<<<盧武鉉当選の意味>>>

 

     光化門の興奮

 

 「♪深い闇夜を凌ぎ、草々に結晶した真珠よりも清らかな朝露のように…」。久々にテレビで一般の人々が歌っている場面が映し出された曲は『アチム・イスル』であった。80年代の学生たちに好まれたこの歌は、当時、発売禁止となり、そのこともあってか、かつてはデモがあるたびに歌われていた。

 2002年12月19日、韓国で大統領選挙があり、次期大統領に盧武鉉(ノ・ムヒョン)が選出された。マスコミは僅差の勝利と伝えたが、約 2.4%の差をつけての勝利は、選挙当日の予想をくつがえすものであった。開票速報では都市部の票が遅れて開いてくるため、最初リードした李会昌(イ・フェチャン)との差を盧武鉉がつめていき、開票が始まって2時間後に逆転、3時間半くらいたった午後10時ごろに当選確実となったのであるが、実際は同様の展開をみせて金大中(キム・デジュン)が当選した5年前の選挙に比べ、はるかに少ない開票率の段階で、出口調査どおりかそれ以上の差で盧武鉉が勝利する大勢は決していた。実際、各局テレビの画面は早い段階から、当選の瞬間をつたえようとして新千年民主党の党舎に送ったレポーターを追いかけていたのである。

 当選がほぼ決まったころ、テレビはソウルの光化門(クヮンファムン)広場に集まった盧武鉉の支援者たちを映した。選挙の前日になって、選挙管理委員会が行う選挙放送で盧武鉉の応援演説をした歌手のシン・ヘチョルが、盧武鉉の支援者たちに向けて、この場所に集まるようにと呼びかけたのである。レポーターがわきたつ支援者たちにインタビューをしている間、その後ろにいる人たちは『アチム・イスル』を歌い始めたのであった。

 

 光化門広場は、日本でいえば皇居前広場のような場所である。数年前までは、その奥に旧日本総督府の建物が建っていた。今は撤去され、朝鮮王朝の王宮であった景徳宮(キョントックン)を望むことができるようになった。この場所は、今年の6月、サッカーのワールドカップの際には、若者たちが熱狂的な応援をくりひろげた場所である。当時、ソウル市役所前の南大門(ナムデムン)広場に公設の街頭応援会場が作られていた。日本に伝えられた映像も、ほとんどが、この市役所前のものである。しかし、同時刻に光化門広場は10代を中心とする若者たちの解放区となっていた。ソウル市役所前とは違い、そこには主催者もいなければ、スケジュールの決まったイベントもなかったが、若者たちが一体感を味わうために自主的に集まることのできる統制されない空間があった。

 この10年間、韓国でも学生運動は衰退してきていたし、デモの動員力も目に見えて落ちてきていた。そんな中で、6月の光化門広場を新たな社会運動の萌芽と見る見方がある一方、そこに参加した10代、20代の多くにとっては、同世代の人人が自主的に街頭に出て集うということ自体が初めての体験であった。サッカーという、ナショナリズムが正直に表現されるイベントのために人が集まることに対して「大衆的な民主化運動の成果」であるとか、「遺産の継承」であるとかの論評が出たことの意味は、事態を日本で眺めている視点からは捕らえにくいことだったかもしれない。しかし、今思えば、そこの場に参加した若者たちの多くは、うまれてはじめて大衆的な昂揚を体験することで、自分たちと社会とを結ぶ回路を発見したのだと言ってよい。経済成長によって韓国の子どもたちは、急速に政治と社会から切り離されるばかりか、自分たちの世代で集団をつくることからも遠ざかっていた。6月の体験は、失われてしまいかけていた大衆のエネルギーがふたたび若者を捕らえたという意味で、画期的なできごとであったに違いない。そして冷静になって考えてみれば、ワールドカップという機会によってナショナリズムのお墨付きを得ていたとはいえ、光化門という解放区を若者たちに提供することができたのは、まさに過去の民主化運動のおかげであった。政権は、これに反対する理由を持たなかったのである。

 

 

     女子中学生ひきころし事件

 

 米軍の装甲車による女子中学生ひきころし事件は、この6月の興奮の渦中に起きた事件であった。この時点で、韓国を覆っていた「Be the Reds!」の波は、この事件に対して、ほとんど関心を示さなかった。「Reds」というのは、サッカーの国家代表のチームカラーのことであって、政治とは関係ないことのように思われた。しかし、大統領選挙の大詰めを迎えた段階で、6月に生まれた大衆意識はこの事件への関心と合流した。11月に米軍が装甲車を運転していた兵士に無罪評定を下したことをきっかけに、大衆運動は急速に広がった。情報はインターネットのサイトを通じてゆきかい、マスコミも味方につけて広がった。そして、大統領選挙が告示されてから、ソウルでは2〜3万規模の追悼集会が開かれ、人々は手にろうそくをもって静かに行進した。

 これには、李会昌までもが急きょ集会に参加することとなった。韓国政府は、「SOFA(地位協定)の改善が必要」だと言明した。「改善」ではなく「改定」が必要だと集まった人々は反発したが、政権は、運動を妨害はしなかったし、李会昌やハンナラ党も、おもてだってそのことを批判できなかった。かわりに批判したのが李仁濟(イ・インジェ)であった。5年前に李会昌の党をぬけて新党を立ち上げ大統領選挙に立候補し、破れた後は金大中の与党に入り、一時期は金大中の後継者と目されていた李仁濟は、それにもかかわらず、今回の大統領選挙の直前にその与党を離れ、今回は大統領候補を出せなかった金鍾秘(キム・ジョンピル)の党である自由民主連合に代表として迎えられた。李仁濟は「ろうそくデモの広がりには、背後がある」と発言し、物議をかもした。しかし『朝鮮日報』などの右翼言論紙以外は、この発言を真に受けなかった。親米反共を貫いてきた金鍾秘さえもが、李仁濟が李会昌支持を打ち出そうとするのにブレーキをかけ、中立を宣言した。

韓国中部にある忠清(チュンチョン)圏での影響力を決定的に失う事態になることを恐れたのである。

 

 

     ボス政治の終焉

 

 李仁濟は典型的な「渡り鳥政治家」である。今回の選挙では、正当のボス支配と、ボスの派閥に属することができなかった政治家の「渡り鳥」現象も審判の対象となった。

 新千年民主党は大統領候補を決めるために、国民参加の予備選挙を行った。この予備選挙で、金大中側近グループといわれる民主党の派閥政治家は李仁濟を支援していた。しかし盧武鉉は、3月16日光州(クヮンジュ)の予備選挙で大方の予想をくつがえして、楽勝と見られていた李仁濟を大差で破った。金大中の影響力が絶大である光州での勝利により、盧武鉉が新千年民主党の大統領候補となることが確実になると、世論調査での盧武鉉の支持率は 53.8%を記録した。

 しかし、4月27日に民主党大統領候補者となった盧武鉉が4月30日に金泳三(キム・ヨンサム)前大統領に面会すると、すぐに支持率は下降をはじめた。金大中の二人の息子の汚職問題が拡散するなか、6月13日の地方選挙で民主党は惨敗する。盧武鉉は予備選挙のやり直しを提起せざるをえなくなった。

 この窮地から盧武鉉が立ち直ったのは、金大中が党籍を離脱し、二人の息子が拘束され、民主党内の反盧武鉉勢力などによる鄭夢準(チョン・モンジュン)などとの新党構想が挫折した後であった。9月18日、盧武鉉は「これ以上の予備選挙のやり直しはできない」として、みずからの大統領選挙対策委員会を発足させた。これにより民主党内の反盧武鉉勢力は五月雨式に脱党し、それぞれの思惑で、勝ち馬に乗ろうとした。このころ、勝機を失いかけていた盧武鉉に対して、鄭夢準が徐々に支持率を上げていたが、各種世論調査で40%代の支持率を維持していた李会昌に対する1強2弱の構造は変わらなかった。朴正煕(パク・チョンヒ)の娘として大衆的な人気と知名度を誇る朴槿恵(パク・クネ)も、いったんはハンナラ党を脱党して新党を結成し鄭夢準との合流も考えていたが、結局、ハンナラ党に戻った。金泳三も李会昌支持を表明し、李会昌陣営は寄らば大樹の意識に訴える「大勢論」を展開しだした。しかし、結果的に見れば、このころから李会昌への支持率はじわじわと下がり出した。そして、党内の反対派が抜けたあとの盧武鉉には、少しずつ支持が集まりだした。11月16日に鄭夢準が創党した「統合21」との候補単一化に合意し、25日にリサーチセンタに委託した世論調査の結果を受けて盧武鉉が統一候補になる過程で、盧武鉉の支持率は鄭夢準を上回るようになったものと見られる。

 このように、政界における「大勢論」が強まれば強まるほど、民衆の意識のなかでは逆の方向へのバネが働いたと見ることができるだろう。また、金鍾秘・金泳三・金大中という、いわゆる「三金」の影がちらつくたびに、民衆の支持はかえって各候補を離反していったということが如実にうかがわれる。「大勢論」をはねかえしたバネの力は、三金政治に象徴されるボス支配に反発する民衆の意志の現れではなかっただろうか。鄭夢準が世論調査結果の「いさぎよい承服」をして候補が単一化されると盧武鉉の支持率が一挙に上昇したことと、投票日前日の深夜に突然、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回したにもかかわらずその影響が最小限に抑えられたことは、韓国国民の選択が志向していることが、一人のボスの気まぐれで左右されるような政治の拒否であることを明白に示している。民衆は、盧武鉉の政治経歴にこのようなボス支配からの脱却への期待をかけたのであり、コメディのように振舞った鄭夢準の誤算は、このような広範な民衆の意思のうえに支えられていた自分への支持を自分個人のものであるかのように錯覚したことによるのだろう。

投票終了とともに発表された投票行動に関する調査によれば、候補単一化以前の鄭夢準の支持者は、単一化以後、ほぼ全員が盧武鉉に投票すると答えるという状況のまま選挙戦終盤まで推移し、投票日前日の鄭夢準による盧武鉉への支持撤回をうけて、これらの票のうち、半分程度は棄権にまわり、全体の投票率の低下につながったが、態度をかえて李会昌に投票したのは1割程度であって、4割程度はそのまま盧武鉉に投票したようである。これに加え、筆者は民主労働党の権永吉(クォン・ヨンギル)の支持票のうち3分の1程度が投票日になって盧武鉉に投票したと見ている。民主労働党は地方選挙で8%の得票をするまでに成長していた。今回の大統領選挙が終盤になってこのような接線にならなければ、4%の得票に終わった権永吉はもっと得票していたことだろう。

 

 

     「盧武鉉のバカ」 

 

 三金政治の清算を求める民衆が盧武鉉にボス支配からの脱却への期待をかけたのは、盧武鉉の政治経歴によるところが大きい。当選後、日本の新聞でもその一部は報道されているが、ここでも簡単にその経歴をまとめておこう。

 人権派弁護士として活躍していた盧武鉉が政界入りしたのは88年4月の総選挙のときであった。金泳三に請われて当時の統一民主党の候補として釜山(プサン)の選挙区から出馬し、当選した。国会の聴聞会で全斗煥(チョン・トフヮン)時代の不正を激しく追求する盧武鉉は、一躍、若手のスター政治家となった。しかし、90年、少数与党政権であった盧泰愚(ノ・テウ)政権における「与小野大」状況の克服のため、金泳三が3党合同による巨大与党としての民自党結成に動いた。湖南(ホナム)地方 [全羅(チョルラ)道のある地方] の政治勢力を排除する形で形成された民自党の結成に、盧武鉉は加わらなかった。その後の盧武鉉は茨の道を進むことになる。統一民主党に残った勢力と金大中の平和民主党とが合流してできた統合民主党に所属したが、92年の総選挙では落選してしまう。2年前に後ろ盾となっていた金泳三が今度は与党となって別の候補を応援したからであった。それでも盧武鉉は95年の釜山市長選挙に立候補した。予想以上の善戦はしたが、落選。客観的にみれば、金大中のいる党の候補として嶺南(ヨンナム)地方 [慶尚(キョンサン)道のある地域] から立候補して当選する見込みはなかった。そして95年6月、一度は政界引退を表明していた金大中が大統領選挙に出るために党権を掌握しようとして民主党を分裂させ、「新政治国民会議」を作ると、またもや反旗を翻し民主党に残った。96年、「三金政治清算」を掲げて政治一番地と呼ばれるソウル鍾路(チョンノ)選挙区から出馬するが、その「三金」が率いる大政党に対し無力にも落選した。97年の大統領選挙の際、選挙直前の11月になって、盧武鉉は新政治国民会議に入党し、金大中の陣営に加わった。当時、盧武鉉は「3党合同に参画した李仁濟候補は三金清算と世代交代の主役にはなれない。現時点での課題は政権交代だ」と発言している。

 その後、98年7月の補欠選挙で、今度は与党候補となった盧武鉉は再びソウル鍾路選挙区から出馬して当選した。しかし、2000年4月の総選挙では、周囲が止めるのも聞かずに「地域主義に挑戦する」として釜山から立候補した。農民の子どもである盧武鉉が「農夫は畑のせいにはしない」と言ったのは、このときである。楽に当選できると思われていたソウルから出ずに、自分の地元であるプサンにこだわった結果、盧武鉉は4たび落選した。当初の世論調査ではリードしていたものの、選挙選を通じて徐々に反金大中の地域感情が高まり、ハンナラ党候補に票が結集したことが敗因だと言われた。ひとびとは「盧武鉉のバカ」と口々に言った。しかし、このときの敗戦が、盧武鉉を全国区の政治家に押し上げたと指摘する人は多い。「無謀な挑戦」を続ける盧武鉉には、「盧武鉉を愛するひとびとの集まり」というファンクラブが結成された。そして、それが今回の大統領選挙での選挙運動の中心となった。

 一方、ハンナラ党はこの5年間で李会昌に党の権力を集中させてきた。李会昌が党権を握って最初にしたことは、前の大統領選挙で最後に李会昌陣営に加わった、外様のベテラン政治家たちを追い出し、党運営におけるボス支配を強めることであった。民自党、新韓国党、ハンナラ党と名称を変えてきたこの政党は、大統領選挙のたびに分裂する一方、外部勢力を吸収して陣営に加え、選挙後は主流派が非主流派を排除するということをくりかえしてきた。金大中政権末期には、少数与党となっていたため、李会昌は国会運営を掌握していた。大統領が提出する首相任命案をことごとくけり、権力をみせつけていた。野党の党首でありながら、そのふるまい方は与党の総裁のようであった。

 選挙戦が始まってからも、盧武鉉の行動様式は、これとは正反対であった。党内の非主流派でありながら国民参加の予備選挙で勝ち上がり、党内の反対勢力が脱党しても、みずからは党を離れなかった。そして、「統合21」との交渉においては、単一候補決定の方法についての鄭夢準陣営の要求をほとんどのんで譲歩したが、政策は変えなかった。それぞれの党の組織と主体性を守りながら、政策協定によって候補単一化を成し遂げようとしたのである。また、盧武鉉の選挙運動を支えた「盧武鉉を愛するひとびとの集まり」は、街頭で豚の形をした貯金箱を配り、それに小銭をためて送り返してもらうという運動をして資金を集めた。盧武鉉は組織力で戦う選挙戦をしようと考えたかもしれないが、それを可能にする組織力がなくなってしまったことで、かえって支持を集めた。最後に盧武鉉を支えたのは、「バカ」とまで評された落選の経歴であった。それが全国に共感を生む源であった。

 

 

     歴史と現在をつなぐもの

 

 韓国の映画界で絶大な人気を誇る俳優のムン・ソングンは、テレビでドキュメンタリー番組の司会もつとめていた社会派の有名人である。テレビで流された盧武鉉を応援するムン・ソングンの演説は感動的であった。

 落選を重ねた盧武鉉の経歴を紹介し、彼がいかに時代と戦ってきた人物であるかを強調した。この10年でめざましく躍進した韓国映画が、かつてはどのような状態であったかについてふれ、独裁政権下では芸術は育たないと言った。ムン・ソングンは、明らかに民主化運動の歴史の延長線上に盧武鉉の挑戦があるのだと位置付け、民主化運動の歴史の延長線上にこそ地域主義の克服と民族統一があるのだと言う大状況を語っていた。

 ムン・ソングンは故・文益煥(ムン・イクヮン)牧師の息子である。文益煥は長い間、韓国の在野の運動のシンボルであった。演説のなかでムン・ソングンは父親のことにふれた。厳寒の冬に投獄され、毛布一枚に裸の体を震わせていたこともある文益煥は、つねづね「金九(キム・グ)の暗殺」「1960年の5・19革命の挫折」「1987年の金泳三と金大中の分裂」を韓国の三大悲劇であると言っていたそうである。一方、1993年に亡くなった文益煥が韓国の未来への希望を託すべきできごとであると感じていたものは、「1980年の光州民主化闘争」「1989年の林秀卿(イム・スギョン)の入北」「盧武鉉の無謀な挑戦」であったという。これらが種となって、いつか民族和解の果実をもたらすことを文益煥は願っていた。

 「いま、韓国は悲劇を繰り返すのか、新たな道へ踏み出すのか、選択をせまられている」とムン・ソングンは訴えた。現実の大統領選挙の争点は、そのとき、そのときの話題になりやすい。韓国においても、選挙での最大の選択の基準は、生活の向上であるとか、景気対策、地域振興などであって、南北問題や外交政策が中心になっているわけではない。このような正攻法の演説はむしろまれである。しかし、ムン・ソングンの演説は巧みであった。そして、それを可能にしたのは盧武鉉のこれまでの歩みであった。

 

 

     世界の中における韓国

 

 どの国であっても、その国の国民が抱く自国のイメージと外国から見たその国のイメージにはズレがあるものだが、韓国の場合、関心の対象という点でも、重要性の評価という点でも落差が激しいのではなかろうか。

 この選挙の中盤以降、北朝鮮の新たな核開発問題が報じられ、緊張が高まった。民主党陣営は、大統領選挙のたびに繰り返されてきた「北風(北朝鮮との緊張)」がまた襲ってきたと感じた。しかし、民衆はもはや北朝鮮の動向にいちいち投票行動を左右されることはなくなっていた。それは、米国が北朝鮮のものとみられる貨物船をだ捕しても変わらなかった。「韓国の国民は、これが米国が韓国の選挙に介入しようとして起こした事件であると判断するくらいにまで成熟している」と民主労働党の権永吉候補が談話を残しているが、まさにそのとおりであった。もちろん対北強硬派も存在するし、包容政策(いわゆる太陽政策)は与えるばかりで得るものがないと不満をもらす層は幅広く存在し、李会昌の支持基盤となっている。しかし、その数がひとつの事件によって激増したりはしないのである。

 むしろ盧武鉉はこれを好機として、「戦争か平和か」「対決か対話か」とわかりやすく問題提起する戦術に出た。盧武鉉は、米国内に対北朝鮮核先制攻撃の計画まで取り沙汰されるという状況のなかで、韓国が危機の進行を食い止めてきたという国際関係上の位置をはっきりと意識しているようである。選挙の最終盤では、世界中の国々が韓国の次期大統領が誰になるかをいかに注視しているかと言うことを強調して訴えていた。そのうえで、世界の多くのリベラル派が、選挙結果によっては半島における戦争の危機が大きく深まるということを本気で心配しているということを指摘した。

 盧武鉉が巧みであったのは、それを危機をあおるような形で引用せずに、自身の東アジア経済圏の構想に結び付け、和解と協力を通じて韓国を大陸と日本列島や沿海州をつなぐ交通の要所として東アジアの中心地へと発展させられるという希望を述べたことであった。単に戦争の危機を訴えるだけでは、かつて保守派が対北警戒心をあおった手法と同じになってしまう。盧武鉉は、むしろ自分たちの意思として、国益としての平和を選択しようと訴えたのである。

 盧武鉉のこの戦術がどのくらい功を奏したかは未知数である。有権者は北朝鮮の動きのひとつひとつに動揺したりはしなくなったが、逆に言うと、国際関係全般に注意がいかなくなってしまったのではないかと思えることもある。そもそも戦争の危機が米国によってもたらされると考えている人がどのくらいいるかも疑問であるし、カーター元米国大統領のノーベル平和賞受賞の意味についても、自国の問題と関係付けて理解する人はむしろ少数かもしれない。韓国において軍事独裁政権のまっただなかであった時期に米軍撤退を公約にしていたカーターは、ともすれば、「韓国に意地悪をした米国大統領」であると考えられている。ことあるごとにカーターと意見を対立させていた朴正煕は現在も、歴代大統領の中で韓国人の評価が一番高い人物なのである。

 とはいえ、このこと一つをとってみても、一部に「外交オンチ」と呼ばれる盧武鉉が、確かな目で世界をながめていることをうかがわせる。逆に、李会昌のほうが、女子中学生追悼集会に参加するなど右往左往しながら、「北朝鮮はすでに濃縮ウラン型核兵器を持っている」などと発言し、基本的知識の欠如を露呈した。

 

 

     民衆の選択と政治の展望

 

 終わってみれば、結果は5年前の選挙時と酷似して、韓国の東西を2分して「東李西盧」の構造がはっきりした。しかし、地域対立の構図は大きく変化している。なによりも今回、盧武鉉は48.9%の票を獲得して半数に近づいたのであるし、嶺南地方でも20〜30%の票を獲得した。東北部の江原道(カンウォンド)では一部勝利した都市もあった。これに対し、西南部の湖南地方の票はあいかわらず九割を超える票が盧武鉉に集中したが、初めて金大中が選挙に出ない大統領選挙を迎え、投票率は低下した。今後、湖南地方からも支持を集められる候補が与野党から出れば、票が割れるという事態も生まれる可能性がある。地域対立が解消するかどうかは、今後5年間の盧武鉉政権の行動いかんにかかっていると言えるだろう。

 地域対立構図の問題と逆に内外の評価が一致しているのは、今回の世代間の傾向の違いがはっきりと現れたということである。盧武鉉を支持するのは、これからの韓国を背負っていく若い世代である。この若い世代は、対北朝鮮政策においては、おだやかで融和的な傾向を持っているものの、統一に関する関心も上の世代に比べて薄いということが指摘されている。今後、盧武鉉の世界的な構想と経済ビジョンが若者たちの心をとらえ、新しい韓国の国家戦略を作り出していくか、反発を招き、窮地に陥るかは、今の段階では何とも言えない。しかし、韓国の現状況においては「韓国が外交を米国まかせにせず、南北問題の交渉の主役になるべきだ」というナショナリズムをくすぐる主張は、強攻策よりも融和的な政策をあとおしする原理として働いている面が強い。当面、盧武鉉は、このことを頼りに国民の支持を得ようと考えていくのではないだろうか。

 最後になってしまったが、今回の大統領選挙では、民主労働党の権永吉は 3.9%の支持を得た。前回の大統領選挙の約3倍である。地方選挙での民主労働党の得票の伸びを根拠に、今回の選挙ではテレビの合同討論会に権永吉も招かれた。李会昌・盧武鉉の両者を自由に批判できる立場であった権永吉は、このテレビの討論会を通じて有権者に新鮮なイメージを与えたと評価されている。李会昌と盧武鉉とがこれだけの接線を繰り広げるなか、「盧武鉉が当選することよりも、権永吉が票を得ることのほうが意味がある」と訴え、死票覚悟で4%の票を得たということは、特筆に価するだろう。韓国の大統領選挙には決選投票の制度がない。従って、今後も民主労働党の存在が中道左派候補の票を食うということは起こりうるだろう。しかし民主労働党が、あえてこのように主張したのは、金大中政権による弾圧を受けてきたという事実をふまえたものである。当選した盧武鉉は、権永吉の躍進を祝賀し、今後の進歩政党の活動を援助すると約束した。しかし、実際の政権運営の中で、どこまでその約束が果たされるかは未知数である。早晩、深刻な対立に直面することだろう。いずれにせよ、今後、韓国の政治においては在野の運動が制度圏の中に食い込んでいくというという過程が進行することだろう。いまもなお「進歩」という言葉が生きつづけている韓国において、ほんとうの意味で民主化の先にある進歩主義の内実が示されるのかどうかも、今後の5年間にかかっているのではないだろうか。