての学生が1時間遅刻、1時間早退していたのかもしれません。そして、おかしなことに、そうやって
あたらしく つくられた2時間の授業時間のうち、中間に30分くらいの やすみが はいることも
めずらしくありませんでした。これは、もともと4時間の授業をきちんとしていたときの
やすみ時間だったのでしょうが、どこかのクラスが やすみをとれば、ほかのクラスが授業をつづけることは困難でした。
いまでは、どこの学校でも、4時間の授業時間が あれば、時間ごとに4回出欠をとるのが
あたりまえだと おもいます。しかし、当時
その日本語学校には そういうことをきちんとしようという主張は、教師からも学生からも、事務員からも
あがりませんでした。だけの利益にも ならなかったからです。
さきほど、わたしは、はたらきはじめて2か月後には 4クラスもつようになったと かきました。計算上、週5日、ずっと8時間授業をしていたことに なります。それが可能だったのは、うえのような からくりが あったからなのです。
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わたしが最初に つとめた日本語学校の経営母体は不動産の会社でした。社長とは直接あったことは ありません。なんでも、在日の外国人だと いうことですが、日本名をなのっていらっしゃったから はっきりとは わかりません。
不動産の会社が母体なので校舎は「自社ビル」と いうことになります。校舎は東京に
いくつか ありました。わたしが つとめはじめる すこしまえまで、わたしの勤務地の校舎の地下の部屋は寮になっていたそうです。あさ、したの階から学生が
あがってきて、「おはようございます」と いった ぐあいに授業が はじまっていたとか。たしか、3階も寮だったような
おぼえが ありますが、わたしが はいって すぐ、それらは教室に なりました。とにかく
そんなふうにして会社が保有する不動産を有効利用していたようです。
ちなみに、校舎の まんまえは、ラブホテルで、はすむかえは産婦人科の医院でした。
直前まで寮だったという地下の教室は、教室になった状態で はいっても、ろうかが うすぐらく、およそ、そこに すんで生活したいとは おもえない部屋でした。でも、学生は、授業かアルバイトで そとに いるほうが ながいので、それでも よかったのかもしれませんが。
さて、そんな職場も、半年も たたないうちに、様子が かわりはじめました。日本語教育振興協会が
うまれ、日本語学校の設置基準をきめ、適格校の審査をはじめるための した準備が
すこしずつ すすんできたからです。学校でも だんだんと しめつけが きびしくなり、まず、授業時間の4時間は、その
はじまりと おわりを厳格に まもるように いわれました。それは、入国管理局の職員が、学校のまえに
はって、学生の でいりをチェックするのに、くる時刻が まちまちでは、出欠管理が
できていないと みなされるからというのが理由でした。しかし、まだ 88年の段階では
そういうのも かたちだけのことで すんでいました。こない学生は依然として こなかったし、おそく
はじまったり、はやく おわったりすることが禁止されれば、堂々と中間の やすみ時間に当校したり早退したり
していたのでした。それから、徐々に教師の資格ということが いわれはじめました。認定校に
なるためには、学生定員に対して きめられた数の「資格」に
あてはまる教師を確保しなければならないという目標が しめされ、日本語学校も それを意識しなければならなくなってきたからです。その「資格」というのは、[1]大学で日本語教育を専攻・副専攻したもの、[2]日本語教育能力検定試験に合格したもの、[3]420時間以上の養成講座を終了したもの
の いずれかと いうようなものでしたが、当時、日本の大学で「日本語教育」の課程をおいているところは、かぞえるほどでしたし、卒業生をだしているところは、さらに
すくなく、420時間以上の課程をもつ養成講座も おおくは ありませんでした。また、それに
かよったとしても、現役の教師が かようとなると しごとしながらでは、1年は かかってしまうし、高額の費用も
かかります。当時、たしか、一般の学校の教員免許を もっていたり、大学や海外の機関などでの日本語教師としての経験があると、これらの資格をみたしていなくても、「資格」のある教師として考慮されるというような特例も
あったと きいていますが これも、一部の ひとにしか適用されません。このなかで、現役の教師が唯一、みじかい期間に達成できそうなのが、日本語教育能力検定試験でした。1988年1月の第一回の試験の
ときには、その合否が教師の「資格」にリンクするというような説明は まったく なかったので、現役の教師でも
受験しないひとが おおく いました。それが、第二回の試験のときには、その機関の教師の
なかから合格者をだすか、合格者を教師として やとうことが、その機関の将来に かかわってきたのです。
わたしは、1988年の なつから 高田馬場(たかだのばば)にある語学系の専門学校(日本語科も設置されていた)が
ひらいた日本語教師養成講座に かようことにしました。その養成講座は、420時間のカリキュラムは
ありませんでしたが、日本語教育能力検定試験の対策コースをもっていて、これから日本語教師をめざす
ひとばかりではなく、現役の教師も たくさん参加していました。そして 実は わたしは
そこで はじめて日本語教師として必要な基礎的な勉強をしたのでした。それまで独学で
しっていたこと、「国語」の勉強として してきたこと、実際に おしえることで わかってきたこと、同僚の先生から刺激をうけたことなども
多少は ありましたが、それだけでは あまりに断片的で 整理も されておらず、ひとりよがりの部分も
おおかったということを その講座に かようことで しりました。
この文章では、日本語論のようなことには ふれないつもりなのですが、養成講座に かよって勉強したことのなかで いままでの はなしに かかわることをひとつ かいておきましょう。それは、うえでも すこし ふれましたが、コースデザインについて 勉強したことです。
「日本語をおしえるための勉強」と いうと、日本語の文法とか、ドリルの やりかた などの授業テクニックとか、テストの つくりかたなどの勉強を想像するひとが おおいのではないかと おもいます。それも大切なのですが、これから日本語教師をめざすかたに、ぜひ、あたまに とどめておいてもらいたいことは、日本語教師として必要な資質のなかには、授業をはじめる以前と、授業が すべて おわったあとに教師が しなければならないことに かかわるものが おおいのだということです。もっと わかりやすくいえば、日本語教師というのは、教師が すべて校長の たちばになっても やっていける能力を必要とされているのだと いうことなのです。実際、ここのところで機関にとって必要な人材であるかどうかが きまると いっても いいすぎではないし、ここのところが しっかりしていれば、どんな ところへ いっても自立した教師として やっていける。もし、わたしが海外へ教師を派遣する担当者だったら、授業の なかみ以上に、授業を計画し、管理する能力を重要視します。そこが しっかりしていなければ 全体が だめになってしまうからです。
そのとき わたしが かよった養成講座の講師で きていた ある先生は、政府機関から日本語教師を派遣する事業に関係している ひとでしたが、つぎのようなことをいいました。「いろいろな ところで日本語教師の集団をみていて いちばん問題に おもうのは、きちんと会議が できていないことだ。それぞれが はっきりと自分の意見をだしあって、率直に議論して結論をまとめていく能力に かけていては、日本語をおしえる以前に、教師としても、組織の一員としても失格だ」。その発言が、どういう文脈で でてきたか、わすれてしまいましたが、養成講座で ある問題について受講生の意見をもとめたときに、うまく かみあった意見が だされなかったときだったのではないかと おもいます。これは、あまりに基本的なことだと おもう反面、自分のことをかんがえると、いまでも みみがいたい ことばでもあります。いままで、教師をしていくなかで、ときには、したっぱの教師として、ときには、やとわれ人として経営者に対峙して、ときには、専任教師として、ときには、管理者に ちかい たちばにたって、自分の意見をいつも率直に のべてきたかと とわれれば、けっして むねをはって「はい」とは いえません。この先生が そのとき いったことは、こののち、いろいろな場面で みにしみて感じることに なったのです。「よらば大樹の かげ」の ようなこと、会議の ばで発言せず かげぐちをたたくようなこと、自分の周囲しか みわたさずに そのとき そのときで 一貫しない発言をして いちばん たたきやすい ひとを攻撃すること、などなどのことが それから経験する職場には けっこう あふれていました。だから、「きちんと会議をして はなしあう」ということが、どれほど 大切で むずかしいことか おもいしらされたのです。
はなしをコースデザインに もどしましょう。コースデザインとは、だれを対象に、どこで、どのように、なにをおしえる授業を どのような体制で おこなっていくかということ全体のデザインです。これを どのような 手順で きめていったらいいかということを勉強するのです。よく、カリキュラムという ことばを つかいますが、これは、コースデザインによって輪郭をきめられた授業計画について、その なかみをどうするかと いうことをさしています。ですから、カリキュラムの まえに、コースデザインが なければ ならないのです。
ちょっと かんがえれば わかるように、こうした勉強は、その当時の なまえは「常勤」でも、実際は たくさん はたらいているだけの時間講師という たちばからすれば、実際の しごととは、ほとんど関係ありませんでした。まえに かいたように、そのときの日本語学校では、コースデザインは できあがっていて、カリキュラムも なにも「学生が いなくなるまで、きめられた教科書をさきに すすめること」と いう以外に、きめるべきことが なかったからです。反対にいうと、「極力、カリキュラムをかんがえずにすむコースデザインに固定した」と いえるでしょう。しかし わたしが勉強したことは「そのようにしては いけない」と いうことだったのです。一定の期間を設定し、その期間に学習する学習者の人数と構成を把握し、外的な条件を勘案して、どのようなクラス編成で、どのような目標をたてて おしえるか、最適な ありかたをかんがえる。コースが おわったら、問題点をフィードバックし、つぎのコースの設計に いかしていく、と いう作業を定期的に くりかえすことが必要だと そこでは ならいました。そして、そういうコースの設計のもとに、カリキュラムをたてていき、最後に、そのカリキュラムを実現するのに必要な教材をかんがえる。そのとき、もし、市販の教材で適合するものがあれば、教科書に指定する、と いうのが、まっとうな順序だと、わたしは おそわりました。
現実は正反対でした。最初に きまっていたのは、教科書。カリキュラムは、教科書の提出順序に したがって、項目をおしえていくこと。それ以外は、必要なときだけ、教師がほかの教材をコピーして補充する。コース・デザインは、その教科書を順に すすめていくうえで、なるべく支障をきたさないシステムを維持するというものでした。
あるとき、教師の あいだで「意見があったら だせ」と いうことがあり、わたしの
いた校舎の教師が あつまり、「漢字圏と非漢字圏を いつまでも わけておくのは おかしい」「漢字圏の教科書(当時は『にほんごの きそ』でした。『しん・にほんごの きそ』に
なる まえの、単色ずりの もの)は文型練習偏重だし、非漢字圏の教科書(『An Introduction To Modern Japanese』)は英語の説明が
おおすぎて、それに たよってしまうので、その中間ぐらいがいい。もし、どちらかというのなら、どちらも『にほんごの きそ』にして、ダイアローグを工夫したらどうか。と、意見をまとめて
だしました。かんがえてみれば、その校舎だけでも、かえようと おもえば、かえられたはずですが、本部から
かえってきた こたえは「養成講座から、この教科書に即して おしえることを前提にしているのだから、教科書は
かえられない」と いうことでした。
わたしは、その日本語学校の養成講座で、「教科書を おしえるのではありません。教科書で おしえるのです」と おそわったことを おもいだしました。そのとき、うえのような理由で、意見をはねつけたのが、そのときの
養成講座の先生だったことは すぐに わかりました。その先生は、ことあるごとに『An
Introduction To Modern Japanese』という非漢字圏の教科書を弁護していましたが、実のところ、漢字圏のクラスは担当せず、ほかの教科書をつかったことは
ないとのことでした。「教科書で おしえるのです」と いいながら、教科書べったりだったのです。それは
せいぜい、「教科書で 教科書にある日本語を おしえる」のであって、けっして、「学習者に必要な日本語を 適切な教科書で
おしえる」と いうことでは なかったのです。
わたしは、いまの時点で うえに でてきた教科書の評価をすれば、そのときの意見は、もしかしたら
まちがっていたかもしれないと おもいます。しかし、大事なことは そんなことではなくて、現場の教師が
意見をだしあって、はなしをまとめても、教科書が かえられなかったという 学校の
しくみです。こういうことをしていては、教育内容を改善するということは根本的に
むずかしいと いうことです。もちろん、教師個人の努力は それに関係なく していかなければならないけれども、逆にいうと、すべての問題は教師個人の能力に還元され、学校全体で対処しなければならないことや、よりよい授業を実現するためにシステム全体を改善することは問題に
されなくなるのです。その結果、よいアイディアをもつ教師が いても、それを十分に
いかすことができず、「それなら、従来の やりかたをつづけて摩擦をおこさないようにして、リスクをせおうのも
やめよう」と、いうふうに かたむきがちに ならざるをえないということが問題なのです。
たとえば、教科書の提出順にも いろいろな問題が ありました。『にほんごの きそ』は、もともと技術研修生むけに短期に必要な文型を定着させることを第一目標に つくってあるので ところどころ、無理な表現や、より体系的な理解のためには 提出順序をかえたほうが よいと おもわれる部分が ありました。そういう部分についても、「すべてのクラスが、教科書の順番に すすんでいく」というシステムの原則をゆるがしかねないと いうところで、検討をしたり、改善をしたりする機会が うばわれてしまっていたのです。
もともとは、試験に合格するための勉強でしたが、勉強するにつけ、わたしは 職場に疑問をつのらせる結果と なりました。そこで、わたしは、試験対策の勉強をするとともに、別の職場をさがすように なったのです。
87年にアジア諸国から、急激に就学生・留学生が入国するようになりましたが、88年の後半になると、すでに新聞では「就学をかくれみのにした不法就労」などというフレーズが 登場するように なっていました。日本語学校にくる学生の おおくが 実のところは 「でかせぎ」をしようとしていることが あきらかになってくると、入国管理局も事態を放置できなくなってきました。不法残留や不法就労、「就学」のビザで入国したものの日本語学校には全然かよっていない「学生」、はては、日本語学校が海外で入学金をだましとったり、ビザが おりないのを承知で てつづき料をとったりするような問題が つぎつぎと 発生しだしたのです。
入管が こういう事態を予測していなかったのかと いえば、それは、かなり うたがわしいと おもいます。その後の きびしい ひきしめをかんがえれば、88年までの許可の だしかたは どうみても異常だったからです。ただ、以上のような表現は、あえて いまのような入国規制が必要だという たちばにたったて かいたものだからで、別の みかたも ありうることを指摘しておかなければなりません。それは、うえのような混乱が おこるとしても、日本は単純労働者をふくめてアジアからの労働者を原則として うけいれるべきであるという議論です。日本が戦後、第三世界の開発独裁にのって経済進出をしていった みかえりとして、労働力の門戸開放をせまられるのは しかたがないことだ、むしろ、それを積極的におしすすめることで、他民族共生社会をつくっていかなければならないという主張が、すこしずつ うまれてきていたのです。そして、当時の ひとで不足解消という意味をもって突然、入国規制が ゆるめられ、一定の効果をあげたところで、今度は しめつけをはじめるような 入管の やりかたは、労働力の調節弁として外国人労働力を無権利状態に おいたまま つごうよく利用しようとする人権無視で差別的な政策であると批判する こえも、少数ながら あがりました。労働組合 東京ユニオンの一部門として できた「日本語学校教職員ユニオン」には、そのような視点が ふくまれていたと おもいます。しかし、思想的には ともかく、あの時期の現場の うごきのなかで、そのような姿勢で一貫した態度をとって対処できる日本語教師の組織は ほとんどなかっただろうとおもいます。たとえ外国人の人権擁護の たちばに たつ視点が あったとしても、おおくの日本語教師が そのとき直面した問題は、急激な膨張のあとの しめつけで職場と自分の職が維持できるのかという危機であり、その たちばを擁護しようにも けっして こちらの おもいどおりには うごいてくれず、かえって危機をおおきくしているとしか おもえない めのまえの学生たちへの対応だったのです。
入管は、学生のビザをださないという方法で、日本語学校をしめつけることができます。もともと入管が「就学」の在留資格でビザをだす条件は、日本にいる保証人をつけることでした。そして、ほとんどの ばあい、その保証人が学生の学費と生活費を負担することを約束して ビザが発給されるのですが、入管は保証人の条件をだんだん きびしくしていくことで、この しめつけをつよくしていきました。初期には、日本語学校の校長や、はたらかせることをみこんだアルバイトさきの経営者が保証人であってもビザをだしていたのですが、89年に はいると、そういうものは、まっさきに不許可に なりました。それだけで、「日本語教育」以外の目的で つくられた日本語学校は撤退していくことになります。ただ、問題は それによって教師の くびが きられていくことでした。それから、入管が条件に つけたのは、本人の学習動機や潜在的な学習能力でした。入国理由書に「日本で おかねをためたい」などと かいたら、おとされるのは あたりまえとして、自分の経歴と日本で勉強したいこととの一貫性がないとみなされると、それだけで不許可の理由にされたのです。おもてむきは、「不法就労目的の うたがいあり」と いうことになるわけですが。また、潜在的な学習能力とは実際に日本語学校に はいって やっていけるかを本国の学校の成績で判断しようというものです。これは、おそろしく非合理なことで、日本語学校は義務教育で おこなうような教科を おしえるところではないのですから、日本語の学習能力と学校の成績は ほんらい なんの関係も予想できないし、立証されているわけでも ありませんでした。ただ、おとすための名目に すぎないことは明白でした。さらに、入管は年齢の制限も つけるようになりました。そうして、大卒でも30歳、高卒なら25歳ぐらいまででないと、「就学」ビザをもらえる可能性は、いちじるしく ひくくなってしまったのです。
これらの政策を批判するのは簡単なことですが、入国審査というのは もともと 審査官の裁量で どうにでもなる部分が おおきいところです。入管には もちろん、審査基準というものが あるのでしょうが、それをすべて公表する義務もないし、だれが どの基準に あわなくて不許可になったのか説明する必要も、みとめていないのです。しかも、不許可によって不利益をこうむる ひとが いたとしても、もともと 入国すべきひとは 外国人ですから、うったえることも できないし、選挙に影響するということも ありません。むしろ、外国人など いれないほうが、へんなトラブルをおこさないで すむ分だけ 政権与党のうけは よくなるとさえ いえるでしょう。ほかの許認可事務でも そうなのでしょうが、こと、入管行政に関する かぎり、許可を もとめる がわが とれる対抗手段は 皆無に ひとしいのです。
ただ、わたしのいた日本語学校では ひとつの対策をとっていました。それは、あまくだりです。あたらしく できた校舎の校長に、もと入管職員をやといいれたのです。その結果、保証人の適不適の判断基準とか、入国理由書の かきかたのポイントなどは はやい段階から 指導が はいり、また、おなじような条件でも、ほかの日本語学校に くらべて 発給率が たかいということが あったようです。わたしは、あまくだりで きた 校長とも はなしたことがありますが、温厚で ひかえめな かたでした。わたしは、その かた個人に対しては 特別わるい感情は ありません。それに、その時期、こういう入管と つながりのある ひとを学校に むかいいれることが できるものなら、おおくの日本語学校が そうしようとしたでしょう。むしろ わたしが不思議に おもったのは、どうして、わたしのいた日本語学校に それが可能だったのかです。「あまくだり」というのは あくまで 最後に あらわれた結果の かたちで、そもそも そういうことが可能だったのは、はじめから入管と なんらかの関係が あったからに ちがいありません。そういう意味では、わたしには うかがいしれないことが まだまだ あったのだと おもいます。
入管は、一般的に在留資格認定の審査を きびしくするだけではなく、その審査をつうじて 日本語学校の格づけをはじめました。また、あきらかに問題のある学校には「不適格校」として、ビザをださないということも できました。その際 問題にされたのは、出願書類よりも入国後の学生が 学校に かよわず不法就労やオーバーステイをしていないかと いうことでした。就学生が検挙されるような事件が あれば、その就学生が かよっていた学校のビザの発給は きびしくなったり、ときにはゼロにも なり、廃校を余儀なくされるということに なってきたのです。
入管の この方針は、「日本語教育振興協会」による審査と連動し、日本語学校が 自分の学校の学生の出席やアルバイトの状況を管理し、どれだけ違法な活動をさせないように するかで、ビザをだすか どうかが きまるようになってきました。
こうなってくると、学校と学生は おたがいを警戒しあうように
なり、教師は その あいだに たたされ、くるしい たちばに おいこまれます。すでに、出願の段階で成績による選別が
おこなわれるようになり、卒業証明書や成績証明書の偽造が めだつように なっていました。なかには、なにをかんがえているのか、日本のワープロで
つくった中国の偽造証明書を もちこむ学生もいて、わたしのような しろうとでも、ひとめみて漢字の字体が
ちがうので、偽造だと わかったりしました。しかし、もちろん なかには精巧なものも
おおく、学校の事務は さんざん なやまされる結果となりました。
まえの項で、わたしは このような事態に
なるまえは、「出欠管理をきちんとしようという主張は、教師からも学生からも、事務員からも
あがらなかった」と かきました。みんなの利害が きびしくしないことで一致していたからです。こんどは、急に
学生の出欠をきびしくしないと、日本語学校が みずからの くびをしめる格好に なりました。そうなると、学生は
なんとか ごまかして、自分だけは のがれようとする。しかし、その ひとりひとりの集積が、自分が
いま 日本に いることの基礎になっている学校を あやうくし、ひいては、自分たちの
あとに つづく同胞たちが目的を達成することをあやうくしているのです。自分だけは
たすかろうとして、事態は どんどん わるくなるのですが、はたらきに きている学生は
もともとチャンスをとらえて個人的な成功のために きているのですから、いうことをきくはずも
ありません。なれあいが、一転して、反目へと かわっていったのです。
いま かんがえると、日本語学校としても 日本語教師としても、その勃興期の いいかげんさについては反省すべきことが あるだろうとは おもいます。しかし、わたしは いまでも、入管のとった やりかたは 責任をほかに なすりつける部分が あって 納得できません。ほんらい日本語学校は就学生の私生活まで管理すべき機関ではないし、そう あるべきだとも おもいません。不法就労をてだすけすることは つつしまなければならないとしても、学生を監視する やくわりまで学校に せおわされることで、日本語教育の げんばは とても ゆがんだものに されられてしまったと おもいます。入管は、ビザをだした以上、管理責任を日本語学校に とらせるのではなく、適切な指導や、問題を合法的に処理できる わくぐみづくりや、行政的な措置を検討すべきであったと おもいます。みずから まねきいれておいて、用ずみになったら、「不法だ」として おいだすような やりかたをとったため、異文化交流や他民族共生などの意識をもって、日本語教育という職域に はいり、あたえられた もちばで 精一杯はたらこうとした日本語教師たちの おおくが まきぞえをくった かっこうに なったことは やはり問題だったと おもうのです。
そのことに関連して、わたしは この時期、たいへん不幸なことを
あまりにも たくさん目撃してしまいました。それは、外国人への偏見をもたず、国籍や人種や、貧富の
わけへだてなく世界の ひとびとに日本語をおしえ、日本をつたえたいと こころざした
ひとたちが、実際の外国人と接することによって、反対に、おかねの ない くにぐにから
きた外国人、とりわけ 人数が おおかった中国人への反感と憎悪をいだきながら 日本語教師をやめていったことです。そのひとたちの
おおくは、もとからの外国人ぎらいではないし、おそらくは、人間の平等ということだって
たてまえ以上に大切に かんがえている ひとたちに ちがいありませんでした。しかし、日本語が
ある程度以上、じょうずになっても ならなくても帰国したあと なにかが かわるわけではないけれども、日本にいる
あいだに おかねをためられるかどうかで 人生が おおきく かわってしまう かれらに、日本語教師としての熱意をぶつけることは
余計な お世話以外の なにものでもなかったのです。しかし、日本語教師として日本語学校に
やとわれて職をえて、しごとをはじめたばかりの おおくの教師たちにとっては、かれらの
たちばを理解することは むずかしいし、たとえ理解できたとしても なにも できることはない。ほねをおって苦労しても、その分、日本語教師として自分の
おかれている たちばを くるしくしかねないというのが現実でした。
わたしは、偏見というものは、実際に 偏見をいだいている対象に じかに ふれ、おたがいをしることで解消されていくものだと
かんがえていました。めのまえで、まさに、それと正反対のことが おきていることに
わたしは驚愕し、とても おそろしく かなしいことだと おもいました。しかし、全体の構造が
ゆがんでいるときに、そういう事態が おこるのは、やむをえなかったのかもしれません。
これは、実際に あったことですが、わたしのクラスの ある学生が窃盗で警察に つかまりました。そのとき、日本語学校の
わたしがいた校舎の校長は、「あなたが 自分の学生をたすけたいと おもうのなら、担当の教師として警察にだす始末書をかいてください」と
わたしに いったのです。わたしは、理不尽だとは おもいましたが、学生を留置場から
だすために 始末書をかきました。その学生は、そのことに対しては感謝してくれましたが、だからといって、その後、きちんと出席して勉強したわけではありません。日本で
つづけて はたらくことができるように してくれたことに感謝していたのです。そして、もし、その学生が
また つかまったりしたら、日本語学校は、わたしを処分することで、警察や入管に対して責任をとったよな
かっこうをつくったかもしれないのです。
1989年の1月に あった第2回の「日本語教育能力検定試験」には、なんとか合格することができました。
わたしは、その としの6月から、川崎にある専門学校の日本語科に時間講師として採用され、4月学期に
おくれて入国した学生をおしえることになりました。たしか、もう その時期には日本語学校でも
随時入学制が不可能になり、「就学生」のビザの申請も 入管が年2回の入学時期に対してしか
みとめなくなっていたのではないかと おもいますが、川崎の学校は もともと専門学校の課程の
ひとつとして、日本語科(正式の名称は「日本語・日本文化学科」だった)を設置していたので、専修学校の設置規則が適用され、当初から当然に、年2回、はる4月・あき10月の入学期が
きまっていたのです。
しかし、この89年のはる・あきの審査は、とても おくれていました。あいつぐ問題のため、入国管理局は、入国事前審査をとても厳密にし、一方で、膨大な申請者の
かずに おされて、4月に入学するべく その3〜4か月まえに提出された書類の審査が、4月をすぎても
おわらず、中国の学生などは事前審査での許可が おりてから出国までにも相当の時間が必要なため、6月ごろに入国する4月生が
あらわれるという状況が輩出されたのです。
これでは、学期制をまもっていた学校でも、随時入学と おなじように、スタートが そろわなということに なやまされ、入管によって学期制が なかば強制された日本語学校でも、学生が さみだれ式に くる現象に かわりはなかったと いうことに なります。わたしは、6月から、かけもちで おしえていたのですが、日本語学校のほうは、ほとんど従来のままのシステムで うごいていました。そして、専門学校の ほうは、4月に スタートしたクラスに おくれてきた最初級の学生を いれることが できないので、10月の つぎの学期が はじまるまで、そういう学生だけを あつめて、別クラスを つくったのです。ただし、経営上の問題が あるので、わたしが臨時やといの教師として採用され、週3日だけ みじかい時間、おしえることになりました。ほんらい、その学生たちも規定の時間、学校に こさせて学習させなければ たてまえとしては まずかったのでしょうが、責任の一半は入管にもあるし、少人数クラスで集中して おしえるということに免じて、不足している時間数は自習というふうに処理したのだと おもいます。実際、その後は、その学校でも このような かたちでの別クラスの設置は されなくなりました。それは、そういう事態をもフォローする専任教師が もうけられるように なったからなのですが、そのことは、すこし あとで、説明することにします。
89年は、世界中で激動のあった としです。日本でも天皇の代がわりの あった としとして記憶されています。そしてまた、このとしは 結果的にみて ながびく不況の はじまった としでも あり、日本語業界の ながい ふゆの時代の到来の としでも ありました。
このとし、中国で天安門事件が ありました。わたしのクラスの学生の
なかにも、兄弟や親類、友人が虐殺されたという ひとが いました。東京にいた 中国人たちは
ほとんど学生たちに自分の たちばを一体化させて事態をながめていました。たしかに日本へ
こられた ひとたちの なかには、中国共産党の ちからを背景にして留学を実現した
ひとも おおかったにちがいありませんが、すくなくとも、そのひ・そのときの時点で、国家権力による民主化運動への弾圧を肯定する留学生は皆無でした。日本語学校をふくめ、あたりは騒然となり、まったく授業どころでは
ありませんでした。その はる、卒業したばかりの わたしの出身大学の中国人留学生会が、留学生たちの運動の中心となり、デモを組織したりしていました。わたしは、その大学にいて、それなりに学生運動のようなこともしていたのに、かれらの存在に
それまで全然 関心をはらってこなかったことを そのとき、認識させられました。そして、一気に、自分は大学生のときに「社会に
かかわる」などと いったり 「運動」したり したつもりになっていて、その実の ところ、いったい
それが なんだったのか、痛烈な批判をつきつけられたような気もちになって おちこんだことをおぼえています。
天安門事件の余波は、なんか月か つづき、そして潮が ひくように、しばらくすると表面からは
みえなくなりました。そして、たぶん1年も すぎれば だれも くちには しなくなり、2年も
すぎれば、また、中国の学生たちは共産党の公式見解に まっこうから反対するようなことは
めったに くちに ださなくなり、さらに なん年間の経済成長によって、中国からくる留学生の質も微妙に
かわっていったようです。しかし、わたしは、あのときの学生たちの いかり・さけびが一時の熱病のようなものだとは
おもいません。たぶん、容易には みることのできない深層にあるものが ごく まれに露出する瞬間をわたしは
かいまみることができたのだと かんがえるほうが しっくりいくように おもいます。そして、その「深層」は
いまの中国の学生たちの「表層」とも通底していて、それは体制をゆるがすものでありながら、体制をささえつづけるものでもあるような、そんな圧倒的な構造をしめす
なにものかであるような気がして ならないのです。
そのころ、中国人たちが東京でデモをしていました。そして、わたしの つとめていた日本語学校には警察が きて、デモに参加している学生の情報を もとめたそうです。なぜ、わたしが そのことをしっているかというと、その日本語学校の校舎の校長が ねっからの右翼で それをあたりまえのことのように うけとめて、教師たちとの会合で「警察に協力するため、情報があったら提供してほしい」と よびかけたからです。数日後、ほかの日本語学校では、学生名簿を警察に提出したということが新聞記事になって問題に されていました。天安門事件の前後、中国の公安警察が日本に きて、日本の警察に情報提供をもとめたり、デモの写真をとっていったという はなしは、あちこちで証言されています。社会主義であれ なんであれ 関係なく、日本も中国も、体制の権力は権力どうし むすびついて、反体制の めをつもうとするものなのだ、と そのとき わたしは具体的に しらされました。これは わたしにとって おおげさに いえば世界の みかたをかえさせる できごとでした。ある程度 予想していたとはいえ、そんなにロコツに こういうことが おこなわれるものだとは おもっていなかったのです。
入管と日本語学校との関係では、ますます しめつけが きびしくなりました。それまでの「不適格校」処分は、入管が一方的に したものですが、日本語教育振興協会による日本語学校の設置基準が発表され、定員や校長、教師の充足条件、施設の規定などなど、外形的な許可条件が しめされ、それをみたせない学校は、ちかいうちに「就学生」をうけいれることは できないことになりました。さらに、「専任教師」の規定が そこには ふくまれており、日本語学校では、学生定員に みあった かずの「資格をみたした教師」をおき、さらに その なかに学生定員に みあった かずの「専任教師」が いなければいけないと いうことに なったのです。
まえに のべたように、「資格をみたした教師」と いうのは、この当時、現実的には「日本語教育能力検定試験に合格した教師」と いうことになりました。89年に合格した わたしは、認定校になるために 必要な「資格をみたした教師」の かずに いれられるようになり、若干 待遇が よくなりました。また、合格者をふやすため、従来の養成講座の ほかに現役教師のために設置された検定試験対策の養成講座の講師をきゅうきょ つとめたり、自主的な勉強会に よんでもらったりも するように なりました。そして、「専任教師」を おくことが必要になったため、わたしは かけもちをしていた両方の学校から「専任」になることを要請されました。当然、「専任」ということなのだから、どちらかをえらぶということになり、わたしは専門学校の日本語科のほうを選択しました。90年の4月から、わたしは専任講師として、川崎にある専門学校の日本語科で はたらくことになったのです。
ここまでは、設置基準が日本語学校の質をおしあげたと よむことも できます。わたしは 試験に合格していたため、その おかげで「専任」という それまでよりは安定した身分をえることができたと いうこともできます。ただ、ここで いわなければいけないのは、同時に進行したのは、きびしい選別と淘汰でもあったということです。入管の事前審査が おおはばに おくれていたことは さきほど のべました。その一方、入管とのパイプ(あまくだりなど)のある学校では審査が はやく おわるというようなことも あったと、わたしは当時の担当者から きいていました。いちど不法滞在や不法就労、オーバーステイをする学生をたくさんだした学校では、審査でも あきらかに差をつけられ、許可率は極端に ひくくなりました。申請は定員をみたす数までしか みとめられないので、不許可の数は すなわち 欠員数となり、経営を圧迫します。そうなると、欠員をうめるため、ますます たくさんの申請をしようとして 審査をとおりそうもない (入管からみて)条件の よくない学生でも申請してしまうので、かえって入管の心証をおとすというようなことも ありました。結局、入管は、入国後の学生管理を日本語学校の責任だとして、日本語学校への制裁によって間接的に学生を管理し、入国前の選抜も日本語学校に やらせ、入管の意にそった選抜をして、ビザが おりそうな学生だけを申請するような学校には寛大に、ダメモトで 申請するような学校には きびしい結果をだしたのでした。このようにして、直接 てをくださずに、入管は法律の根拠のない 不合理な基準をも実際上のビザの条件として実現していったのです。
教師の選別も じわじわと ひろがっていきました。この時期の日本語教師は、もともと時間講師が おおく、新興の職種ということで、フルタイムで はたらける ひとは少数でした。設置基準の影響で、日本語学校では 教師の再編成が すすみ、学生減に対応して 「資格をみたした教師」以外をきっていき、「専任教師」を おくことで、ますます時間講師の数は制限されざるをえませんでした。そういうことは、それから しばらく つづいていきます。一部の「優良校」では、2〜3年のうちにビザの発給率が安定しだし、97年ぐらいまで いきのこった学校は、その後 現在に いたるまで 学生数の増加に めぐまれることになりましたが、それまでの あいだ、入管は何回か 極端にビザの発給率をさげることが ありました。その間、つづけて入管への申請の事務をしてきたひとに きけば、あきらかなことですが、それは、決して おなじ基準で審査した結果なのではなく、入管が意図的に発給率を操作したのです。それは、許可をえた書類と、えられなかった書類を申請時期ごとに ならべてみれば あきらかなことでしょう。マイナス要因が まったく みあたらない申請者が不許可になったり、ある時期には その反対が おきたりしているのです。90年から97年ぐらいまで、入管が全国で やってきたこととは、このように、選別と差別、それによる日本語学校の計画的な淘汰だったのです。そして、教師も おなじようにして へらされていきました。問題は、教師としての能力を総合的に みて、その実績によって 必要な人材が いきのこったとは、かならずしも いえないということです。試験に つよくて、フルタイムで はたらけるということが、そこでは優先されたため、優秀な教師、その現場で ほんとうに必要だった教師が おおく うしなわれたのでは ないかと おもいます。また、いきのこるためには、申請者を平等に あつかい、その熱意に こたえたいという教師としては当然の倫理が ずたずたにされてしまったことも指摘しなければなりません。めに みえないところで、官僚的な方法での淘汰が あたえた ゆがみは、ふかい きずとなって進行したと いわなければ、わたしたちは反省のたりないまま ながされていくだけの日本語業界を容認することと なってしまうでしょう。
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