(2000年11月3日から)

               부산대
2000 일어일문학과 세미나 (
경주)

「財布、おちましたよ/おちていますよ」

アスペクト・テンスの韓日語対照-その相違点は何か

발표일 : 2000년11월4일 
발표자 : AKIZUKI-Yasuo 

はじめに

      本稿は、韓日語対照研究の講座での発表のために準備した原稿をもとに日本語と韓国語が、実際に どのような場合に どのような形式で どのようなテンス・アスペクトを表しているかをなるべく具体的に検討するなかから、双方の ことばの不一致点と思われるものをとりだし、それぞれの ことばの特徴をかんがえる参考にすること、さらには日本語教育あるいは韓国語教育へ寄与することをもくろんでいる。近年、日本語に関しても韓国語に関しても、テンス・アスペクトに関する研究は非常に進んでおり、あえてそれに愚考をつけたすにはおよばないことは、いうまでもない。けれども、専門の研究は形式の比較と事例の一般化・理論化に努力のおおくをついやしており、言語教育の分野では一つひとつの事例の説明におわれて、学習困難な問題を体系だった理解にもとづいて解決するための方案がいまだ提出されていない部分がおおい。本稿はいわば、その間隙をねらった“スキマ論考”であるが、すこしでもその役をはたすことができればさいわいである。

 

1.本稿での「時制」と「アスペクト」の意味

 時制というのは元来は、屈折言語において動詞の屈折形式のなかで時間にかかわるものがしめしている機能をあらわす範疇であった。したがってその意味では、ある述語が、それがあらわす時間に関係して一定の形式をとるとき、その形式をその言語における「時制」とよぶことは、あながち まちがっているとは言えないかもしれない。しかし、韓国語にしても日本語にしても、屈折言語のように述語動詞が主語の人称、単複、性、時制、相などの範疇によって、それぞれ体系をなして規則的に変化するとみることは困難である。また、それらの変化形のなかから、「時制」の要素だけをとりだし(他の要素を捨象し)てその性質をみたり、「アスペクト」の要素だけをとりだして考察するということは、はじめから不可能であるといわなければならない。すくなくとも両語において、「時制」をになう要素と「アスペクト」をになう要素が画然と区別されていない以上、ある形式を「○○時制」であるとか「○○相」であるとか、あらかじめ決定したうえで、それらの形式が実現する「時制」なり「アスペクト」なりを論ずるのであれば、そうした研究はいきづまってしまう。であるから、ここでは「時制」「アスペクト」ということばは、もっぱら自然時間の軸のうえで発話時と発話の基準時、それと述語のもつ時間との関係において つかうことにしていきたい。であるから、便宜上「非過去形」「過去形」「~テイル形」などのいいかたをするにしても、それらがひとつの「時制」なり「アスペクト」に対応するものだとみてはいけない。であるから、ここでいう「時制は、たとえば「日本語には未来時制がない」というときの「時制」の意味とはちがう。ここでいう「時制」にしても「アスペクト」にしても、それらは、ある現実の文があれば、その文が、かならずもっているものである。どのような文も、なんらかの時制やアスペクトをもっている。(この場合、「超時」であるとか「無アスペクト」とかの概念も、時制やアスペクトの一種だとかんがえる。)そして、それら現実の文の、どのような形式が、どのような条件で、どのような時制・どのようなアスペクトをになうことになるかを考察しようというのである。

2.文法の時間と自然時間

 従来、時制とアスペクトが混同されがちであったことには、いろいろな理由がある。その根本には、文法形式として通常、もちだされることの多い{過去・現在・未来}の3分類が、物理時間の構造とは一致していないという事情がある。

 

 

 そこで、いちばん問題になるのは、非状態動詞における「現在」である。時制がアスペクトとからむのは、そこにはじまって、「過去」「未来」におよんでいる。そのようすをつかむため、ここでは、かりになづけた「現在形」「過去形」「未来形」の順に、形式と それがになう「時制」とのずれを考察し、これらの形式の対立が時制でなくて「アスペクト」や「ムード」にかかわっている局面を概観する。

3.「アスペクト素性」について

 日本での国語学、日本語学では現在、「すル」と「しタ」の形式にアスペクト・ムード的な要素とともにテンスの性格も認める見解が普通になっている(たとえば、鈴木重幸 1958)が、それを動詞自体がもっている素性に従った分類をふまえながら、はじめて詳細に展開したのが金田一春彦(1955)である。
 金田一によれば、述語の叙述形は、その種別により各時制形式で主に次のようなテンスを担う。

さらに金田一は、上の表の「テイル形」の有無と性格によって、つぎのような4分類をした。

 この金田一の分類は、動詞をまず、「テイル形」を{とらない・とることができる・いつもとる}という基準で分類し、そのうち{とることができる}の項についてのみ、「テイル形」が動作の進行相を表すかどうかによって下位分類したものである。この分類は今ではおおくの批判をうけているが、その一方で「継続動詞」「瞬間動詞」という用語は一種の述語として定着した感がある。この金田一の分類がひろく受け入れられた理由は、動詞の性格による項目分類が「テイル形」の現れかたに対応しているという点で分かりやすかったことによるだろうと思われるが、同時にそれがこの分類の欠点でもある。金田一が、「テイル形」が動作や作用の持続相を表しうる条件が動詞の表す動作や作用が継続することだとかんがえたのは理にかなっている。しかし、そのことは、「テイル形」が動作や作用の結果の残存を表しうる条件が動詞の表す動作や作用が瞬間的だということにはならない。奥田靖雄(1977)らが指摘しているようにその条件は別にあり、「動詞が主体の変化をもたらすかどうか」という点なのである。
 そこで、藤井正(1966)や吉川武時(1973)のいうように、金田一の分類の第2種・第3種にあたる部分は項目分類ではなく、十字分類として示されなおされなくてはならない。

すなわち、「継続動詞/瞬間動詞」という分類は「テイル形」が進行相をあらわしうるかどうかの基準であるが、「テイル形」が結果残存相をあらわしうるかどうかの基準は、それとは別に「結果動詞/非結果動詞」として たてられるべきなのである。奥田(1977)は、これを「主体変化動詞/主体動作動詞」といいかえ、さらに「継続動詞/瞬間動詞」の区別を廃止する方向へとすすんでいるが、その当否はここでは問わず、「結果動詞/非結果動詞」のかわりに「主体変化動詞/主体無変化動詞」ということを提案したい。主体に変化がもたらされるからこそ、「テイル形」が主体の状態に「結果の残存」をもたらすことができると考えるのは、理にかなっているからである。
 さて、上の表で、[b]は金田一の分類でいう「継続動詞」、[c]は「瞬間動詞」である。この十字分類の表がすぐれているのは、「テイル形」が文脈により持続相も結果残存相も表しうる動詞の存在に対応した場所[a]をもうけていることである。これにより金田一の分類による説明がもたらす矛盾は回避されのだが、それでは、これらの いずれでもない[d]の動詞群は何を表しているのだろうか。これらは、通常「テイル形」がつかわれることはなく、しかも「状態動詞」ともいえない動詞群である。「状態動詞ではない」というのは、それらが終止形で現在をあらわさないからである。かといって、その動作・作用が進行中にそれを意識することがないような種類の動作・作用であるために、持続相をとることもないのである。金田一の分類では、これらの存在は無視されていたというほかない。

 以上のことから、動詞をえだわかれ式に分類するのではなく、交差分類することの長所があきらかになったと考える。そうだとすれば、この分類結果を「継続動詞かつ主体変化動詞」など呼ぶことは、ことばを無意味に長くし理解のためにも便利であるとはいいがたい。そこで、このような交差分類による動詞の属性表示のためには+/-による素性表示が簡便である。以下の考察では油谷(1978)の整理にしたがい、以下のような方式をとろうとおもう。

これらの素性表示は、実際に終止形が現在をあらわすか、「テイル形」がどのようなアスペクトをあらわすか、という事実から決定される。したがって、それ自体は一種のトートロジーであるといえるかもしれない。しかし、いったんこのような素性表示によって動詞を分類してみたうえで、そこにつけられた素性表示と、わたしたちが直感的に感じとる動詞の意味内容とにズレがある場合には、そのズレ自体が研究対象になりうる。また、本稿の目的である韓日語対照をおこなうための準備作業としてかんがえると、この方法による分類は韓国語の動詞のアスペクト素性を整理するためにも、同様の基準で客観的におこなうことができるものであるから、その準備作業としては有効性が高いものであるだろう。

 

 

 

4.時制にそった対照分析

 以下、日本語のテンス形式とみられる非過去形、過去形、未来をあらわす形式にそって、実際にそれが表現しているテンスやアスペクトに注意しながら、おもに韓国語のいわゆる現在形、過去形、未来形などの分析をつきあわせて、相違点をみていきたい。

 

4.1. 非過去形

 -u/-る : -다/-는다

    41) 庭に桜の木がある。          42) 마당에 벚꽃 나무가 있다.
    42) 学生たちが運動場に
いる。     43) 학생들이 운동장에 있다.

 日本語の状態性動詞は、終止形で現在の状態をあらわす。「ある・いる・要る・足りる・ちがう・信じる・思う」などがそうである。これらに対応する韓国語の用言は形容詞であることが多いが、動詞の活用をするものもある。油谷(1978)によれば、朴勝彬(1935)は韓国語の用言を「存在詞・指定詞・形容詞・動詞」に四分類した。現在の学校文法では、存在詞のうち있다と없다は形容詞に、계시다は動詞に含まれる。指定詞は認定しないようである(韓国で出版されている辞書によれば、「-다/이다」は「助詞」となる)。このように用言は形容詞と動詞に集約されるが、問題がないわけではない。動詞型の活用をするもののなかでも、油谷(1978)でいうA類「느끼다・믿다・알다・살다・모자라다など」B類「모르다・(약이)듣다・계시다など」は[+상태]であり、φ形で現在の継続相を表す。A類は「-고 있다」形式とφ形で、アスペクト上の差異が認められず、B類には「-고 있다」形式がない。なお、日本語では、「知る・住む」は「テいる」をともなわないと現在の継続相にならない。

 『韓日語對照分析』(1977 명지출판사)には、つぎのような記述がある。

 しかし、日本語でも、未来への意志を表すためには「~すルつもりだ」の形式をつかうことができるので、「すル」で言い切る形式が韓国語よりも強い意志表現を包含している形式だと、ただちに言うことはできないだろうと思う。また同書には、

    43) いま本を読んでいます。     44) 지금 책을 읽고 있습니다.
    45) まだ雨が降っている。       46) 아직 비가 오고 있다.

とある。しかし、韓国語では同様の意味で、

も可能ではないだろうか。伊藤(1989)は、用例を示した上、以下のようにまとめている。

4.2.過去形

-た(-だ) : -었/-았-/ㅆ

 『韓日語對照分析』(1977 명지출판사)には、つぎのような記述がある。

 この点には、くわしく検討するといろいろな問題があり、それぞれに両方の用法があるからといって、簡単に「同一である」といってすませることはできない。日本語学習のごく初級段階であっても、次のような、両語の差異に基づく習得の困難や誤用が発生しやすい基本文型が存在する。

ここでのCの発言は、53), 54)ともに「~ませんでした」「~なかった」にすることができないが、韓国語であれば「안 -었습니다.」「안 -었다」の形式で言えるところであろう。53), 54)の会話全体が単純過去のテンスのものではなく、現在のテンスにおける完了相(パーフェクト)のものであることは、

と対比してみれば明らかであろう。つまり、日本語の「-た/だ」は、テンスとしての過去を表したり、現在における完了相を表したりするが、現在における完了相を表すことができるのは、肯定形に限られている。これは実用会話のなかでもしばしば問題にされる韓国語との違いである。

 さらに、肯定形であっても、「-た/だ」が現在における完了相を表しうる条件は、韓国語に比べると制約が厳しいようである。越生(1997)によれば、

越生(1997)があげた若干の例文と、より簡潔に要約された結語を、示しておく。

 この見解をふまえて考えると、以下のような現象も説明できるかもしれない。

    60) Aが、会って間もないB、Cに向かって
       A「あの、失礼ですが、結婚はされ
ていますか?」
         -B「ええ。わたしは結婚し
ています。」
         -C「いいえ。結婚はし
ていません。」

    61) Aが、学生時代の友人であるB、Cに久しぶりに再会して
       A「ひさしぶりですね。もう結婚し
ましたか?」
         -B「ええ、3年前に結婚し
ました。」
         -C「いや、わたしはまだ結婚し
ていないんですよ。」

これらの下線部分は韓国語であれば、すべて「(결혼)했습니다 / 했다」の形式でしめされるところである。しかし、日本語では60) の状況では、Bが結婚していたとしても、それをAは結婚する場面から、その結果としての現在の状態までを一つの出来事として観察できる立場にいなかったことが明確である。それに対して61) の状況であれば、すべてをしりえないとしても、独身時代のBを知っているAは、そのBが結婚することによって現在は既婚者となったということを一続きの過程として感じることができる。日本語の表現においては、この60) と61) の差が重要であるが、「そもそも結婚するという過程を経なければ既婚者にはならない」ことが論理的に明らかであれば、その過程における場面に立ち会わなくても、行為の結果による状態であることを示す完了相(パーフェクト)の表現様式を選択する韓国語では、この違いは意味をもたない。したがって韓国語の「결혼하다」は油谷(1978)のD類[-状態, +瞬間, -結果]に属する動詞となり、그치다, 느끼다, 다치다, 닮다, 미치다, 반하다, 보태다, 부치다, 식다, 입학하다などと同じく -고 있다の形式も -어 있다の形式ももたないのだと かんがえられるのである。(なお、油谷は、3.に掲載した 吉川 1973 の表を引いて、日本語では「目撃する」「失恋する」などが類似の性格をもっていると書いている。)

 さて、日本語の過去形は発話時現在の時点を表現していることがあるけれども、韓国語でも同様の例をみいだすことができる。『韓日語對照分析』にはつぎの例文がある。

 ここでの(14)は、‘確認'、(15)は‘気づき'の用法。ただし、(15)の韓国語は誤訳しているようである。
 伊藤(1990)から、韓国語の過去と非過去の対立があいまいになるとされている文の類型で、これら以外のものをひろってみると、‘反問'‘はじめての行為'‘現時点までの数量的到達'‘意志決定の成立'などがある。これらは、だいたい日本語も「-た」形が対応するようである。対応しないものを『朝鮮語辞典』 1993 の「-었」の項でさがすと、以下のとおり。

    62) 부산은 아직 멀었어요?  釜山はまだだいぶ先ですか。
    63) 너는 이제 큰 코 다쳤다. お前はたいへんな目にあうぞ。(断定的な未来)
    64) 아차, 죽었구나.       わあ、もう駄目だ。(断定的な未来)

そのほか、생겼다, 묻었다, 다쳤다, 틀렸다に注意するように書かれている。また、単に 「にている」というだけでは不十分であり、どういう条件で過去形が現在をしめしているのかを用法と語彙の面から究明しないと いけないが、それについては いまは おいておきたい。

 ところで、『韓日語對照分析』には

 (16)は「よんでいただろう」のほうが自然。「よんでいる」と「읽었다」(읽고 있다ではない)の対応が、そのまま過去になって あらわれている。「だろう」は「겠」の部分に対応しているのだから、教科書の下線のひきかたは理解に苦しむ。また、(16)も(17)も過去に対する推量や、現在までに完了していることの推量であって、「過去未来」の用法とは違うようにも思われる。

 

4.3. 未来の表現

…だろう(推定 推量) : -겠-

 『韓日語對照分析』から例文をひいてみる。

    65) 彼は、明日行くだろうが、   66) 그는 내일 가겠지마는 ←単純な未来
         
失敗するだろう。         실패할 것이다. ←話者の推定
    67)                68)     
가겠다.   ←明確な意志
      私は、明日
行く。         나는 내일
                            
간다

67)については、「行くつもりだ」という「明確な意志」をしめす言い方もある。

    69) これを開けたら喜ぶだろう。  70) 이것을 열면 기뻐할 것이다.
    71) 明日も天気が
よかろう。    72) 내일도 날씨가 좋을 것이다.
    73) そんなことは
あろうはずがない。74) 그런 일은 있을 리가 없다.

 しかし、「天気がよかろう」は老人語か、で、なければ文語。「あろう」も、慣用的に使う以外は口語的ではない。「~だろう」を未来表現に否定することには無理があるようである。

    75) 今年の夏は北海道に行こう。  76) 금년 여름은 복해도에 가겠다.
    77) これからしっかり
やろう。   78) 이제부터 착실하겠다.

 これらの日本語の部分は、独り言を言う以外には、「話者だけの意志を表す」ことはない。勧誘や激励に使う形式である。むしろ、「-う/-よう」形は、無意志動詞とむすびついて、未来をあらわすことがある。

     79) あしたは雨が降りましょう

は、最近でも天気予報で使われている言い方である。

5.アスペクト(aspect)

 以下、日本語のアスペクト形式とみられる「~て いる」、「~て ある」の形式にそって、実際にそれが表現しているテンスやアスペクトに注意しながら、おもに韓国語の「-고 있다」 「-어 있다」などの分析をつきあわせて、相違点をみていきたい。

 

5.1.「~て いる」の形式

…て/で いる : -고 있다
            -어 있다

 『韓日語對照分析』では うえのような対応が示されたうえ、つぎのように例文が整理されている。

 [ㄱ] の動詞は、「あるく、はしる、およぐ、なく、たべる、よむ、(風が)ふく」など。油谷(1978)によるアスペクト素性は[-状態, -結果, -瞬間]。

 [ㄴ] の動詞は、「着る、かぶる、(ズボンを)はく、(めがねを)かける」など。再帰性の他動詞で、アスペクト素性は[-状態, +結果, -瞬間]。「~て いる」「-고 있다」が それぞれ二種類の意味をもちうる。

 この分類には出てこないが、同じ[-状態, +結果, -瞬間]のアスペクト素性の自動詞もある。日本語では、「浮きあがる、かわく、変わる」などで、やはり「~て いる」が二種類の意味をもつが、韓国語では、このタイプの自動詞の場合、「-고 있다(進行の継続相)」「-어 있다(結果の存続相)」の対立があり、両方の表現が存在しつつも、互いに異なった意味をあらわす。ただし、韓国語でこのグループになる솟다, 차다, に対して、日本語の「そびえる、あふれる」は[+瞬間]としてあつかわれるようである(金田一 1955 の「第4種の動詞」)。

 [ㄷ] の動詞は、韓国語では「-어 있다」をつかって「結果の継続相」を表せる自動詞で、「-고 있다」は使われないか、使われても反復相に解釈される。日本語では、「~て いる」が「進行の継続相」にはならず、「結果の存続」を表す。アスペクト素性は[-状態, +結果, +瞬間]。「すわる、たつ、倒れる、行く、着く、死ぬ」など。ただし、前述のように日本語の「行く」はここに含まれても、韓国語の「가다」は含まれない。なお、これらの動詞も、「~つつある」を使えば、無理やりにでも「進行の継続相」にすることができなくはない。

 この分類には出てこないが、同じ[-状態, +結果, +瞬間]のアスペクト素性の他動詞もある。日本語では、「かかえる, おぶう, くわえる, だく, もつ, にぎる」などで、やはり「~て いる」は「進行の継続相」にはならず、「結果の存続」を表すが、韓国語では、このタイプの他動詞の場合、「-고 있다」が「結果の存続相」をあらわし、「-어 있다」の形式は使われない。韓国語では「가지다, (눈을) 감다, 맡다, 의존하다, 의지하다, 잡다, (책임을) 지다, (열차를) 타다」などがこのグループにはいる。(이기다 지다 は?)

  さて、この『韓日語對照分析』には、

とあるが、油谷(1978)らの研究によれば、これは不正確である。まず、韓国語では「-어 있다」は自動詞にしか使われない。したがって、他動詞では「結果の継続」を表すのに「-고 있다」が使われることがある。「-고 있다」が「結果の存続」を表しうる他動詞は、「再帰性の動詞」とよばれる。なぜなら、「結果の存続」相をとる動詞は主体変化を伴わなければならず、他動詞が(客体でなく)主体の変化を伴うということは、そこに何らかの再帰性がなければならないからである。浜之上(1992)は以下のように整理している。
 

 

例文をつづけよう。

 経験を表す日本語の「~て いる」は、(7)のように、韓国語で「-고 있다」と言えるか、疑問であるが、回数をあらわしているときには、反復相としての用法が対応するようである。

 

5.2.「~て ある」の形式

-て/で ある : -어 있다

  「-て/で ある」がアスペクトとして「完了」後の結果の存続を表していることは、つとに指摘されているとおりである。しかし、問題は、それと「-て/で いる」との違いではないだろうか。5.1.で見たように、「-て/で いる」も「結果の残存」を表すことがあり、それは他動詞であることもしばしばであった。それと「-て/で ある」とは、交換可能でないことはいうまでもない。おなじ「結果の残存」をしめしながら、両者は相補的な分布をしている。
 多くの研究が示していることは、「
-て/で いる」が「結果の残存」を表すことができる動詞は、主体変化をおこす動詞だと言うことであった。主動詞の主体が動作によって変化した状態が持続していることを「-て/で いる」が表すからである。
 これに対し、「
-て/で ある」は、主動詞の主体の状態をあらわさない。教科書の例文にあるのは、すべて主動詞の対象語となる客体の状態を示しているものである。

 多くの場合、「-て/で ある」は主動詞の客体が、動作によって変化した後の状態が持続していることを表しているが、そういう場合には、「-て/で ある」がつくことによって格のいれかえがおこっていることも観察できる。すなわち、「-て/で ある」には、アスペクト表示とともに受動態をつくる機能と同等の機能があるのである。

  『韓日語對照分析』には、

とあるが、以上の考察により、この記述は不十分なので訂正されなければならない。この本のここでの「-て/で ある」の例文は、すべて、主動詞の動作の客体に生じた状態変化の変化後の状態の持続をしめすものである。したがって、「-て/で ある」は動詞の受動化の機能も果たしており、実際、対応する韓国語で、「 -어 있다」がついているのは、「-て/で ある」の主動詞に対応する韓国語の動詞ではない。すべて、それらの被動詞についているのである。

 「-て/で ある」が格のいれかえをおこさず、かならずしも主動詞の客体の状態を表さないこともある。しかし、その場合でも、主動詞の主体の状態を示すことはない。一般に、そういう場合は、なにかに対する「準備」が完了したという意味を表していると、いわれている。

 原沢伊都夫(1998)は、このような「~て ある」の構文を「能動型」とよび、「を→が」変換をともなうものを「受動型」とよんでいる。そして、つぎのように整理した。

同論文から例文をあげておく。80)~92)は能動型である。

能動態の「~て ある」文は、「~て いる」にかえても文が成立することがあるが、前者は意図的な行為の結果、その意図にそった結果が残存していることをしめすのに対して、後者は単に行為の結果がそこにあることをしめすだけで、「意図」性の有無によってつかいわけがされている。ただし、「~て いる」が持続相をあらわすときには、「~て いる」に対するこのような制約はなくなる。「~て ある」は持続相をあらわさないからである。 

以下、以上の説明が検証できる例である。

つぎは受動型である。受動型の場合には、「~て ある」が つかわれている他動詞に対応する自動詞が あるばあいには、その自動詞をつかって「~て いる」構文をつくって いいかえられる場合があるが、ここにも「意図性」の有無によるつかいわけがある。

ただし、この対立は、対応する自動詞がない場合には、中和される。

 

 

 

 

 参考文献
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 よしかわ たけとき 吉川 武時 1973 現代日本語のアスペクトの研究
                   『日本語動詞のアスペクト』 1976 むぎ書房 所収
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                                    宮城教育大学「国語国文」8号
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                             第10回日本語教育学会研究集会研究発表要旨
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                        -結果状態形との関係を中心に- 
                       「日本語と外国語との対象研究Ⅳ
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 しょうがくかん  小学館   1993 『朝鮮語辞典』 韓国 금성출판사 共同編集
                        編集委員 : 湯谷・門脇・松尾・高島        小学館
 くどう まゆみ  工藤 真由美 1995 『アスペクト・テンス体系とテクスト -現代日本語の時間の表現-』
                                               ひつじ書房
 はまのうえ みゆき 浜之上 幸 1992 現代朝鮮語の「結果相」=状態パーフェクト
                        -動作パーフェクトとの対比を中心に-
                                     「朝鮮学報」Vol.142(日本語)
 はらさわ・いつお 原沢 伊都雄 1998 テアル形の意味-テイル形との関係において-
                                 「日本語教育」98号 日本語教育学会
 


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おたよりは ここに かきこんでください 

 空欄があれば送信しない
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