V.おわりに

 

 この論文の冒頭に述べた問題にもどろう。

   1)ちょうど先生の話をしていたところです。

において、「していたところ」は、学生たちが教師の話をしているという動作の継続が、その教師が入ってきたことによって<中断>されたことを表すので、「テいるところです」よりも「テいたところです」の文にするのが適当である。この文例でいえば、外部からの力による<中断>という現実世界の事態を反映しているので、「テいたところだ」の表現は叙実的である。

 一方、U.3.2.で明らかにしたように、「思う」「言おうとする」「感じる」などの用言に「ところだ」がつく用例を調べると「テいたところだ」という形態をとっていることが非常に多いのは、そのように「思った」「言おうとしていた」「感じていた」ということが話者本人にしか認知できないことであり、現実世界の問題としてはそれらは断続的に実現されているものの明示的な結果をもたらさないからである。このような思考や感情の働きは、もともと切れ目がはっきりとしないものである。そこに切れ目を与えるのは話者の認知的な作用としての切断によるほかなく、発話することによって、<途切れ>がもたらされるという性格をもっている。このような<途切れ>を表すために「テいたところだ」の形式が使われるのだが、こうした認知的な作用としての「途切れ」は継続性に叙想的な切れ目をつくるものだといえる。その意味で、これらのタイプの「テいたところだ」文は、叙想的なアスペクト形式であると考えられる。

 以上のことをふまえ、この論考の結論を次の4点にまとめておく。

  1.  「テいたところだ」は<現在に対する後退性>をあらわす形式であり、「テいた」はテンス対立から逃れてアスペクト対立のなかに置かれる。
  2.  そのときの「テいた」のアスペクト的性質は、<継続相>でも<完了相>でもなく、<途切れ相>と呼ぶべきものである。
  3.  <途切れ相>には叙実的に「中断」を表す場合と、認知的な作用により継続性に叙想的な切れ目をつくる「認識の切れ目」を表す場合がある。
  4.  このうち、「認識の切れ目」を表す場合は、「叙想的テンス」ではなく「叙想的アスペクト」というべきである。

 ただし、ここで「叙実的」「叙想的」というのは、あくまで古典物理学的な時間概念に照らし合わせたときに、言語表現の形式が持つ典型的な時間範疇と表現される事態とが一致しているかどうかということを基準に区別したものである。私見によれば現代日本語において、このような古典物理学的な時間概念によるテンスのちがいを無視することはできないと考えるが、古くから助動詞の「タ」をムードの表現とみる見解が存するように、「叙想的」な途切れ相が「認識の切れ目」を表すことをとらえて、そのような意識の作用こそが途切れ相の本質であり、いわば、このモーダルな作用が古典物理学的な時間概念の範疇に移し替えられたものが<中断>という「叙実的」な意味に他ならないと考えてみることも不可能ではないだろう。

 また、工藤(1995)は次のように言っている。

この部分で<叙実法>といわれているものは、いままでの定義とは別の意味であると考えなくてはならない。これは、古典物理学的な時間概念の範疇にそったものであるとはいえないであろう。むしろ、「確認・回想」といったような心的態度のことを<叙実>と言っているのであり、「みなされた現実」「おぼえられた現実」をかたることを指している。もし、このような意味で<叙実>と言うのであれば、途切れ相はすべて<叙実的>であるともいえるのである。実際、古典物理学的な時間概念の範疇に照らし合わせて<叙実的>な途切れ相と<叙想的>な途切れ相を区別しても、両者は連続していることを否定できない。「ご飯を食べていた」「テレビを見ていた」というような、はっきり目に見える動作であっても、それが暫時中断したときに「食べる」「見る」という動作が<継続>しているのか<完了>しているのか<中断>しているのかの判断には、かならず話者の主観が介在している。このような心的態度の問題をぬきにアスペクト・テンスを論じることはできないであろう。しかし、一方で現代人のものごとの認識は古典物理学的な時間概念を前提にしており、言語表現もそれと密接に関係していることは否定できない。従来の意味で<叙想的>といわれる用法が、一定の条件下でしか出現しないのは、その証拠である。<途切れ相>もまた、一定の条件下で出現する。それもまた、一種のムードとからみながら出現するアスペクト形式だからだといえるかもしれない。

 本論でも述べたが、「テいたところだ」における以上のような考察に使った<途切れ相>という概念は、ニュースや新聞記事に頻繁に現れる「…a…テいたところ、…b…タ」という文型にも適用できる。また、「…a…テいたところを…b…タ」という文型の例文も〔…a…〕にあたる部分が「中断」ないしは「認識の切れ目」を作っており、<途切れ相>の文であるといえるだろう。また、「テいたところだ」が現在を設定時点にする<途切れ相>の形式であるとすれば、「テいたところだった」は過去を設定時点にする<途切れ相>であると考えられる。実際、本論や注にあげたように、様々な文例がこのように考えて説明がつくのであるから、本稿の論考は「テいたところだ」という形式に限らず、「テいたところ」を含む形式に適用できるものだといえる。

 いままで「叙想的テンス」として、ひとくくりにされがちであった叙想的な文を「叙想的テンス」と「叙想的アスペクト」に分けて考えることを提唱したのは本稿の新たな見地であると考えている。今後、この考え方を深め、アスペクト・テンス体系のなかでいっけん整理がうまくつかないと思われる事例が、どのように説明することができるか、さらに考えていきたいと思う。これら「途切れ相」「叙想的アスペクト」という概念を十分に論じるためには、「テいたところだ」という形式のみならず、「テいた」をひとまとまりのアスペクトとして捉えることができる事例について幅広く検討し、それらが出現する条件を探るとともにその範囲を確定する作業が不可欠である。そのような作業を通じて従来「叙想的テンス」と呼ばれていた現象や、「テいる」「テいた」の用法を整理しなおす作業は是非行ってみたい課題である。「ところ」に後接するとき以外の<途切れ相>の「テいた」の事例については今後の研究課題としたい。この論考がその出発点となれば幸いである。