発言者: きんちょ
発言日: 01/06/25(Mon) 22:36
どうも、どうも。ボールをなげかえされてしまいました。
なんか、だしたり ひっこめたり しているように おもわれているのではないかと おもうんですが、『度数余剰文』は ひきあいに だしただけで、それで「おなじ」でなくても わたしとしては かまわないのです。Oyanagiさんが 『度数余剰文』ではないということに焦点をしぼって かいていらっしゃるように みえたので、ある ところでは、「そこに こだわっているわけではない」と にげ、ある ところでは 反論に つきあうという かたちで、『度数余剰文』との類似性を指摘してみたり したのですが、うまく やりとりのなかで意図が つうじていなかったかもしれません。すみませんでした。
わたしも、いままで かいたこと以外に あたらしい主張が あるわけではありません。
「通常の修飾関係」ではない、《度数余剰》の
ような「特殊」な修飾関係の可能性をかんがえ
たくなるのです。
と かきましたが、その理由は、おなじ投稿に かいたことが すべてです。そして、わたしの分析の内容として、「《度数余剰》のような」ところが あるとすれば、それは最初の投稿に かいたとおりです。もう一度かくと、
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「また」が「ちがう」や「おなじ」に かかっているのではなく、「Aが あって、またBがある」という つかいかたと おなじように、文中には あらわれなくても、意味上は「いる」や「ある」に つながる ことばとして つかわれているのだと おもうのです。つまり、この例でいえば、「よさ」の認知に さきだって、存在の認知に付与された ことばとして つかわれると おもいます。これに対して、「ちがう」というのは、AとBの「よさ」をくらべてから 判断する ことばなのですから、「よさ」の認知の あとから 認知されることですよね。その「ずれ」が、一定の条件下では ひとつの文のなかでの混在として あらわれてくるのでは ないでしょうか。
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という説明が可能ではないかと おもわれるという点に つきます。
これに対するOyanagiさんの反論は、わたしから みると、『度数余剰文』に わたしの いったことを わたしの意図以上に ひきよせたもののように おもえましたので もし、ご検討くださるのでしたら、この部分だけをもう一度 かんがえていただければと おもっております。
ということで、もうすこし かんがえて、あたらしい内容のあることに気がついたら、あたらしいスレッドをたてて投稿しようかと おもいます。今回は このくらいで ご勘弁ください。
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▼関連発言
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└◆603:田舎には都会とはまた違う良さがある。の“また”っ.. りゅう 01/06/21(Thu)
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└◆610:「また」の認知、「ちがう」の認知 きんちょ 01/06/22(Fri)
└◆612:「また」は「また」でも・・・ Oyanagi 01/06/22(Fri)
└◆613:Re: 「また」は「また」でも・・・ きんちょ 01/06/22(Fri)
└◆626:やっぱり「また」は「また」でも・・・ Oyanagi 01/06/24(Sun)
└◆628:Re: やっぱり「また」は「また」でも・・.. きんちょ 01/06/24(Sun)
└◆630:「また」と「違う」の修飾関係 Oyanagi 01/06/25(Mon)
└◆631:「また」と「違う」の挿入 Oyanagi 01/06/25(Mon)
└◆638:Re: 「また」と「違う」の挿入 きんちょ 01/06/25(Mon)
└◆640:議論の発展のために Oyanagi 01/06/25(Mon)
└◆645:Re: 議論の発展のために きんちょ 01/06/25(Mon) ←last