本章では、前述の研究課題
[2]「テいたところだ」文においても「テいた」がアスペクト的段階を表すとすれ
ば、それが表す「動きの段階」、すなわちアスペクトの性格がどんなもので
あるのかを解明する
[3]解明した「テいた」が表すアスペクトの性格と「ところだ」の機能から、「テい
たところだ」文において「思考や心理状態を説明するような場合が多く、その
状態に新たな変化・展開が起きたような場合によく用いられる」という特徴を
文法的に根拠づける
を解明するために、「テいるところだ」と「テいたところだ」の異同を調べ、後者における「テいた」のアスペクト的性格を明らかにする。
従来の研究では、「テいた」を現在におけるアスペクト表示形式として捉えるものはなかった。しかし、「ル」「タ」「テいる」が「ところだ」に前接するときのようにテンス対立が中和され、アスペクト対立のなかにおかれる事例の研究は、工藤(1995)においても「時間の従属複文」の研究として行われている。また、「テいた」が「テいる」の単純な過去形としての機能だけではなく、ムード的側面をもちうることを指摘したものとして、藤城(1996)がある。ここでは、これらの研究を参考にしながらもアスペクト表示形式としての「テいた」に対する独自の位置づけをしていきたい。
「テいたところだ」文における「テいた」のアスペクト的性質を考察するために、「テいる」が動作継続相を表すとされている「テいるところだ」文との異同をさぐってみる。以下、a.,b.によって次の文型を表示する。
a.−テいるところだ
b.−テいたところだ
まず前接する動詞の種類についてかんがえてみる。U.2.でみたように、川越(1989)によれば、a.,b.ともに、
@. <動作継続>や行為の継続を表しうる動作動詞や内的情態動詞で、
A.
話し手のなわばりに属することがらで、
B. 状況の段階の把握ができる
という条件を満たす動詞が前接し、共起する時間の副詞句は発話時現在に近接したものに限られる。
したがって、a.,b.ともに自然現象や予測・制御のできない動きのときには使えないことになる。採取したb.の用例や作例32問について、a.やb.の形式で文としての正誤判断を行う前述のアンケート調査によれば、下の 2)を可とする回答が 1)を可とするものより若干多かった。
1)??いま雨が降っていたところです。
2)?いま雨が降っているところです。
しかし、何人かのモニターにたずねたところ、次の 3) 4)に対しては全員がa.,b.ともに「使えない」と回答している。
3)×いま、お腹が痛くなっていたところです。
4)×いま、お腹が痛くなっているところです。
川越(1989)は 2)について、それが「自然になるのは、たとえば、実験室で人工の雨を降らしているとか、映画の撮影所のセットで雨を降らしていると言った場合であろう」としているが、「お腹が痛くなる」ことについては、そのような特殊な状況を考えることもできないので、非文と判断されるのだと思われる。また、 2)を可とする回答が 1)を可とするものより若干多いのも、「雨」という現象の性質が、「降り続いている」段階の把握は容易であっても、それが「やむ」という段階に移ることを把握するのが難しく、もし、人工的に作りだした降雨の場合であるなら、意図的ないしは計画的に「雨がやむ」ときには、「雨」そのものよりも、それを「やませる」人間の操作の方へと発話者の意識の焦点が移動せざるをえないからではないだろうか。
採集した例文からは、これ以外にa.とb.との間に前接しうる成分の違いは発見できなかったが、比率を問題にすれば、b.では内的情態動詞が非常に多いことがはっきりした特徴として現れている。たとえば筆者が2000年11月の段階でインターネットの日本語自動検索システム(1) で検索したところ、「ていたところです」に対して81件、「ていたところだ」に対して46件が検索された。そこから、「時点の解釈」以外の「ところだ」の文と、文法に言及したメタ言語のテキスト1件を除外すると「ていたところです」が80件、「ていたところだ」が41件となった。そして、「ていたところです」でおわる80件の文のなかで、「感じていたところです」「思っていたところです」が、それぞれ53件と4件あり、「ていたところだ」でおわる41件のなかでは、「感じていたところです」「思っていたところです」が、それぞれ27件と2件あったである。
この特徴は、a.に対するb.のアスペクト的な性格を反映したものであると考えられるが、その点に関する考察は後述する。
次に、両者のアスペクト・テンス的な意味のちがいについて考えてみる。
寺村(1978a,1978b)、川越(1989)などが指摘しているように、a.はもっぱら現在の時点における<動作継続>を表す。これに対して、b.は従来、鈴木(1972)のように「動作の進行中の状態であったことを表す」であるとか、森山(1984)のように「現在まで、シテイル形であらわされるような状態であった事をあらわす」などと言われてきた。しかし、U.2.でみたようにb.は発話時現在の状態に言及する表現であるから、「現在まで」ではなく、「現在」の状態がどのようであるかを問題にしなければならない。
b.に共通な事実として、現在の直前まで<動作継続>がみられたということは、現在においても、そのままその動きが継続しているか、止まっているかの両方の可能性がある。そこで、この2つの可能性を中心に文例をみてみる。
5)やっぱり人気がでましたね。わたしもあの歌手は気になっていたところです。
6)(地震発生時の状況をきいて)
A:その時間はなにをされてました?
B:荷物をまとめて今から出ようとしていました。家の外にいて村の方々と
「お別れを」と話していたところです。
《イ》
7)生活が苦しくなってこまっていたところです。ボーナスがでて、たすかり
ました。
《イ改》
発話時現在をまたいで前接する動作の進行が継続していくとみなせる文例もある一方、そうでない文例、つまり「中断」をひきおこしていると解釈できるものもおおいことがわかる。 5)は前者であり、 6) 7)は後者である。 5)はa.に書き換えても大きく意味が変わらないが、 6) 7)をa.に書き換えると、非文になるか、意味が変わってしまう。
5')やっぱり人気がでましたね。
○わたしもあの歌手は気になっているところです。
6')(地震発生時の状況をきいて)
A:その時間はなにをされてました?
B:荷物をまとめて今から出ようとしていました。
×家の外にいて村の方々と「お別れを」と話しているところです。
7')×生活が苦しくなってこまっているところです。
ボーナスがでて、たすかりました。
a.,b.がともに使えるとした 5)と5')についてもニュアンスの差は感じられる。 5)で、「気になっていたところです」は、人気がでているということを知らずに「気になって」いたが、いま人気がでてきていることを聞いて、自分の判断がまちがっていないことが裏付けられたということを言っているようである。これに対して、 5')の「気になっているところです」は、同様の場合にも使えるが、実際に人気が出てきたのをみてから「気になり」始めたというときに使うほうが自然であるように思われる。なお、「デビューの時から」などの語がつくと、a.もb.も使えなくなる。
5'')やっぱり人気がでましたね。わたしもあの歌手はデビューの時から
気になって{× いたところ/× いるところ}です。
これは「ところだ」が現在にのみ焦点をあわせるということを裏付けている。
このように、b.は、たとえ前接する「〜テ」の表す内容が中断されていないとしても、それに関連して新しい展開が生じているとみることができるのに対して、a.は、そのような新しい展開がないか、あったとしても影響をうけずに同じ状態がそのまま進行することを表現しようとするものである。かといって、b.は完了を表しているのでもない。たとえば 6)をみれば、動きが中断されていると思われる場合であっても、その動きが内的限界や、行為者の意志によって完了したのではなく、新しい展開によって進行を止められていることがわかる。また、 5)のように現実世界での動きに中断がみられない場合には、表現者の認知レベルでの認識の途切れが、この表現に関与しているということができる。さらに、内的情態動詞の場合にはそもそも終了限界がはっきりしないという特徴があるが、 7)のように、その内的情態をもたらしていると思われる事態の継続が 5)と同じく新しい展開によって進行を止められ、その結果、内的情態に対しても表現者の認知レベルでの認識の途切れが生じ、その瞬間から、それまでの内的情態(「困っている」)の継続は中断したものであるとみなせる場合もある。よって、<中断>をもたらす場合にしろ、そうでないにしろ、
1] その<中断>をもたらしうるような新しい展開がある
2] 表現者の認知レベルでの認識の途切れが生じている
という共通点があるということがわかる。
以上のようなb.テいたところだ の形式における特徴は、「ところだ」を共通にするa.テいるところだ との対比から観察されるものであり、b.の形式における「テいた」のもつアスペクト的性格を示すものである。それでは、この「テいた」自体の性格は、アスペクト・テンス体系のなかでどのように位置づけられるであろうか。
U.2.で「テいたところだ」の形式のアスペクト・テンス的性格を調べたのは、「テいたところだ」全体をひとつの述語形式としてみてのことであった。ここでは、「テいたところだ」全体ではなく、「ところだ」に前接する「テいた」のみのアスペクト的な意味をアスペクト・テンス体系のなかで考えてみたい。
すでにのべたように、「ところだ」の前で、「テいた」はテンス対立が中和され、アスペクト対立のなかにおかれる。このようなテンス対立の中和について、工藤(1995)は「複文構造の従属節」でのテンス・アスペクト体系として論じている。そこで、まず、そこでの分類のしかたを参照する。
工藤(1995)は<共起><後続><先行>のタクシス(出来事間の時間関係)の分類と、<絶対的テンス><相対的テンス><アスペクト>の3種類の対立の位相を区別して、時間の従属複文の仕組みを論じている。<共起><後続><先行>のタクシスの例をかくと、
<共起タクシス>
8)着物を着るとき、左右を間違えた。
9)着物を着たとき、静かにゆっくり歩いた。
<後続タクシス>
10)着物を着る前に、髪を結った。
<先行タクシス>
11)着物を着た後、ドレスになった。
というふうになる。工藤(1995)によれば、時間の従属複文で「とき」「前に」「後」に前接する成分は<同時><後続><先行>のタクシスを表す。これは、主文の表すできごととの時間的な関係を述べたものである。
そのうえで工藤(1995)は、「ル」−「タ」の対立が、構文的条件によって、次の表のようなテンス・アスペクト的意味を表示する機能を果たしていると論じる。
●終止の位置 :発話時基準の絶対的テンス対立
<(完成相)未来 − (完成相)過去>
●非終止の位置
<後続><先行>タクシス:主文のできごと時基準の相対的テンス対立
<(完成相)以後 − (完成相)以前>
<同時>タクシス :できごと内部のアスペクト対立
<限界達成前 − 限界達成後>
このように、工藤は<同時>タクシスのとき、ル形とタ形のテンス対立は中和され、アスペクト対立となるとしている。このことは、「テいる」と「テいた」との関係についても適用され、従属節における「テいた」の形式については、<絶対的テンス>を表す例と<相対的テンス>での「以前」を表しながら<先行>タクシスである例を示している。
<絶対的テンス(過去)・同時タクシス>
12)「……その写真をみろ。可哀相に。その女はお前を愛していたんだろう。妊娠
していたこともお前は知っていたんだろう。結婚してくれって言われてお前は
困ったんだな。そうだろう。……だからって何も殺すことは無いじゃないか」
《ア》
<相対的テンス(以前)・先行タクシス>
13)先生に肩をたたかれて、自分が居眠りしていたことに気がついた。
14)「きみは、ここを出たら、復学するかい?」
「もちろん復学するよ」
「少年院帰りだということが気にならないかね」
「なぜ気にする必要がある。ここの生活は面白いよ。できたら、気のおけない
友達にここでの生活を語りきかせてやるつもりでいる」
「そうかなあ……僕は、とてもじゃないが、ここに入っていたことを話せないな」
《以上2例 ア》
従来、「テいた」の形式について、叙実法的に「現在」のテンスを認めることはされてこなかった。工藤(1995)も、うえのように13)の「テいる」を現在のテンスとはしておらず、相対的テンスとしての過去、つまり<以前>を表すとしている。しかし、「居眠りをした」ことと「気がついた」こととの間に時間の差はない。工藤自身が、同書で
15)田舎に行った後、体調を崩した。 《ア》
16)田舎に行った時、体調を崩した。 《ア》
を比較し、15)の「タ」を相対的テンスの「過去」としての<以前>を表すとし、16)の「タ」を<限界達成後=結果段階>のアスペクト表示形式であり、相対的テンスの「現在」としての<同時>と位置づけている立場からすると、13)を<以前>であるというのは一貫していないように思われる。なぜなら、15)では「田舎に行った後」と「体調を崩した」との間に「しばらくして」「数週間で」「だいぶたって」などの時間を表す語句が自由に挿入できるのに対して、16)は、「体調を崩した」のが「田舎」に滞在中であることと矛盾する語句はつかうことができず、13)では、そのような制限はさらにきびしくなってしまう。前件と後件とが別々の動きであることはできず、かならず、むすびついていなければならないのである。さらに、
17)先生に肩をたたかれて、自分が問題を当てられていたことに気がついた。
となれば、「当てられている」という事実じたいは「気がついた」あとも続いているのである。これを相対的テンスの「過去」であるとか<以前>であるとして14)と同様に扱うことはできないであろう。
本稿で<途切れ相>というアスペクト的な性質を設定したのは、このような性質の「テいた」を適切に分類する必要からであった。13)17)の「テいた」は<同時>タクシスであって、主節とテンスをおなじくする。そして、アスペクトのうえでは<相対的テンスとしての「現在」、つまり「主節の設定時点」に対する後退性>の用法となるのである。そして、「テいたところだ」の文は、絶対的テンスの「現在」つまり「発話時」において<絶対的テンスとしての「現在」に対する後退性>の用法を実現する形式である。13)についてこれを整理すると、以下のようになる(2)。
13) 先生に肩をたたかれて、自分が居眠りしていたことに気がついた。
●「居眠りしていた」の
テンス:「気がついた」と同じ相対的テンスの現在
タクシス:「気が付いた」と<同時>
●文の要素間のタクシスとテンス
[肩をたたかれる]−<一時的後退性>−[居眠りする]
[居眠りする] −「肩をたたかれる」以前
[居眠りしていた]−主節と同時
[居眠りしていたこと]−<同時>−[気がつく]
以上、「テいた」が<現在>におけるアスペクトをあらわすこと、それは「相対的テンスとしての<以前>」とは異なり、「てきごと内部でのアスペクト対立」のなかにあることを説明した。そこで、このように「テいたところだ」の文と「テいるところだ」の文に現れている「テいた」と「テいる」のアスペクトの性格をつぎのように区別することの正当性が示された。
「テいるところ」での「テいる」:動作継続相
「テいたところ」での「テいた」:途切れ相
ここで改めて示した「途切れ相」というのは、本稿で新しく採用した用語である。ここまでの考察をもとに、その内容を定義すると、
動作・変化の進行や、変化によってつくられた状態の継続が、その内的限界によって完了するのではない形で切れ目を生じ、そのまま状態が継続するかどうかが不明な局面
というふうになる。
13)17)や、U.2.であげた<現在に対する後退性>を示す下記18)〜20)は、この<途切れ相現在>であると言える。このことを図示すると、次の図のようになる。
18)すてきですね。前からこんなネクタイがほしいと思っていたんです。《ブ改》
19)「本をさがしているんですか。」「ええ。弟がほしがっていた日本の本をさが
していたんですが、ここにはないようです。」
20)そのとおりです。僕もさっきから同じことを言おうとしていました。《イ改》

<途切れ>が<動作パーフェクト>と違う点は、できごと時点が完成したものとして認知されていないということである。<動作パーフェクト>では、できごとが完了しその<効力>が<現在>に及んでいたのであったが、<途切れ>においては過去における<動作継続>のみが認知され、それが完了したかどうかがわからない。近接した過去において完了したかどうかがわからない事象を<現在>の時点においてアスペクトとして捉えようとしたものが<途切れ相現在>である。それは運動が終結したとも言えないし、近い過去から切れ目なく継続中であるとも言えない様相をあらわしている。次の図は、<過去継続相>の「テいた」が表す事態が現在の時点から捉えかえされることにより、同じ形式で<途切れ相現在>になる関係を示している。

以上のように、「テいた」がテンス的な意味を失い、アスペクト対立の中に置かれるときには、途切れの局面を表す。「中断」は、<途切れ>の局面の一種である。
2.1.での前接する動詞の種類の考察などから、<途切れ>には、
[α]話者のなわばりに属し、話者が状況の段階の把握をしている動作や変化が
外部からの力によって変容を受け、場合によっては中断をもたらされるような
局面に至ること
[β]動作や変化の継続を知覚する意識や、知覚や感情にかかわる動きが、認知
的な作用によって区切られる局面に至ること
の2種類があることがわかる。 6)は[α]の例であり、 5) 7)は[β]の例である。
このうち[β]について補足する。 7)のように「中断」があると思われる場合でも、それが感情の状態をあらわすときには、「中断」したかどうかも現実世界の問題であるというよりは解釈の問題であるということができる。つまり、現実世界の動きがどうであるかということとは別に、話者が表現しようとする視点を移動させることによってその動きを認知する作業が途切れてしまうと、進行継続相も完了相も使うことができず、途切れ相が使われるものとおもわれる。これは、U.2.で<現在に対する後退性>の用法としてあげた18)〜20)に典型的に現れているものと同じである(3)。
アスペクト対立のなかに置かれた「テいた」が知覚・思考・心理状態を示す動詞につくときには、[β]の用法になると思われる。また、有情物を主語にする意志動詞につくときでも、つぎのように[β]の用法であるとみられるものがある。
21)私立高校2年の○○さんが、専門学校生□□容疑者の乗用車のボンネット
にふざけて張り付いていたところ、□□容疑者がそのまま車を約100メートル
走らせ、○○さんは滑り落ちて車の下に巻き込まれ、全身を強く打って間もなく
死亡した。
《イ改》
[β]の用法の一部は従来、「タ」の叙想的テンスといわれるはたらきであるとして説明されてきた。そこで、U.4.では簡単に、叙想的テンスといわれるものの類型と「テいたところ」における「テいた」の性格との関係をみることにする。
ここではそのまえに、以上の「テいた」のアスペクト的性格についての説明が、類似の文型についても適用できることと、「テいたところだ」に前接する動詞の特徴をも説明できる物であることを示す。
まず、このような「テいた」のアスペクト的性格は、「テいたところだ」文で実現されているだけではなく、「…p…テいたところ、…q…」という構文も説明できることを示す。
「…p…テいたところ、…q…」という構文は、新聞記事などに頻繁に現れるが、βという事件がおきたときに、それに先立つ背景の状況がαであったことをしめしている。これは、「…q…。…p…テいたところだ(った)」と書き換えることができる。
22) 警察は男の行方を捜していたところ、路上で不審な人物を発見した。 《マ改》
↓
23) 警察は路上で不審な人物を発見した。男の行方を捜していたところだった。
「テいたところだ」文の意味構造はこれに由来するとみることができ、qが明示されていないときには、qにあたる部分は現在の眼前の状況であると解釈できる。
24) (警察が不審な人物を尋問しながら)
強盗事件があって、逃走した男の行方を捜していたところです。特徴が
一致するので職務質問をします。
このように、「テいたところだ」にはqにあたる「できごと」の存在が含意されており、それが事態に<途切れ>をもたらすと考えることができる(4)。
以上のように、<途切れ相>という考え方は「テいたところだ」の文を説明するためだけに都合よく考え出されたものではなく、「テいた」がアスペクト対立のなかにおかれたときに、ほかの文型を説明ためにも適用ができるものであることを示した。
次に、「テいたところだ」に前接する動詞に「思考や心理状態を説明するような場合が多く、その状態に新たな変化・展開が起きたような場合によく用いられる」という『日本語文型辞典』(1998)の特徴について説明を試みる。これは、本章の冒頭に研究課題の[3]として掲げたものである。
U.2.で述べたように、「テいたところ」に前接する動詞は、
@) <動作継続>や行為の継続を表しうる動作動詞や内的情態動詞で、
A)
話し手のなわばりに属することがらで、
B) 状況の段階の把握ができる
ものである。この「テいたところだ」の先行成分をA:「話者がその状況の段階の把握をしている動作動詞」とB:「思考・心理状態を示す内的情態動詞」の2つに分けて考える。Aは、話者が進行過程を把握している動詞であるから、それが途中で中断したとしても、再度、中断した地点から再開する可能性を認識できる。Bは、もともと終了限界がはっきりしないことが特徴の動詞である。したがって、それが<継続>しているという認識も<中断>したという認識も、話者本人の内的な認知の仕方に左右される。A・B両者に共通の特徴は、<動作継続>の途中で他のできごとの影響を受けて継続が中断することがあっても、また再開する可能性があるということである。
Aの表す動きが外部からの力で中断されても、もし、その地点から再開されれば、全体でひとつづきの動作であると認知することができる。逆に、外面的には動きが継続していても、話者の状況の段階の把握が何らかの理由で途絶えてしまえば、もはや一つづきの動きであるとはいえなくなる。「状況の段階の把握ができる」ということは、このような話者のできごとに対する認知のはたらきが作動することを示している。そして、本来からして内省によってしか捉えることができない内的情態をあらわすBは、もともと、このような認知のはたらきによってのみ、動きの終了限界が作られ、ひとつづきの動作として区切られるものである。
このことから、自然現象や主体の意志や感情と関係なく進行する動作などには「テいたところだ」が後接しないということも説明できる。これらの動きは、いったん途切れてしまえば、もはや再度動きが始まったとしても別々のできごととしてしか感じられないし、運動のすすんでいく段階が想定できないために、直前の状態がどのようであったかということを現在の状態に対する言及に転化させるような認知のはたらきが作用しないからである。
『日本語文型辞典』(1998)の記述は、「思考や心理状態を説明するような場合が多く」という部分はBについて言っており、「その状態に新たな変化・展開が起きたような場合によく用いられる」というのはAにもBにも言えることである。ただし、「新たな変化・展開」はAの場合は客観的にとらえられることもあるが、Bの場合には話者の認知によるしかないので、必然的に「認知の途切れ」として「テいた」の形式を伴って表現されるのである。それが、「テいたところだ」の文例のなかでBの占める割合が高い理由であると思われる。
以上、研究課題[3]について、考察を試みた。
【注】
(2) 工藤(1995)のことばを借りれば、ここで[肩をたたかれる]と[居眠りする]との時間的前後関係を考えることはテクストレベルにおける<独立タクシス>であり、[居眠りしていたこと]と[気がつく]との時間的前後関係をみることは<従属タクシス>である。
前者は、複数の文の終止の位置の述語間の関係として、後者は1つの文の従属文(非終止)の述語と主文の述語間の関係として表現される。U.2.では「居眠りしていた」の形式が[居眠りする]というできごとを完成性のアスペクトとして捉えたときにいったん後退性を示すが、「居眠りしていた」という途切れ相のアスペクトとなることで再び直前の叙述と<同時>の時間設定に復帰するという働きをみた。そこで<一時的後退(フラッシュバック)性>と述べられていたのは、そのことであり、ここでの<従属タクシス>をみるときに観察される<同時>性とは矛盾しない。
(3) 18)〜20)と同様の例であるが、
・(デパートのショーウインドーをみて)あの服、涼しそうですね。ちょうど
あんなのがほしいと思っていたんです。
ここでは、「思っている」という「事態」そのものには変化がなくても、話者の視点が、「ほしいと思う」という段階から「買おうかどうか」という段階へと移動している。このような認知的な切断が、「テいた」による表現をもたらしていると思われる。
次の例文は、このような認知的な切断がみられない場合である。
・(友人が着ている服をみて)
その服、涼しそうですね。わたしも
そんなのがほしいと思っているんです。
《ブ改》
(4) また、「…p…テいたとき…q…」という文型と「…p…テいるとき…q…」という文型の文例を比べることからも、上述の「途切れ相」は「テいた」という形式がもともと持っているアスペクト的性格であるということが検証できる。前者はqによってpの表す状態の進行が妨げられることを示している文例が圧倒的であるのに対し、後者は「とき」が「場合」の意味に解釈できる文がほとんどである。両者の文例をひとつずつあげておく。
・ ポーランド軍がモスクワを支配していたとき、ロシア人は総主教イエルマ
ゲンの祖国防衛の呼びかけに立ち上がった。
・ アルファベットが使われているとき、大文字、小文字を区別する必要はあ
りません。 《以上2例 イ改》