(2000年11月4日から)

日本近代文学ゼミ 〔泉鏡花〕 

『春昼』『春昼後刻』

                  2000.10.25.  
                  AKIZUKI-Yasuo  

 −−−−−−−もくじ−−−−−−−−
   背景・あらすじ
   幻想が現実世界に残した足
   「女」の非対称性
   「女」の分裂をもたらしているもの
   喪失感による社会の捕捉
   ふたたび母性と娼性について
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背景・あらすじ

 『春昼』『春昼後刻』は、鏡花三十三歳、明治39(1906)年の作品である。鏡花は前年の夏より、健康を害し、転地療養のために逗子に越している。逗子での療養は2回目であり、その中間に、伊藤すゞを芸妓から落籍させての同棲、師・紅葉の死、すゞとの婚姻などの事件が はさまっていた。両作品はそれぞれ十一月、十二月に雑誌「新小説」に発表された。このころ、鏡花は李長吉の詩に親しんでいたという。

 『春昼』『春昼後刻』は、つづきものの小説である。以下、脇明子による簡潔な あらすじの要約がある(『幻想の論理』P.99〜103)ので、それを取捨選択しながら参考のために まとめておきたい。

 前後篇を通じて、主体は一人の散策子である。一応三人称の形ではあるが、情景などは、すべて、いったん彼の眼を通過したものが描かれている。『春昼』の はなしは、以下のようである。

 冒頭、暖かで、のどかというには濃密すぎるような春の日、逗子郊外を歩いていた散策子は、一匹の蛇が道のほとりの屋敷に入るのを見て、畑に出ている爺さんに一言注意する。この蛇のエピソードにはじまり、一面の菜の花の中に別の蛇を見、行く手からやってくる馬にたちすくむ。やがて、目的の寺につき、石段を上り、本堂に入って、一面の巡拝の札のなかに「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき  玉脇みを」というのを見る。そこへ、寺の出家がやって来て世間話をはじめ、この歌に迷って死んだ一人の男について語るのである。
 死んだというのは、この寺の庵室の客人、散策子と似た若い書生であり、彼が恋わずらいで死んだ相手は、歌の主の玉脇みを、土地の資産家の妻である。その家がさっき蛇が入っていった屋敷と聞いて、散策子はぞっとする。客人は道でみかけた彼女の美しさにひかれて、出家にそのうわさをするようになった。何度か彼女を見かけるうち、彼はしだいに、彼女がその夫や夫のとりまきにいじめられいてるという妄想にとりつかれてゆく。ある晩、庵を出て本堂の方へ散歩に出た彼は、裏山の方で祭囃子がきこえるように思って山に入る。むこうの谷底になんとなく幕があいて、山の腹の横穴にたくさんの女が並んでいるのが見えた。その一人が寝衣姿で舞台に上ったのを見ると、玉脇の妻である。そのとき客人の背中から黒い影がスッと出て、彼女と背中あわせにすわったのを見ると、なんとそれは彼自身であったという。舞台の自分が指で△や□や○を書くのを見ていると、風が吹き、投げ銭がとび、どっと人声がして、とにかく夢中で逃げてきた。彼がそのいっさいを出家に語った次の日、玉脇の妻が寺へ来てうたた寝の歌を貼って行った(*)。客人にはそれも知らさぬよう、二、三日気をつけて見張っていたのだが、ちょっとのすきにいなくなって、木樵が裏山の横穴でみかけたきり、死骸は海でみつかった。

 『春昼』は、ここで おわっている。『春昼後刻』に入ると、ものがたりは散策子の うごきにそって展開する。

 散策子は庵を辞し、夢というものについて考えこみながらもと来た道をたどる。すると、道端の土手に、蛇のことを注意してもらったお礼を言おうと玉脇みをがすわって待っていて、彼は逃げることもできず、声をかけられてしまう。ここからの、あいまいさをふくむ彼女の話からはっきりした部分をひろうと、彼女には思いつめた相手があって、どうしても逢えないのだが、さっき家の中から見かけた散策子が、その人に似ているというのだ。死んだら会えるというなら死ぬのだがとも彼女は言う。彼女は暇つぶしに絵を描くためにノートブックを持っているが、散策子はそれを開いて、一面に○と△と□が書いてあるのを見て青くなる。そこへ、二人の角兵衛獅子が通る。女は二人に金をやり、ことづけたいものがあると言い、「君とまたみるめおひせば四方の海の水の底をもかつき見てまし」と書いて、幼い方の角兵衛にただ持っていればよいと渡す。角兵衛はそれを獅子頭に入れて去る。しばらくして、海岸に出た散策子は、さっきの二人が浜で遊んでいるのを見つけたが、その眼の前で「ことづけ」を持った幼い方は、溺れて見えなくなってしまう。翌日死骸があがったとき、それは玉脇の妻と二人いっしょであった。


  かくべゑ-じし【角兵衛獅子】カクベエ−
  〔名〕獅子頭を頭にかぶり、逆立ちなどをする旅芸
   人。越後から出て来て、正月などに舞い歩いた。
   =越後獅子ゑちごじし

  しし-がしら【獅子頭】
  〔名〕獅子舞に用いる木でつくった獅子の頭。また、
   獅子舞。

01.GIF

 

  (*) ただし、寺田透は岩波『小説・戯曲選』の「解説」のなかで、

  小野小町
  「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」
(古今集。恋二・553 )

  和泉式部
  「暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」
(拾遺集。哀傷・1342)

  和泉式部
  「君とまたみるめ生ひせばよもの海の底のかぎりはかづきみてまし」
(続集。980)

  李長吉(李賀)『宮娃(きゅうあい)歌』の末尾

幻想が現実世界に残した足

 鏡花の幻想は、現実世界と完全にきりはなされていない。現実と幻想の境目のあいまいな、ありうべき世界のなかに、合理的な解釈をうけいれがたい幻想がまじりこむ独特の世界をつくりだしているといわれる。
 いまこれを、つぎのように図示してみよう。

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 鏡花の作品にえがかれている女は、その幻想的なイメージを中心に語られがちである。しかし、男の体験する幻想のなかに登場する女たちの多くは、その幻想の世界を共有している部分のほかに、現実世界に余した“足”をもっている。また、そうでない場合には、それは語られないことによって存在の具体性をうばわれているかのようである。
 ある意味で幻想性をおびている以上、これは当たり前のことなのかもしれない。しかし、ここで2つの類型をたてることにも意味があると思う。まず、幻想のイメージのなかで登場する女がその輪郭と姿をもって描かれるときには、それは、ごく簡潔に、かつ暗示的に現実世界とのつながりが示される。一方、現実世界における存在が詳細に描かれる女は、現実世界にきしみが生じ、その場にあるものが魔性を帯びるはじめる(これを[異形]となづけよう)とき、そこにおかれた「女」も(この場合は「男」やその周囲にあるものも同時に)それまでの姿をかえる。それはなにか輪郭のあいまいな描写によって、小説のながれとしてみても唐突な展開とともにその不可思議な姿をあらわすのである。(その不可思議な姿が現実世界を離れてしまったときに見えるものを[虚影]となづけよう。)
 『龍潭譚』『高野聖』の「女」は前者の系列[幻影−外形]であり、『湯島詣』『註文帳』の「女」は後者の系列[異形−虚影]に属する。ただし、「観念小説」と称された『外科室』では、ただ奇怪な事件が描かれるだけであって、そこに物理を超えた世界を暗示させるようなものはなかった。ただ、現実世界のなかでの歪みをみせる場が準備され、豹変する「女」[異形]が登場しただけである。『妙の宮』での「女」は徹底した語りの不在によって暗示されるのみであって、現実世界に余した“足”など ないかのようである。それは社という幻想を媒介する中間的な空間から、さらに暗示をへた向こう側に「女」をおいている[虚影]。これが『清心庵』では、森と庵が幻想を媒介する中間的な空間であるが、摩耶夫人は、小説にながれている時間のなかでは、わずかにしか登場しない。そして、その人格もきわめてあいまいであるにもかかわらず、摩耶夫人は千ちゃんの語りをとおして組み立てられるイメージによって縁取られている。まさに人物としては人格をもたないがゆえに徹底して幻想を体現した存在として登場しているのだが、それはむしろ語りの不在によってこそ読者の想像力をかきたたせる描かれかたにおわっている。そして、その摩耶夫人は、同時に蘭が「御新造さん」として語る婚家での姿に現実世界での足をおいているのである。[虚影−外形]。そして、ここで“足”をおくという技法を得ることにより、鏡花は幻想の世界を暗示的にではなく、微細に描写しながらも、それを現実世界とは断絶した単なる空想のファンタジーとしてではない形で描くことができるようになったのではないだろうか。[幻影−外形]。一方、いわゆる“心中物”では『妙の宮』のスタイルが、現実世界と異界にまたがる「女」の登場をくわえながらが継承される。[異形−虚影]。そこでは幻想の中心部分はあえて語られないのである。
 いまこれを[異形−虚影−幻影−外形]という構造であると捉えると、[異形]と[外形]は、ともに現実世界のなかにあるが、目前に存在しているといえるのは[異形]だけである。これは、人物の豹変としても現れるが、多くは異界に足を踏み入れたことにより、場所の容貌が軋み始めることとともに訪れる。であるから、「女」自身が[異形]となるのではなく、周囲の環境が[異形]となることも含めて考えなければならないだろう。[虚影]と[幻影]は幻想世界のなかにあるが、[虚影]は[幻影]のようには意志をもって動かない。[虚影]は暗示によってつくりだされるが、同時に[幻影]の痕跡であることもありうる。その場合には、[虚影]は[異形]から[幻影]の世界を媒介する。[異形]は幻想への入り口であっても出口ではない。反対に、[外形]は[幻影]が現実世界に残した痕跡である。また[外形]は『高野聖』における村の伝承のように、物語がおわってから、はじめてその意味が明かされるものであって、それは入り口にはなりえない。
 こうしてみると、鏡花の作中の「女」は、[異形]の部分で「男」と交渉するか、[幻影]の部分で「男」と交渉するかによって、“心中物”か“怪奇物”かに分かれていくとみられよう。そして『清心庵』は“心中物”と同様の構造しかもたないために幻想そのものを描くことができなかった『妙の宮』の水準から真正の“怪奇物”が生まれるようにになるための中間的な作品であったのではなかろうか。

 ところで、こうして見ていくと、『春昼』『春昼後刻』は、いままでにないタイプの作品であることがわかる。まず『春昼』では、構造は、いままでにないものである。それは客人の見る幻想と、それに囚われてしまったための死で終わっている。しかし、「女」との交渉は、道ですれちがったという以外には何もなく、幻想のなかにおいても、客人は分裂した一方の自己(の姿)が、この「女」と舞台のような空間で象徴的な動作をするのをながめているだけなのである。いってみれば、この作品での「女」は[異形]として登場するのでもなければ[幻影]として登場するのでもない。それが登場する場は[虚影]という暗示作用がひきおこされる局面に限られているのである。さらに特異なことは、『春昼後刻』では、この「女」がみずから語り手になる。しかし、それは現実世界にいる散策子に向かっての曖昧模糊とした要領をえない語りであり、魔性を帯びているというよりは、むしろ魔性のぬけがらのような姿を見せている。つまり、ここで登場している「女」は[幻影]の女なのではなく、その[外形]にあたる部分なのである。

 

「女」の非対称性

 あらためて言うまでもないことだが、鏡花の小説は男の視点で書かれている。それは鏡花自身が男性であり、小説の読者もおそらく男性であるだろうと暗黙のうちに想定されているからに他ならない。それは何も、鏡花に限ったことではないだろう。[異形−虚影−幻影−外形]という構造においても、[異形−虚影−幻影]という段階は「男」が「女」に出会いに行く行程なのであって、多くのばあい、「女」はただ出現するだけである。小説の主体となる「男」、それは主体が聞き手の場合であれ、「女」の出現を追体験する順序が[異形−虚影−幻影]という構造をもっているだけであって、「女」のほうには、そのような丁寧なプロセスも、そこにいる必然性の説明もされてはいない。ただ、それは事後談であるとか舞台の背景であるとかのなかに痕跡[外形]として、そっけなく書かれるのに過ぎないのである。たとえば『高野聖』をみれば明らかなように、「男」が魔界へ足を踏み入れるのには正当な理由と順序と手続が必要であるのに対して、「女」はまるで、存在そのものが、はじめから化け物であるかのような書き方がされている。「女」が魔性を身につけるようになった過程は、ごくみじかい背景のなかに暗示されるにすぎないのである。
 しかし、[外形]があるということは重要である。鏡花は、幻想のなかの「女」を「男」の観念がつくりだした像としてだけで終わらすことはしなかったと言うことだからである。
 鏡花の描く「女」について、母性崇拝であるとか母胎回帰願望であるとか摩耶夫人信仰であるとか、無性的超自然であるとかのものに結びつけるのは、その「女」を「男」の願望なり幻想なりに映し出されてくる姿としてとらえたものではないだろうか。無論、鏡花は、その幻影としての姿を書くために、小説の大部分を使っている。しかし、もし、それだけでよかったのであれば、「女」に“足”[外形]をつける必要はなかったのではないか。あるいは徹頭徹尾、「男」の夢物語として、あるいは小説成立時の社会とかかわりのない時代背景における怪談として書いてもよかったのではないか。そうせずに、どこかでその時代との結びつきを保ちながら、そこに重なるように幻想を描いていった鏡花は、たとえ自分の分身が作者自身の母の喪失感をうめるために、幻想の世界にしかいない「女」を描いたのだとしても、

その「女」自身の主体はそれとは別にあるのだ、ということを担保としてとっておくことを忘れなかったというべきではないのだろうか。

 そこには、「男」の目に映る「女」と「女」自身とが一致していないという非対称性が明確に示されているのである。まさに、『湯島詣』において神月が蝶吉に別離を言い渡す場面にしても、『註文帳』において遊女が若き日の陸軍大将に心中を拒絶される場面にしても、その非対称性は明らかである。そして、それは幻想の世界に現れる「女」たちにしても、おなじかもしれないのである。

 ところが、『春昼』『春昼後刻』は、「男」「女」双方が別々に「夢」をみて、その「夢」のなかでの縁ゆえにそれぞれが死んでむすばれようとする話である。そして『春昼』が客人という「男」の物語であったのに対して、『春昼後刻』は玉脇みをという「女」の物語であるが、『春昼後刻』の「女」は、どんな「夢」をみたのか、まったくあきらかではない。そこには、美人であるという以外に人格もはっきりせず、精神医学者である吉村博任氏のいう「離人症」的な症状をみせていて、はなす内容もすじだてがはっきりしないままである。そもそも、『春昼』での客人が道ですれちがうときも、その幻想のなかに現れたときにしても、玉脇みをは積極的な動作をなにもしていない。玉脇みをの内面について知る手がかりとしては、蛇を恐れたこと、客人のことがあってからすぐ、病気で床につきがちであること、小野小町のうたを奉納したということ、そして、ノートにかかれた○△□などの記号、門付けを追い払ったこと、角兵衛をみて「私の児かも知れないんですよ」と言ったことくらいしかない。そのひとつひとつには象徴的な意味があるとはいえ、直接に何かを意図するという効果はおよそない。まさに、『春昼』『春昼後刻』において、玉脇みをは現実世界に[外形]をのこしながら、その現実世界の存在自体が記号化されている。
 しかし、まさにそれこそが非対称性を示していると言うことができるのではないか。客人が幻想した玉脇みをは、『春昼後刻』で散策子がみた「離人症」の玉脇みをではなかったはずである。であれば、論ずべきことは、はっきりしている。いったい客人と玉脇みをは、それぞれが無関係に生きており、無関係なまま、それぞれの回路を通じて幻想の世界に入っていったにもかかわらず、それらが一つの結果に結びついた理由は何なのかということである。

 

「女」の分裂をもたらしているもの

 ここで、現実社会での存在をちゃんと持っている「女」が、なぜ幻想世界に介在するようになるかということを論じようと思うのだが、ひとつ問題がある。はたして『春昼後刻』における玉脇みをは、『春昼』での幻想世界に介在したといえるのであろうか。客人は玉脇みをの幻想をみたが、玉脇みをは客人の幻想に出現したと言えるのであろうか。もちろん、何らかの形で、そういうことがなければ、玉脇みをのその後の行動は説明できないのであるが、かといって両者が同一の幻想世界に存在したのだと言う必然性もない。そのくらい、玉脇みをの存在は意志を感じさせないのである。
 わたしは、『春昼』の玉脇みをは、[異形]をみせることはなく、[虚影]としてのみ登場し、『春昼後刻』の玉脇みをは、[外形]にちかい存在であると思う。たしかに『春昼後刻』で玉脇みをは、散策子の目のまえで話をするのであるが、その様子は、すでに死んでいるようですらある。それは、これから事件をおこそうとする玉脇みをなのではなく、証言として事件の外形をのこしにやってきた幻影のようである。なぜなら、時間の前後はそうなっていなくても、散策子は、この事件を語る以外の役割を負っておらず、散策子が語っている時点を基準に考えてみれば、すべては過去のことになってしまうからである。
 そうすると、『春昼後刻』の玉脇みをは、ぬけがらだと考えなければならない。ぬけがらであるからには、その玉脇みをが幻影となったと考えることはできないが、それは同時に、ぬけがらになる以前の玉脇みをは、客人の前に現れることができるだけの魔性を持っていたということでもあろう。ただ、『春昼』で客人がみた玉脇みをは、[幻影]というには、あまりに意志をもたないものであった。それをかんがえれば、ぬけがらになる以前の玉脇みをの魔性とは、客人に[虚影]を見させる程度の暗示力だったのではないだろうか。(下図参照)

『春昼』『春昼後刻』

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 それでは、ぬけがらになる以前の玉脇みをが、結果的に客人の[虚影]と[外形]とに分裂してしまった原因はなんであろうか。それは、後追い自殺という結末をかんがえれば、玉脇みをもまた、客人の[虚影]をみたからだと解釈するほかはないだろう。だが、小説にその部分の叙述はない。したがって想像する以外にない。

 ただ、ここでも[外形]に注目することは重要である。「男」にうつる「女」と「女」自身との非対称性は、この[外形]に余された「女」の現実に集中しているからである。そこに注意すれば、この「女」が、にわか成金で多額納税議員の令夫人でありながら、その素性がはっきりしないということに気がつく。それは、この小説の舞台となっている逗子周辺の急激な変化を象徴するような新興勢力に囲い込まれた存在であり、その財産をもとにした権力によって、この地に連れてこられたのだということがわかる。
 美人であり、お金に不自由しない生活をしていながら、この「女」には、自己を分裂させざるをえない深刻な裂け目があった。冒頭の出家僧の話にでてくる李長吉の『宮娃(きゅうあい)歌』は、それ自体がこの小説のモチーフとかさなるところがあるが、ここに玉脇みをの<虐げられた女>という側面をみることができる。同時に、かのじょが、金持ちの御新姐という身分でありながら虐げられているというのは、もはや金というものが苦しい生活に安らぎをもたらすものではなく、地域共同体の生活意識を解体しつつ膨張へとむかっていく近代日本の流れにのって、みずからも外へと流れ出していく動きの一部になるという結果をもたらすものだという時代の状況と対応していたのだろう。時、まさに日露戦争直後であり、逗子海岸一帯は、海軍基地としてその容貌を変えつつあったのである。

 御新姐さんという地位と、[幻影]となって現れたときの<虐げられた女>のイメージ。そのギャップにこそ、玉脇みをが分裂してしまう理由があったのだろう。そのギャップをつくるものとして、鏡花は逗子の地形を巧みに利用しながらイメージの配置を行っている。そして、<虐げられた女>の部分が[幻影]となってのち、ぬけがらとなった[外形]は、「離人症」の症状そっくりのからっぽにちかいものであった。成金の夫人という地位は、心の状態におきかえれば虚無を意味していたのである。そうなってしまった理由は想像する以外にない。だが、[幻影]となった玉脇みをが人間としての一体性を回復しようとしたときにとった方法は、なにかを語っているかも知れない。客人の分身が△、□、○と寝衣の上に書いたとき、にわかに[幻影]は反応をしめし、艶やかに変身する。
 それは、こまかく分節化された言語を拒否し、意味づけのあいまいな世界を求める象徴として受け取れないだろうか。そうだとすれば、かつては、ことばにされることなく、あいまいな一体性を保っていた人間のかたちが、意味づけをされることによって、断片化され、そのことが玉脇みをの分裂をもたらしたのだ、というふうには読みとれないだろうか。

 

喪失感による社会の捕捉

 △、□、○のような記号とたわむれ、意味づけされることを拒否した玉脇みをは、意味づけされることによる断片化に抗っていたと考える。と、すれば、意味づけされることによる断片化とは具体的には何であろうか。
 玉脇みをの不幸は具体的にはわからないが、ことばによる意味づけに起因しているのだとすれば、その当時の女性がおかれていた状況のイデオロギーの側面すべてがその原因なのだといってみることができるだろう。たとえば、この作品もまた、ほかの鏡花の作品同様、「母性」という題材が挿入されている。玉脇みをは、後追い自殺をするにあたって、角兵衛獅子の若いこどもをみちづれにしている。そのこどもには、「私の児かも知れないんですよ」といっているのである。そのことに時代のことばを対置すれば、当時「母性」は「富国強兵」のために男児を産めというスローガンによってぬりつぶされていた。「君死にたもうことなかれ」と歌った歌人が迫害をうける時代であったのである。
 すでに「母性」も、あるがままの姿ではありつづけることが許されず、国家のかかげることばによる意味づけによって切り刻まれていた。恋愛もまた婚姻制度によって秩序化され、その姿は別のものへと意味づけられる。美人であるがゆえ金でかわれるということもおこりえただろう。その一方、素朴な愛は、その無定型ゆえにことばによって擁護されることなく、すてられていたのである。
 鏡花は小説のなかで、このようなことばの意味づけによる社会の変化を、いろいろなものの対照によって示している。「赤鬼、青鬼」がいる、などと西洋人の住宅のことを指したり、逗子駅の駅舎の落成式典の喧噪と対比させる形で、それと反対の方角から別の祭囃子が聞こえてきたとかいている。幻想は森のなかにあり、海は侵食されつつある領域であった。冒頭にも、次のような叙述がある。

 この指摘を含め、松村友視(1987)は、つぎのように言っている。

  前近代の「闇」をすべて肯定するかどうかは別としても、玉脇みをがそれを回復しようとしたことは間違いがないだろう。虐げられ、みずからが記号と化してしまった玉脇みをは、[虚影]となって虐げられた自分をさらし、それを無数に並ぶ石仏のように、歴史のなかで虐げられてきた無数の女性達の列のなかにおく。そして、[虚影]は原初的な記号がみずから意味化作用を行いうる森の奥におかれることによって、はじめて自己を回復することができたのだ。

 前近代的な空間ではじめてその自己を回復したということは、当時の社会を喪失感によって捉えているということを意味する。近代的な時間、近代的な意味の分節化によって解体された一体性。そこにこそ幻想をうらづけている基礎があるのではないか。その一体性の記憶は、ときには母胎回帰願望として現れ、ときには母性の回復として、自然の鬼神力として顔をのぞかせるかもしれない。しかし、本質はそこにあるのではなく、そこにおいては保たれていた一体性が喪失されたという感覚こそが重要なのではないか。そして、喪失されたという感覚は、それをもたらした社会の変化を、その喪失感によって細くしている。このことは、鏡花のほかの作品をみるときにも示唆をあたえるものだと思う。
 『湯島詣』において、神月は、苦界に身を沈めた「女」であるからこそ、そこに「母」を感じることができたのではないかと指摘した。それは、苦界であるからこそ、そこにおける「女」の喪失感をてがかりに、失われた一体性の記憶にたどりつくことができたのだということに他ならないのである。

 

ふたたび母性と娼性について

 鏡花の小説のなかでのこの小説の特徴は、「女」の[外形]がかかれているということである。この[外形]というのは、わたしが勝手に名付けたものだけれども、現実世界での「女」の姿が詳細にでてくるのは、心中物とにている点である。しかも、この「女」もまた、どこかで異界に入り、幻想をみてきているにちがいない。「男」と別々に、共通の幻想をみたのである。それまでの怪奇ものでは、はじめから化け物として存在しているがごとき「女」が出現したが、ここでは幻想をみたあとのぬけがらであるとはいえ、現実世界での「女」が書かれている。
 これは、いわゆるほかの怪奇物の小説であっても、ほんとうは「女」には、そのような現実世界での別の姿があったのではないか、ということを思わせる。「女」に出逢う「男」においてつくられる心像と、鏡花が書こうとする「女」とを同一視することは、この事実を見落としてしまうことにならないか。「女」には「女」としての別の人格と別の人間としての一体性が、あるはずなのだ。
 しかし逆説的であるが、その一体性が奪われているからこそ、いままでの小説での「女」は、簡単に「男」の心像と同一視されてきたのだともいえる。そして、鏡花は自分の分身としての「男」をとおして、すきかってな「女」のイメージを描いたのだと思われてしまう余地があった。その結果、わたしたちは「女」がもともと持っていたもの、「女」が分裂し、断片化されるなかで失ったもの、そこに流れている喪失感をつかみ損ねていたのではないか。
 鏡花の描く「女」がときに「母親」を体現し、ときに「娼婦」のエロチシズムをもただよわせることから、そこに意識化の母子相姦の欲動をみることもできる。しかし、おそらくは事態は逆ではないのか。現実世界の虐げられた「女」の存在に即して考えれば、「女」から素朴な母性をうしなわせたものの正体こそが、そこから純粋な愛をも不可能ならしめているものではないのか。「女」に「母性」「娼性」という対立する属性をときどきによって貼り付け、それを分節化する意味の作用が、そのような記号の断片におとしめられてしまう以前の、曖昧さと両義性をたもったままの存在そのものとしての「女」のもっている、同時に「母性」でもあり「娼性」でもありえて、そのどちらでもない「女性」をうばいとったのである。鏡花はただ、その「女性」を回復したいだけなのだ。

 

 


  −引用に使用した文献− 
 井上宗雄ら編 1988 『ベネッセ古語辞典』 ベネッセ
   脇 明子 1974 『幻想の論理 泉鏡花の世界』 講談社現代新書
   松村友視 1987 『春昼』の世界    泉鏡花研究会 編『論集 泉鏡花』所収

 


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