4. 叙想的テンスの「タ」と途切れ相の「テいた」

 

 本章では、前述の研究課題

 [4]以上の接近方法により、「テいたところだ」と「テいるところだった」などの類似
   してみえる表現の相違点を明らかにする。

を解明するために、4.1.で従来「叙想的テンス」と呼ばれてきたものを検討し、それと叙想的な途切れ相との違いを述べる。そして、4.2.で、この研究課題に対する解答を演繹する。さらにその妥当性について、例文において検証してみる。

    

 

 4.1. 叙想的テンスと途切れ相との相違点

 

 3.2.では、途切れ相が継続してきた動きに「変容」「中断」ないしは「認知的な切れ目」が生じた局面を表していることがわかった。

   1)強盗事件があって、逃走した男の行方を捜していたところです。特徴が一致
    するので職務質問をします。

   2)「もしもし。いま、いい?」
    「ごめん。いま、ねてたとこなんだ。」

   3)やっぱり人気がでましたね。わたしもあの歌手は気になっていたところです。

 1)が「変容」、 2)が「中断」 3)が「認知的な切れ目」である。このうち「中断」の場合には、「テいたところだ」は現在における<動作継続>である「テいるところだ」では表すことのできない現実世界の事態を表現しているので、ほんらい現在ではない「過去」における継続をあらわす形式である「テいた」が現在のアスペクト的事態を表すために転用されたとしても叙実法的であるということができる。しかし、「変容」ないしは「認知的な切れ目」が生じた局面を途切れ相で表現することは、「テいるところだ」でも表現することができる事態をわざわざ「テいたところだ」で表現するということであり、しかも、そこでの「変容」ないしは「認知的な切れ目」は、現実世界における事態の変化に対応しておらず、もっぱら話者の認知的な作用によって引き起こされた認識の切断によっている。その意味で、「中断」をともなわない途切れ相の用法は叙想的であるといえよう。

 このように「テいた」が表す事態が現在も継続している場合に「テいたところだ」の文をつかって表現すれば、ひとつづきの<動作継続>のなかで、現在とは切り離された一部分のみを認識し、それを現在の時点からアスペクト相として捉えかえしていることになる。これが叙想的な途切れ相の用法である。次の図を参照されたい。

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 ところで藤城(1996)は、この叙想的な途切れ相の用法と同じように「テいた」がひとつづきの<動作継続>のなかの1点のみにスポットライトをあてて、それ以外の部分については後景化させる用法があることを指摘している。たとえば、

   4)弟は友達と野球を見に行くと言っていましたから、行かないだろうと思い
    ますよ。 《ブ》

というとき、「言いました」は使われず「言っていました」が使われる。藤城(1996)はこれを「感知の視点を表す」用法とし、「話者が、ある出来事を(外から)感知したものとして提示し、そうすることによって、その出来事と、話者または登場人物との接点のあり方を表そうとする」ものだと分析している。藤城があげている例だが、つぎのような現象がある。

   5)看護婦1:田中さん、今日はちゃんとごはん食べた?
    看護婦2:ええ、きれいに{○ 食べましたよ/○ 食べてましたよ}。

   6)看護婦1:田中さん、今日はちゃんとごはん食べた?
    田中(患者):ええ、きれいに{○ 食べましたよ/× 食べてましたよ}。

このように、感知を表す「テいた」は話者本人の行動に対しては使われず、話者が現場で直接感知した外界の事実をそのまま聞き手に差し出すようなときに使われる。これは、過去において終了したことがわかっている動きを、あえて<完成相>の形式で表現せずに<動作継続>の形式で表現することによって成立する「テいた」の派生的な用法である。この用法を図示すれば、次の図のようになるであろう。

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 この図をさきほどの「途切れ性」を図示したものと比較すれば、「過去」と「現在」とは違っているものの類似した構造を持っていることがわかる。それは、ひとことで言えば、「認知する意識の途切れ」があるということである。この「意識の途切れ」のために、通常は完成相で表されるものが継続相の形式になったものが「感知の視点」の用法であり、通常は継続相であらわされるものが途切れ相の形式になったものが叙想的な途切れ性の用法であるといえる。

 これは、別のいいかたをすれば、完成相で表されるひとまとまりの運動のひとまとまりとして捉えずに、その部分をとりだして述べ立てる話者の表現意図を反映した形式のことをアスペクトと呼ぶことができ、完成相から終了限界をとりさって動きの途中にある一部分のみをとりだすのが動作継続相であり、その動作継続相が示す継続性が現在をまたいでいるときに、現在の直前までの部分で認識を切断して、それを現在にむけて差し出したものが途切れ相であるということであろう。

 このような叙想的な途切れ相の文は、従来「叙想的テンス」として扱われてきたものとも類似しているように見える。

 U.1.で述べたように、寺村(1984)、益岡(2000)は、現在の事態を表現していると考えられるにもかかわらず「タ」が用いられる文での「タ」の用法を「叙想的テンス」と呼んでいる。また、工藤(1995)も、それを「叙想法的な用法」あるいは「モーダルな用法」と呼んで区別した。そこで工藤が区別した8つの「モーダル」な用法のうち、現在のことがらを表すのに「タ」を使うとされるものは、「感情・感覚表出」「差し迫った要求」「発見、想起」の3種類である。しかし、そのうち「感情・感覚表出」は1人称主語の内的情態動詞に限られ、「差し迫った要求」は限られた意志動詞にしか使われず、両者とも「シテイタ」の形ではなく「シタ」の形で使われるとされている。したがって工藤(1995)の言う「モーダルな用法」が先行成分のうえから「テいたところだ」の文と重なるのは「発見、想起」のモーダルな意味もつ用法に限られることになる。

 一方、寺村(1984)を踏襲して再整理した益岡(2000)によれば、叙想的テンスの「タ」は、次の6種類に分類される。

   a.発見(ああ、こんなところにあった。)
   b.想起(そうだ、明日は休みだった。)
   c.確認(君は確か岡山の出身だったね。)
   d.命令(さあ、行った、行った。)
   e.判断の内容の仮想(早く帰ったほうがいいよ。)
   f.反事実性(僕に財産があったなら、何でも買ってあげられるのに。)

ここで工藤(1995)のいう「発見、想起」にあたるのはa.,b.,c.の3つであり、それ以外は先行成分の性質や、共起する節などの特徴がまったくちがうので、叙想的な途切れ相の「テいたところだ」の文とは、まったく異なる。

 そこで、ここでは、益岡のa.,b.,c.の用法をみてみる。まずc.は、

   7)君は確か岡村君だったね。

のように「聞き手に自分の認識が正しいことを確認する」ものである。一方、「テいたところだ」の文は、2.1.で述べたように、もともと話し手のなわばりに属する情報をのべたてるのに使われるものであるから両者は重なる点がない。また、「確認」の用法は過去の事実について記憶を確かめるときに使うのであるが、「テいたところだ」の文は現在の一時的状態について述べるものであるから、その点からも一致しない。もちろん、 7)は、

   7')×君は確か、名前を「岡村」といっていたところだね。

などというようには、書き換えられない。

 次に、b.の「想起」であるが、益岡(2000)は寺村(1971)による「過去にいったん認識していたことを忘れていて思いだした、ということを表すタの用法」という定義を採用している。たとえば、

   8)そうだ、明日は彼女の誕生日だった。

という文がそれにあたるが、ここでも「想起」の用法で示されることがらは過去に認識対象になったできごとに限られる。したがって、現在に焦点をあてる「テいたところだ」の文とは捉えている事態が一致せず、

   9)そうだ、今日は彼女へのプレゼントをかうことにしていた。

という「想起」の文を、

   9')×そうだ、今日は彼女へのプレゼントをかうことにしていたところだ。

などとは表現できない。

 結局、益岡(2000)があげている「叙想的テンス」の文のなかで、「テいたところだ」の文と用法に重なるところがあるのは、a.の「発見」の文だけである。「発見」の文については益岡(2000)も従来の研究をふまえたうえで独自の見解を述べているが、「予め想定していたこととは違った事態に話し手が気づいた」ということを表すことが典型的であることは、論者の意見が一致している。たとえば、捜し物がテーブルの下にあるのを見つけて

  10)やっぱりここに落ちていた。

ということができるが、これは、「落ちている」のを見て発話するまでの間、「落ちていた」という事実を確認したわけではなく、あくまで眼前の事実をみながら「テいた」の形をつかっているのが特徴である。あるいは、

  11)(外に出てみて)やっぱり雨が降っていた。

も、「発見」の叙想的テンスの文に属する。これらと、

  12)(窓のない部屋の中で)
   雨が降ってきたかと思っていたところです。

のような「テいた」文は、ともに「タ」が使われていながら、現在の状況を説明している点が類似している。

 しかし結論から言うと、12)は「発見」の文にも、その他、「叙想的テンス」と呼ばれる範疇にも含めるべきではないと考える。以下、その理由を示す。

 まず第一に、2.1.であげた以下の「発見」の文も、10)11)においても、「テいた」は「テいたところだ」には書き換えられない。

  13)「ほら、やっぱり起きてた。」 《ア》

  14)「きょうも来ていたの、君は。」 《ア》

  10')×やっぱりここに落ちていたところだ。

  11')×(外に出てみて)やっぱり雨が降っていたところだ。

  13')×「ほら、やっぱり起きていたところだ。」

  14')×「きょうも来ていたところなの、君は。」

次に益岡(2000)も指摘するように、これらの「発見」の文は、過去の状態について言及しているのではないということが明らかにわかっているという前提で、以前から「想定」していたことと現在の事実とを関連づけ、想定がただしかったか、まちがっていたかを述べる形式であるのに対して、12)には、そのような基準時以前の「想定」は関係せず、むしろ「思っていた」ことが、その後に明らかになる事実によって中断・変容することを示している。関連づけることがらへの時間の向きが反対なのである。

 叙想的テンスが、タ形が本来表示するテンスとは異なるテンスに属することがらを表現することによって、上のような特殊な意味を帯びるものであるのに対し、「テいたところだ」に見られるような途切れ相の「テいた」は、もともとテンスの対立が中和され、アスペクト対立のなかに置かれたときに生じる表現である。アスペクト対立のなかで、「テいた」は<途切れ>をあらわす。ここでの「テいた」は、現実世界では「テいる」の継続相としてとらえられるものを叙想的に「テいた」のアスペクト的な働きである<途切れ>によって表現することによって、実際には中断していないものを中断しているかのようにとらえたものなのである。

    

 

 4.2. 「テいるところだった」と「テいたところだ」の相違点

 

 冒頭で取り上げた次の文例、

  15)ちょうど先生の話をしているところでした。

は、過去における<継続>をあらわしているか、そうでなければ<叙想的テンス>の「タ」をつかった文である。これは、明らかに現在も「先生の話をしている」ことが認められる状況下で発話されれば、「想起・発見」を表現している。これに対し、

  16)ちょうど先生の話をしていたところです。

は、もし、明らかに現在も「先生の話をしている」ことが認められる状況下で発話されれば、<叙想的アスペクト>としての<途切れ相>の文であるというのが、これまでで明らかになった結論であった。いままでの考察で、<途切れ相>は、現実世界において発話時現在をまたいでいく継続状態に対して、現在の直前まで続いてきた状態の継続と現在の状態との間に切れ目をつくり、後者を表現からきりすてる働きをもっていることが明らかである。一方、<叙想的テンス>の「タ」は、現在の継続状態が、まるで過去の継続状態に直接つながるような表現効果をねらっている。つまり、15)と16)は、近接した過去において「先生の話をしていた」という事態があることは共通しているが、それと現在の事態とを切り離そうとするか、それに現在の事態を引きつけようとするかという点で反対であると演繹できる。

 この演繹は、現実の使用状況と一致するであろうか。

 まず、16)であるが、ここでは「先生の話をしている」ときに、当事者である「先生」が入ってきたので、あらためてその「先生」をまじえて、話を最初から始め直すというときに使うのが適切であろう。もし、そうだとすれば、これは現象としては「話をしている」という<動作継続>が現在をまたいでいくことになるが、意識のうえでは「先生が入ってくる」前後で「切れ目」が生じているといえるだろう。

 一方、15)であるが、ここでは「先生が入ってきた」という状況に対応して、先生と新しい話をしていたところ、少し前に、当の「先生」について「先生」以外の者たちが話題にしていたことを思いだし、もう一度、話題をそこにもどして、さっきの話の続きをしようというときに使うのが適切であろう。傍証として、「あっ、そうだ。」に続く文としては

  17)「あっ、そうだ。いま先生の話をしているところでした。」

は適当であるが、

  18)×あっ、そうだ。いま先生の話をしていたところです。」

は、不自然な文である。このことを図にかくと次のようになる。

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 ここで、「しているところだった」の線は、叙想的な認知の意識を表す線によって過去における継続中の時点と現在の継続中の時点が連結しており、現実の「切れ目」が意識の中では消滅してしまっていることがわかる。これに対して、「していたところだ」の線は叙想的な認知の意識を表す線によって現在における「中断」後の状態と「継続」の局面が連結されており、現実の事態を表す線と比べると「切れ目」が意識の中で追加されて、あたかも現在の時点から「再開」がされるように意識されていることがわかる。ふたつの表現は、ともに叙想的でありながら、このように、反対の効果をもたらすものなのである。

 筆者はこの論文の執筆を始める前に、15)と16)の違いについて、インターネットの掲示板上で、複数の日本語教師と討論をした。そのときに提出された意見の中で、15)の発話は16)に比べて失礼に聞こえるという指摘が、何人かから寄せられた。16)は途切れ相現在を使った表現であり、「中断」と「再開」の両方の可能性を同時に示している。したがって、「先生」が入場してきたことに対して、

 [@]いったん注意をはらって、話を中断する。

 [A]「先生」に今までの「話」のことを説明して、「話」が再開されることについて
   含みをもたす

というような語用論的機能があるだろう。一方、15)の表現は叙想的テンスの「タ」により表現される継続相である。しかしこの発話者が「話」に参加していた者であれば、「発見」の意味にとる解釈はなりたたない。よって15)は「想起」「確認」の意味であろう。前述したように、「想起」「確認」の意味の「タ」は「テいたところだ」文と使用される状況が重ならない。ここでも15)と16)は似ているようにみえて、異なる状況を背景にしながら話していると考えなければならないのである。つまり、16)においては「先生」の存在を意識して遇するということがあるのに対して、15)の発話は、

 [@]「話」が終了していないと言うこと

 [A]「先生」が入ってきたことをきっかけに、「話」の途中であったことを暫時忘却
    していたということ

を前提にしている。なぜなら、「想起」「確認」ということは直前まで「話」をしていたことを忘却してしまったか、忘却していたふりをしていなければ現れない言語行動であるからだ。このような発話の「前提」は、「話」の主題であった「先生」本人がきたことで、かえって「話」をしていなかったかのように振る舞う必要がおきたということを暗示している。つまり「先生」本人は、その「話」に対して部外者扱いされていたことを意味してしまうだろう。あるいは、16)の表現のように「先生」をくわえて新たに話を再開するというニュアンスをもたず、話自体は中断したところからその続きを始めるという意味になるため、「先生の話」はしていたのだとしても、その「話」に「先生」本人は介入させないことを当然視しているようにも解釈できる。つまり、状況によっては「本人がいないことを前提に『先生』の話をしていて、これからもその話を続けるつもりであるから、本人である『先生』は出ていってほしい」という意味にもとれなくはないのである。

 以上の理由により、15)の発話は「失礼」に聞こえるのではないかと思う。

 以上本章では、これまでの分析をふまえて、研究課題の[4]に対する解答を提出した。しかし、本章の見解は演繹的に得られた仮説の段階で、本稿のみにおいて立証が十分にすんだとはいえないと考える。筆者としては、この論文のなかで問題にされた点は以上の論証で説明されつくしたつもりであるが、さらに実例を検討していく中で、いままでの仮説では説明が出来ない新たな問題点が浮かび上がっていく可能性もある。今後もさまざまなテクストやディスコースに注意を払って用例を集め、考察を深めると同時に研究をつづけていきたい。