(2001年 9月30日から)

碩士学位論文中間発表

発表日:2001.09.24
2001.09.26修正

発表者:AKIZUKI-Yasuo

 

「テいたところ」の文法的性格をめぐって

 

 


 

目次      

 

T.はじめに

U.本論

  先行研究と本稿の立場

  「ところだ」の機能的分析

  −1.「ところだ」の有無による異同

  −2.アスペクト対立とテンス中和機能

  −3.アスペクト表示としての「テいた」の抽出

  「テいた」のアスペクト的性格

  −1.「タ」と「ル」の対立による異同

  −2.中断と認識の切れ目

  −3.途切れ相としての「テいた」の性格規定

  叙想的テンスの「タ」と途切れ相の「テいた」

  −1.叙想的テンスに関する先行研究

  −2.叙想的テンスと途切れ相との相違点

V.おわりに

 

参考文献

出典

 


 

T.はじめに

 

 「ところだ」という形式は、形式名詞に「だ」がついて一体化し、助動詞的に使われるものだといわれている。“場所”という本来の意味ではなく、動きの“局面”を表すとされる「ところだ」に関しては、従来、「ばかりだ」との違いであるとか、「父がそのことを知ったら激怒するところだ」のような“反事実”の用法との関連などが論じられてきた。そして、おおくの教科書や参考書に、「ところだ」は「今から出かけるところだ。/今食事をしているところだ。/今帰ったところだ。」のように使われ、それぞれデキゴトの[直前/最中/直後]を示すと説明されている。しかし、ここでは、見過ごされている次のような事実がある。

 学生たちが教師の話をしているところにその教師が入ってきたという場面で、

 と、いうことができる。ここでは、「しているところです」よりも「していたところです」が自然に感じられると言う人が多いだろう。この例に限らず、「思う」「言おうとする」「感じる」などの用言に「ところだ」がつく用例を調べれば、「テいたところだ」という形態をとっていることが非常に多い。それはどうしてなのだろうか。また、それらはどのような意味を表しているのだろうか。

 「テいたところだ」という形で動きの“局面”を表している文例を集めると、それらが現在と切り離された過去の状態について言っているのではなく、発話基準時(現在)の状態についての言及であることがわかる。例文 1もそうである。それは、この文において、仮に、教師が入ってきたのが、ある過去の一点であるなら、

 というように、「ところでした」としなければならないということからもわかる。また、このことから例文 1 2に共通な「話をしていた」という部分にあるタ形は、絶対的テンスには関わっていないということにもなる。つまり、これらの文の「テいた」は「直前/最中/直後」というような範列におかれるべきある段階を示しているのではなかろうか。だとすれば、それはどのような“段階”なのか。本稿では、このような問題について論じてみたい。

 

 

 

U.本論

 

1 先行研究と本稿の立場

 

 従来から「ところだ」の研究は多くあるが、「テいたところだ」という形式をとりあげての研究は多くはないようである。

 『日本語文型辞典』は、つぎのように説明している。

  また、寺村(1984)は、「動詞+ところだ」全体をアスペクト形式であるとするのは適当でないとし、アスペクトを表すのは「ところだ」に前接する動詞の部分であり、「ところだ」自体は説明のムード形式の一種であるとした。

 そこで本稿では、寺村説をもとにしながら次の順序で論じていきたい。

 

 

 

2 「ところだ」の機能的分析

 

−1.トコロダの有無による異同

 

 「テいたところだ」における「ところだ」の機能を調べるために、その有無における異同をさぐってみる。

 まず、時について考えてみる。

 工藤(1995)によれば、a.−テいた には、叙実的な過去のテンスの用法と叙想的な現在のテンスの用法がある。叙実的な過去のテンスの用例は以下のようである。

  ここでAとBは<結果継続相>、Cは<動作継続相>とみられるが、これらは、テクストにおいて過去に設定された時点である@との同時性を示している。その一方、叙実的な用法には同時性を示さない<動作パーフェクト相>(1)もある。

 ここでは、叙述が進行していく時間の流れに逆らってEが、過去に設定された時点であるDに対する一時的後退性を示している。これは工藤が<過去パーフェクト>と呼ぶものである。

 しかし、「テいた」が一時的後退性をみせるのは、この限りではない。会話において頻繁に使われる文型に以下のようなものがある。

 工藤は、これらの文について特に言及していないが、これらは、[1]設定時点が過去ではなく、発話時現在であると考られる点と、[2]現実世界において事態が完全に終了しているとはいいきれないという点で、<過去パーフェクト>とは異なっている。これらの文のテンスは現在であり(2)、かならずしも叙実的な意味での「パーフェクト」であるとも言い切れない。そこで、文例 5〜 8のようなものを仮に<現在に対する後退性>の用法と呼ぶことにして、文例4のような<動作パーフェクト相>の例から区別しておく。

 最後に叙想的な現在の用法とされるものがあるが、それは以下のような<想起・発見>の用法である。

  これらに対しb.−テいたところだ は時に関して、常に、設定時点を発話時現在に置いた言及をしているといえる。

 b.の形で表される文は、a.において<現在に対する後退性>とよぶことにした用法に相当するものに限られる。a.でみられた<想起・発見>の叙想的な用法にあたる文も、b.には見られない。ただし、以下のような<反事実>の用法は存在する。

 次に、前接する動詞の種類についてみてみる。

 a.は、一部の状態性の動詞を除きさまざまな動詞につくことができる。叙実的な文においては、すでに数多く指摘されているように、継続動詞に接続して過去のある時点における動作継続相を表し、結果動詞に接続したときは、結果継続相となることができる(3)

 

 <動作パーフェクト>となりうる動詞についても、継続動詞、結果動詞の別はないようである。<現在に対する後退性をしめす>用法については文例 5〜 7のように、知覚・思考・心理状態を示す動詞が際立って多いが、その限りではない。

  また、叙想的な用法として<想起・発見>の文が成立するためにも、前接する動詞に特段の制限はなさそうである(4)

 

 これらに対しb.の例文を集めると、有情物を主語にする意志動詞につくことと、知覚・思考・心理状態を示す動詞につくことがあることがわかる。

 b.が有情物を主語にする意志動詞につくときは、少なくとも発話時現在の直前まで動作・行為や変化の進行が継続していることを表している(5)

 このときb.は、結果動詞と解釈される動詞には使えない。

 これは、「テいるところだ」にも共通の現象である。

 また、無情物を主語にしたり、人間の意志による制御が及ばない動詞には、b.はつきにくい。

  次に、b.が知覚・思考・心理状態を示す動詞につくと、その知覚や思考によってもたらされた認識や、その心理状態が、少なくとも発話時現在の直前まで継続していることを表している。

  なお、b.が<反事実>の用法につかわれるときには特に動詞に制限はないようである。

 

 以上のように、b.が可能になる動詞は同様の意味をa.でも表しうる。ただし、文章の中では文脈が不自然になることがある。それは、時間の流れに逆行して、「テいたところだ」がついていた述語があらわす状態の継続がおわり、変化した後の状態が文章のなかで先行している場合である。

 この文で「感じていたところです」の設定時点は不安が解消された直後の発話時現在におかれるが、「感じていました」だと先行する文脈との同時性をあらわそうとしてしまい、意味がとりにくくなる。

 

−2.テンス中和機能とアスペクト対立

 

 前項−1.でみた特徴をまとめると、次頁の表のようになる。

 ここから明らかなことは、「ところだ」がテンスを現在に固定する機能をもっていることである。また、「ところだ」がときに<反事実>の叙想性をもつということが<現在に対する後退性>の用法にも影響をあたえていると推察することができる(6)

 

ムード

タクシス

用法

テンス

テいた

テいたところだ

叙実的

同時性

動作継続

過去

 

結果継続

 

後退性

動作パーフェクト

 

(7)

<現在に対する後退性>

現在

叙想的

想起・発見

 

反事実

 

−3.アスペクト表示としての「テいた」の抽出

 

 以上の考察から、以下のことが言える。

 1.は時に関するa.b.の違いの考察から明らかであろう。

 2.a.b.の両方が可能な動詞にそれぞれがついた文の意味の違いから言えることである。

 これらから3.の結論を予想することができる。実際、アスペクト対立のなかに置かれることによって、「ところだ」に前接する「テいる」は動作継続相に、タ形は完了相の用法に固定されるのだと説明されることが多い。だとすれば、前述の「テいたところだ」に前接する動詞の制限も「ところだ」に前接する「テいた」があるアスペクト相の用法に固定されることと関係があるのではないかと予想されるのである。そこで、章ではアスペクト対立のなかで「テいた」が表す局面はどんなものであるか、その性格を具体的に考察してみる。

 

3 「テいた」のアスペクト的性格

 

−1.「タ」と「ル」の対立による異同

 

 「テいたところだ」文における「テいた」のアスペクト的性質を考察するために、「テいる」が動作継続相を表すとされている「テいるところだ」文との異同を調べてみる。

について、まず前接する動詞の種類についてかんがえてみる。a.はいわゆる継続動詞につく。b.も同様(文例17〜20)だが、自然現象や予測・制御のできない動きのときには使えないようである。

  次に、両者の意味のちがいについて考えてみる。すると、a.はもっぱら動作継続を表すのに対して、b.は発話時現在をまたいで前接する動作の進行が継続していくとみなせる文例もある一方、そうでない文例、つまり「中断」をひきおこしていると解釈できるものもおおいことがわかる。次の文例28は前者であり、2930は後者である。前者は「テいるところ」に書き換えても大きく意味が変わらない。

 

−2.中断と認識の切れ目

 

 前項−1.a・bがともに使えるとした文例についてもニュアンスの差は感じられる。文例28で、「気になっていたところです」は、はじめから「気になって」いて、人気がでたことによってそれには根拠があったことが裏付けられたということを言っているようである。これに対して、「気になっているところです」は、実際に人気が出てきたのをみてから、「気になり」始めたというときに使うのが適当であると思われる。

  このように、「テいたところだ」のときには、たとえ前接する「〜テ」の表す内容が中断されていないとしても、それに関連して新しい展開が生じているとみることができるのに対して、「テいるところだ」は、そのような新しい展開がないか、あったとしても影響をうけずに同じ状態がそのまま進行することを表現しようとするものである。かといって、「テいたところだ」は完了を表しているのでもない。動きが中断されていると思われる場合であっても、その動きが内的限界によって完了したのではなく新しい展開によって進行を止められているのである(文例29)。また、現実世界での動きに中断がみられない場合には、表現者の認知レベルでの認識の途切れが、この表現に関与しているということができる(文例28)。

  そこで、このように「テいたところだ」文と「テいるところだ」文に現れている「テいた」と「テいる」のアスペクトの性格をつぎのように考えたい。

ここで「途切れ相」というのは、本稿で新しく採用する用語である。これを簡単に定義すると、

というふうになる。

 

 このような「テいた」のアスペクト的性格が、「テいたところだ」文で実現されていることは、「…α…テいたところ、…β…」という構文との関連からも説明できる。

 「…α…テいたところ、…β…」という構文は、新聞記事などに頻繁に現れるが、βという事件がおきたときに、それに先立つ背景の状況がαであったことをしめしている。これは、

 「…β…。…α…テいたところだ(った)

と書き換えることができる。

 「テいたところだ」文の意味構造はこれに由来するとみることができ、βが明示されていないときには、βにあたる部分は現在の眼前の状況であると解釈できる。

  このように、「テいたところだ」にはβにあたる「できごと」の存在が含意されており、それが事態に<途切れ>をもたらすと考えることができるのである(8)

 

−3.途切れ相としての「テいた」の性格規定

 

 以上のように、「テいた」がテンス的な意味を失い、アスペクト対立の中に置かれるときには、途切れの局面を表す。「中断」は、<途切れ>の局面の一種であるということができる。

 

 2−1での前接する動詞の種類の考察などから、<途切れ>には、

の2種類があることがわかる。

 

 このうち[B]について補足する。文例30のように「中断」があると思われる場合でも、それが感情の状態をあらわすときには、「中断」したかどうかも現実世界の問題であるというよりは解釈の問題であるということができる。つまり、現実世界の動きがどうであるかということとは別に、話者が表現しようとする視点を移動させることによってその動きを認知する作業が途切れてしまうと、進行継続相も完了相も使うことができず、途切れ相が使われるものとおもわれる。これは、上に<現在に対する後退性>の用法としてあげた「テいた」の文例 5〜 7に典型的に現れているものと同じである(9)

 

 アスペクト対立のなかに置かれた「テいた」が知覚・思考・心理状態を示す動詞につくときには、[B]の用法になると思われる。また、有情物を主語にする意志動詞につくときでも、つぎのように[B]の用法であるとみられるものがある。

  [2]の用法の一部は従来、「タ」の叙想的テンスといわれるはたらきであるとして説明されてきた。そこで、以下簡単に、叙想的テンスといわれるものの類型と「テいたところ」における「テいた」の性格との関係をみておきたい。

  

4 叙想的テンスの「タ」と途切れ相の「テいた」

 

−1.叙想的テンスに関する先行研究

 

 寺村(1984)増岡(2000)は、現在の事態を表現していると考えられるにもかかわらず「タ」が用いられる文での「タ」の用法を「叙想的テンス」と呼んでいる。

 増岡によれば、この叙想的テンスの「タ」は、次の6種類に分類される。

 このうち、認知作用による途切れ相の「テいた」文は、

などのa.に属するとされるものと類似しているようにみえる。これと、

のような「テいた」文は、ともに「タ」が使われていながら、現在の状況を説明している点が類似している。

 

−2.叙想的テンスと途切れ相との相違点

 

 しかし結論から言うと、文例36は叙想的テンスに含めるべきではないと考える。なぜなら、まず前述したように、一般的に叙想的テンスの「想起・発見」の用法とされる文例 8935などは「テいたところだ」に書き換えられない。次に増岡(2000)も指摘するように、これらの文例は、あきらかに過去の状態について言及しているのではないことがわかっているという前提で、以前から「想定」していたことと現在の事実とを関連づけ、想定がただしかったか、まちがっていたかを述べる形式であるのに、文例36には、そのような基準時以前の「想定」は関係せず、むしろ「思っていた」ことが、その後に明らかになる事実によって中断・変容することを示している。関連づけることがらへの時間の向きが反対なのである。

 叙想的テンスが、タ形が本来表示するテンスとは異なるテンスに属することがらを表現することによって、上のような特殊な意味を帯びるものであるのに対し、「テいたところだ」に見られるような途切れ相の「テいた」は、もともとテンスの対立が中和され、アスペクト対立のなかに置かれたときに生じる表現である。アスペクト対立のなかで、「テいた」は<途切れ>をあらわす。ここでの「テいた」は、現実世界では「テいる」の継続相としてとらえられるものを叙想的に「テいた」のアスペクト的な働きである<途切れ>によって表現することによって、実際には中断していないものを中断しているかのようにとらえたものなのである。

 

V.おわりに

 

 冒頭に述べた問題にもどろう。文例 1の「していたところ」は、学生たちが教師の話をしているという動作の継続が、その教師が入ってきたことによって<中断>されたことを表すので、「テいるところです」よりも「テいたところです」の文にするのが適当なのである。この文例でいえば、外部からの力による<中断>という現実世界の事態を反映しているので、「テいたところだ」の表現は叙実的である。

 一方、「思う」「言おうとする」「感じる」などの用言に「ところだ」がつく用例を調べると「テいたところだ」という形態をとっていることが非常に多いのは、そのように「思った」「言おうとしていた」「感じていた」ということが話者本人にしか認知できないことであり、現実世界の問題としてはそれらは断続的に実現されているものの明示的な結果をもたらさないからである。このような思考や感情の働きは、もともと切れ目がはっきりとしないものである。そこに切れ目を与えるのは話者の認知的な作用としての切断によるほかなく、発話することによって、<途切れ>がもたらされるという性格をもっている。このような<途切れ>を表すために「テいたところだ」の形式が使われるのだが、こうした認知的な作用としての「途切れ」は継続性に叙想的な切れ目をつくるものだといえる。その意味で、これらのタイプの「テいたところだ」文は、叙想的なアスペクト形式であると考えられる。

 

 以上のことをふまえ、この論考の結論を次の4点にまとめておく。

 

 


【注】

(1)工藤(1995)による「(動作)パーフェクト」の定義は、以下のとおり。

(2)もし、次のような<現在パーフェクト>を現在のテンスであとして分類するのであれば、これらの「テいた」文も現在のテンスとしての用法であると言うべきではなかろうか。

なぜなら、この文において「その話を聞いた」のはあきらかに過去における事態であるにもかかわらず、工藤がこれを<現在パーフェクト>と呼ぶのは、その設定時点が現在であるからに他ならないからである。

(3)「テいる」形が一般に「結果の残存」と呼ばれる状態をあらわす動詞は、従来「瞬間動詞」とよばれることが多かったが、藤井(1966)吉川(1973)はこれを「結果動詞」と言い換えている。

(4)叙想的な<想起・発見>の用法では、「タ」につく用言が状態性でなければならないという条件がしられている(寺村1984 ; 増岡 2000 など)。しかし、これは「テいた」が接続しうる動詞であれば、a.−テいた の形で状態性になっているのだといえるわけだから、「テいた」に前接する動詞としては特段の制限はないということになってしまう。

(5)「寝ていたところです」などの例があり、動作や変化の進行の継続ではなく、主体変化の結果継続であると言うべきであるが、「寝る」の例でいえば「今夜から明日の朝まで8時間寝る」というように、これらはル形であっても結果継続の期間を表す語と共起する動詞である。このように進行の継続であると言えない場合でも、単なる「結果の残存」ではなく、主体による行為の少なくとも発話時の直前までの継続を表しているとは言えるのである。

(6)なぜなら文例12のような<反事実>の用法はある仮想的な条件下で現実性をもつ事態を表しており、一方<現在に対する後退性>の用法も、事態の効力が現在にかかわり、事態そのものも完全に終了しているとはいいきれないものを「タ」で表すという特徴をもっているからである。両者は現在の状態に対する“みなし”を含んでいるという意味での共通点がある。

(7)<現在に対する後退性>には叙実的なものと叙想的なものがあるとおもわれる。W章参照。

(8) また、「…α…テいたとき…β…」という文型と「…α…テいるとき…β…」という文型の文例を比べることからも、上述の「途切れ相」は「テいた」という形式がもともと持っているアスペクト的性格であるということが検証できる。前者はβによってαの表す状態の進行が妨げられることを示している文例が圧倒的であるのに対し、後者は「とき」が「場合」の意味に解釈できる文がほとんどである。両者の文例をひとつずつあげておく。

(9)文例5〜7と同様の例であるが、

    ・(デパートのショーウインドーをみて)
    あの服、涼しそうですね。ちょうど あんなのがほしいと思っていたんです。

ここでは、「思っている」という「事態」そのものには変化がなくても、話者の視点が、「ほしいと思う」という段階から「買おうかどうか」という段階へと移動している。このような認知的な切断が、「テいた」による表現をもたらしていると思われる。次の例文は、このような認知的な切断がみられない場合である。

 


【文例の出典】

・『日本語文型辞典』 くろしお出版 《ジ》
・『アスペクト・テンス体系とテクスト』 ひつじ書房 《ア》
   (同書から引用した例文の出典)
     「殉国」   三島由紀夫
     「愛について」
     「たまゆら」 川端康成
     「女の一生」 
     「マリコ」  柳田邦男
・『新文化初級日本語』U 文化外国語専門学校 《ブ》
・「毎日新聞」の記事 《マ)
・インターネットによる検索 《イ》
・「NHK」テレビニュースから採取 《ニ》


【参考文献】

[ 1] 奥田靖雄   1977「アスペクトの研究をめぐって−金田一的段階−」
                      『国語国文』8 宮城教育大学
[ 2] 川越菜穂子  1995「トコロダとバカリダ」
           『日本語類義表現の文法』上 単文編 くろしお出版 所収
[ 3] 工藤真由美  1995『アスペクト・テンス体系とテクスト』 ひつじ書房
[ 4] グループ・ジャマシイ 1998『日本語文型辞典』 くろしお出版
[ 5] 寺村秀夫   1984『日本語のシンタクスと意味』U くろしお出版
[ 6] 藤井正    1966「『動詞+ている』の意味」
                『日本語動詞のアスペクト』 むぎ書房 所収
[ 7] 藤城浩子   1996「シテイタのもうひとつの機能」『日本語教育』88
[ 8] 増岡隆志   2000『日本語文法の諸相』 くろしお出版
[ 9] 松田文子   1998「眼前事態描写における「タ」の機能」『日本語教育』97
[10] 吉川武時   1973「現代日本語のアスペクトの研究」
                『日本語動詞のアスペクト』 むぎ書房 所収