・ソ
(2000年11月3日から)
발표일 : 2000년11월3일改
발표자 : AKIZUKI-Yasuo
以上に関連して韓国での国語文法論の歴史において、「時制」「相」「時相」などが どのように あつかわれてきたかを考察し、上の記述の理解を深めるとともに、この本の著述方針の問題点を指摘したい。
まず、油谷(1978)に従いながら韓国国語学界での学説の流れを概観する。
오늘날까지 한국어 時制(tense)와 相(aspect)에 관해서는, 여러 가지 主張이 있어 왔다. 즉, 時制와 相을 따로 認定하는 立場, 한국에서는 時制가 없고 相뿐이라고 主張한는 立場, 그리고 時制와 相과는 따로따로 區別해서 나타낼 수는 없고 그 兩者가 融合된 時相的 表現만이 가능하다는 立場 등이 그것이다.
20世紀 初葉의
한국어 학자들은 時制와 相을 分離하지 않고, 時制라는
하나의 테두리 안에서 記述했었으나, 이숭녕[李崇寧](1961)에 이르러서 처음으로 時制와 相의 槪念이
명확히 구분되게 되었다.
주시경[周時經](1910)은 時制에 「이
때, 간 때, 올 때」의
세가지를 設定했으나, 相에 관한 언급은 없었다.
이어서 최현배[崔鉉培](1937)에서는 直接時制와 回想時制에 각각 12時制씩 도합 24時制가
세워졌는데, 이것은 이름이 時制일 뿐이지, 그 내용은
“적”과 “때”의 二元的 構成이었다.
<24時制>
적3{현재/과거/미래}×때4{원시/완료시/진행시/진행완료시}×時制2{직접/회상}
이숭녕(1961)는
15세기 한국어를 고찰해며, 時制를
{현재/과거/미래}로 구분하는
동사에 相을 다섯 {완료상/미완료상/지속상/기동상/순간상}으로 나누었다. 그리고 「이러한
相이 現在・過去・未來의 時制와 合치어 行動의 種別이
複雜하게 된다」고 했다.
그 후 変形生成文法理論이 한국에 도입됨에 따라서, 그 때까지
時制를 나타내는 것으로 다루어져 왔던 한국어의 접미사는
모두 相이나 敍法(mood)을 표시하는 것이며, 한국어에는
時制가 없다는 주장이 나타나기에 이르렀다. 남기심[南基心](1972)은 時制를 인정하지 않고, 相으로는
完了相과 斷續相의 둘만을 인정하며, 각각 「-았-」「-았었-」으로
표션된다고 말했다. 또, 「-는다」는 敍述形終結語尾에
불과하고 時制의 뜻도 相의 뜻도 부여하지 않는다고
했다. 이어서, 법에는 未確認法과
回想法의 두 가지를
인정하며, 각각 「-겠-」몇 「-더-」로 표현된다고
했다.
그리고 제3의 입장인 時相(tense-aspect)이라는 개념을 제일먼저 제기한
사람이 박승빈[朴勝彬](1935)이며, 그 후 서정수[徐正洙](1976)에 의해서 명시적으로 再정식화되었다고
말할 수 있을 것이다.
ただし伊藤(1989)によれば、박승빈(1935)の「時相」はテンスの意味で用いられている。
そのほか、「相」または「時相」に関する言及は以下のとおり。
<박승빈(1935)의 時相>
현재{1.일반적 진리
2.상습적 사실 3. 현재의 상태 4.현재 지행중인 동작}
과거{과거&현재완료. 半과거}
미래
<박창해(1964)의 時制및相>
現在時制のみを認め、-었-や-겠-を完了や推定の相とする
<이종철(1964)의 時制및時相>
現在、過去、未来、大過去の4時制。는다と 고
있다の違いは時相的なちがいとする
<김석득(1974)의 時相>
{았}や{겠}などは時相の形態素であるとし、そこには主体動作の様相やはなし手の心相と、潜在的な時間をあらわす時制とが未分化なものとしてとけあっていて、時間語との共起によって時制的意味が顕在化すると主張
<서정수(1976)의 時相>
A.φ すべての用言に共通: 超時間、現在持続、未来、過去
非状態性動詞: 事件の進行・反復、
一連の事件、履行的現在
状態動詞・存在詞・指定詞: 現在の状態
B.고 있 Aがあらわせて、Bであらわせない時相的意味
×{一連の事件、履行的現在、未来}
C.었
D.었었
以上のような流れに対して、油谷(1978)は、以下のような批判をおこなっている。
그들의 연구도 거의가 다「現在時制의 用法」이니 「“고 있다”의 用法」이니 하는 식으로 事例를 그냥 前後 脈絡 없이 늘어놓을 뿐, 動詞의 意味構造라는 큰 觀点에 서서 기술한다는 입장은 아니었다. 徐正洙(1976)도 一部分, 狀態性・非狀態性이라는 用語를 쓰기는 했으나, 動作의 資質에 관한 分析이 充分치 봇했기 때문에, 결국 …《中略》…개개의 動詞에 관한 用法을 羅列하는 舊來의 方法으로 後退하고 말았다.
油谷(1978)は서정수(1976)の始めた、動詞自体の持つアスペクト素性による分析をおしすすめ、動詞分類をおこなうとともに、各群の動詞についてアスペクト形式がどのように実現されるのかを詳細に記述することをめざしたものである。それは、日本語において金田一春彦(1955)がおこなった分析を韓国語にも適用しようとしたものであると見ることもできる。伊藤(1989)によれば、これ以降、韓国における同様の研究としては、이남순[李南淳](1981), 이지량[李智凉](1982), 이용주[李庸周](1983)がある。また、이기동[李基東](1982)は、韓国語に actual tenseと remote tenseを設け、それぞれを {는}と {었}, {었었}に対応させ、 actualか remoteかは、はなし手の platformを含む領域に、ある状況が存在するか、もはや存在しないかの対立であるとしている。
また、伊藤(1989)は、従前の研究を以下のように批判している。
ひとつは、時相(時制)をあらわす形態素を抽出し、その意義素を記述するという意義素論的な手法をとっている点である。このため用言が終止形をとって述語になつたり、接続形となったり、連体形をとって規定語になったりするはたらきには無頓着に、それらのどこにあらわれてもつねにその形態素がになうであろうところの意義素を抽出しようとすることになる。
もうひとつは、諸研究のいずれもが、文学作品などの言語資料からとった例文を示すことなく、より整理されたかたちで、つまりは作例によって議論をすすめている点である。これはもちろん研究者にとって朝鮮語が母語であるためだが、発表された論文の数に比して、例文のバラエティーが少ないことも否みがたい事実である。
つぎに、日本語におけるテンスとアスペクトの研究を概観する。
『日本語教育事典』1982 での「テンス」の項(寺村
秀夫 執筆)によれば、山田孝雄(1908)は欧文典のテンス論を安易に日本語に適用することを批判している。これをうけて、松下大三郎(1930)や三矢重松は「すル」「しタ」の本質はテンスではなく{未完了/完了}のアスペクト的性格であると論じた。また、細江逸記(1973)は「テンスとは意識の作用と叙法の問題」だとして「ムード」に属さしめる主張をしている。
現在では、「すル」と「しタ」の形式にアスペクト・ムード的な要素とともにテンスの性格も認める見解が普通になっている(たとえば、鈴木重幸
1958)が、それを動詞自体がもっている素性に従った分類をふまえながら、はじめて詳細に展開したのが金田一春彦(1976)である。
金田一によれば、述語の叙述形は、その種別により各時制形式で主に次のようなテンスを担う。
現在形 (テイル形) 過去形
名詞的述語 (×)
形容詞的述語 現在・未来 (×) 過去
状態動詞の述語 ……(△)
動作・出来事の動詞の述語 未来 (現在) 過去
『国語学大辞典』1980の「時」の項(高橋太郎
執筆)には、これに関連して「動作動詞のうちけしにおける両形の対立は、肯定のばあいの動作動詞と状態動詞の中間のような様相をていする」(*)「従属節の述語としてつかわれたり、連体形になったりしたばあいには、この対立の性格がかわる。」とある。後者について具体的には、
(1)絶対的なテンスの対立 今度やめる人は退職金が二倍もらえる。
(2)相対的なテンスの対立 最初にできた人には賞をあげる。
(3)アスペクト的な対立 旗をたてて前進する群衆がかいてある。
(4)形容詞化 S字型に曲がった道
などの種類がある。また、ここで高橋は、研究史を概観して次のような指摘をしている。
口語における「~した」の「た」、文語における「む」「き」「けり」などは、従来「助動詞」として単語あつかいされ、活用語尾としての位置づけがなされてこなかった。このため、動詞のテンス語形がきちんととらえられず、とくに、いわゆる「助動詞」のつかない非過去形(文語のばあいには、「現在形」といったほうがよいかもしれない)のもつテンス的な性格は、ほとんど無視されてきた。たとえば、「時」と「動作態」を西洋の言語学にまなんで、「上代に於ける助詞『ぬ』『つ』の本質」「文法的範疇と論理的範疇、特に『時』について」などをかいた小林好日でさえ、「助動詞」の概念からぬけきれなかったために、非過去形(現在形)をとりだすことができなかったことは、特質にあたいする。
以上の概観から、上記教科書第7章冒頭の要約の1.が言うように「時制と相が相互作用をしており、形態と意味使用の両方から定義をすることは困難である」ということ、また、これらが「従来から混同されてきた」という指摘が確認できるだろう。しかしながら、両者の相互作用の様相や、形態と意味使用とのずれは、油谷や伊藤が指摘しているように、動詞自体のアスペクト素性による分類や、テキストの性格をふくめたディスコース分析をおこなうことでこそ解明される。形態の共通性のみから形態素を抽出し、それらの諸形態や異なる環境でのはたらきを先験的に同一だとみなして意義素を記述するという方法では、それぞれの言語のテンスなりアスペクトの具体的な場面でのあらわれかたの特徴はとらえられない。そうした具体的な分析をするためには、本教科書の2.3.のような方針は、あまりに消極的でないだろうか。
また、ひとつの形態的特徴が、単純に、ひとつのテンスないしはアスペクトの特性に対応しないことは明らかであり、そうであるからこそ、1.のような問題が生じているのである。それなのに、形態的特徴をもって、それぞれの言語の「時制」「相」を定義するとなれば、結論は「対応する」「対応しない」の2種類しかないことになってしまう。しかし、対応する形態的な形式が存在することと、そのつかわれかたが対応することとは同じではない。対象研究の課題は、むしろ、対応する形式があるにもかかわらず、その、あらわれかたがちがうことを解明することでなければならない。その点で、この教科書には欠陥がある。以下のレポートはその点をなしうるかぎり補っていくことを主眼においている。
(*) 尾崎(2000)によれば、動作性の動詞の「しナイ」と「しテイナイ」の形式は、ともに「現在」の時制をもちながらも、次のような差異が観察される。
~シナイ : 話し手が、現在に至るまでの時間の流れ全体に
視点をあて、各時点を直接検証した上での発話
~シテイナイ : 話し手が、現在の一点に視点をあて、観察した
上での発話/話し手の推量・判断を表す発話
日語 韓語
1.現在 -φ(-u) φ(ㄴ다) 現在、未来、恒時、反復
2.過去 -た/だ 었/았/ㅆ 過去動作、動作完了
× 었/았/ㅆ 現在状態
3.未来 겠 未来
-だろう (未来推定)
겠 推定
× 겠 意志
4.大過去 × 었엇 過去、過去時の動作、完了、経験
5.過去未来 × 었겠 過去時からみた未来、推定
『고등학교 분법』1996 교육부より
사건시와 발화시가 같은 시점임을 나타내는 것이
현재 시제이다. 동작이나 상태가 현재 일어나고
있는 것을 표현하거나, 일어난 것으로 생각하면서 표현하는
경우이다.
01) 학생들은 지금 운동장에서
축구를 한다.
02) 학생들은 지금 도서관에서
책을 읽는다.
03) 언니는 시험 기간인
요즈음 매우 바쁘다.
04) 선철이는 현재 우리
학교 육상부 대표 선수이다.
05) 도서관은 지금
책을 읽는 학생들로 붐빈다.
06)
언니가 요즈음 바쁜 것은 시험 때문이다.
07)
현재 우리 학교 육상부 대표
선수인 선철이는 노래도
잘 부른다.
현재 시제는 ‘지금, 요즈음, 현재'
등과 같은 시간 부사와 함께 쓰이면 발화사와 사건시가
일치함이 더욱 분명해진다. 경우에 따라서는 현재 시제를
나타내는 형태로 확실성 있는 미래, 보편적인 진리를
나타내기도 한다.
08) 우리는 내일 그 친구와
만난다.
09) 지구는 자전하면서 또한
태양의 주위를 공전한다.
사건시가 발화시보다 앞선
시간임을 나타내는 것이 과거
시제이다.
10)
우리들은 어제 지리산에 다녀왔어요.
11) 나는 어제 그 책을
끝까지 다 읽었다.
12) 지난 겨울 방학에는
아주 즐거웠다.
13) 우리가 지난 식목일에
심은 나무는 무궁화였다.
과거 시제는 선어말 어미‘-었-'으로
실현된다. 관형절로 안길 때에는 관형사형 어미로 실현되는데,
동사일 때에는 ‘-은-'이, 형용사나 ‘이다'일 때에는
‘-던'이 쓰인다.
14) 그 책을 읽은 사람들은
모두 감탄하였다.
15) 아주 즐거웠던
지난 겨울 방학이 그리워졌다.
16) 중학생이던 영철이가 어느 새 고등 학생이 되었구나.
발화시보다 훨씬 오래 전에 일어나, 현재와는 더
강하게 단절된 사건을 표현하기 위해서 ‘-었었-'과
같은 겸친 형태를 쓰는 경우가 있다.
17)
석윤이는 학창 시절에 운동
선수였었다.
18)
엊그제 나는 박물관에 갔었다.
발화시를 기준으로 사건시가
뒤선 시점을 나타내는 것이 미래
시제이다. 장차 일어날
일을 표현하거나, 추측이나 의지를 표현하기도 한다.
미래 시제는 선어말 어미 ‘-었-'으로 실현된다. ‘내일,
다음에'와 같은 말과 함께 나타나면 미래 시제의 특징이
더 분명해진다.
다음 문장에서 ‘-겠-'은 미래
시제를 나타내는데, 사건시가 모두 발화시보다 뒤에
있다. 그러나 ‘-겠-'은 단순히 미래 시제만 나타내는
것이 아니라, 추측과 이지를 나타내기도 한다. 부사
‘아마, 틀림없이' 등과 함께 쓰이면 추측의 뜻이, ‘꼭,
반드시' 등과 함께 쓰이면 의지의 뜻이 분명해진다.(☆)
19) 내일은 비가 오겠다. (단순한
미래)
20) 중학생도 아마 그 정도의 문제는
풀겠다. (추측)
21) 그 일은 제가
꼭 하겠습니다. (의지)
(☆)선어말 어미 ‘-겠-'은
현재나 과거의 추측도 나타낸다.
22)
지금은 고향에도 꽃들이 만발하겠지.
23) 어제는 굉장히
신이 났겠네.
24) 생각해 보니,
그 날은 눈이 왔겠더라.
관형절로 안길 때에 미래
시제는 관형사형 어미 ‘-(으)ㄹ'로 실현된다.
25)
야영 갈 사람들은 미리 신청하시기 바랍니다.
미래 시제는 ‘-겠-' 대신
‘-(으)리-'로 실현되기도 하며, 또한 관형사형 어미와
의존 명사가 합쳐진 ‘-(으)ㄹ 것이-'로도 실련된다.
26) 그 일은 제가 맡으리라고 예상했어요.
27) 내일은
아마 눈이 올 것이다.
28) 우리는 이번에 그
일을 기필코 하고야 말
것이다.
時制の定義が、形態によってされているので、たとえば「現在時制」に「未来」の用法が存在するということになっている。この表では日本語のほうに欠落が多いが、韓国語のほうではそれぞれの形態がつかわれるときの用法を多く書き出しているのに対して、日本語のほうでは一部しか書き出されていない印象を受ける。「-た/だ」にも現在の状態をしめす用法はあるだろう(例:「ああ、おなかすいた!」)。教科書の[用例]では、(2)c.で、 너는 좋은 옷을 입었군. に対する日本語が「あなたは いい 着物を 着たね/着ているね」の2とおり書かれている。表の欠落とあわせて考えると、これは、形態的には「着たね」が対応するが「現在状態」の意味では「着ているね」を使うということをいいたいのであろうか。日本語でも「着たね」はあり得る。もちろん、その使用範囲にはちがいがあるだろうが、それは7.1.2.で考察することにする。「-だろう」に対してことさら「겠」が純粋に未来をあらわすものであるという論拠も薄弱である。「었었」のように、ほかの形態素の転用(たとえば「~テ イタ」など)でなく、テンス表示を本来とする非自立的な形態素が動詞について、よりはっきりとした過去をあらわすような形式を日本語がもたないのは事実だが、「었겠」には形態的にも「-ただろう」を対応させられるのではないか。ただし、ここでの「과거시에서 미레」という教科書の説明が妥当であるかは わからない。「彼は次の日、軍隊に入営することになっていた」が、英文法などでいう「過去未来」の典型的な例文であるが、そういうときに「~었겠다」は同じ意味で使われるのだろうか。
[用例]の(4)(5)には日本語が書かれていないが、同じような構成で対応する形式がないということと、対応する表現がないということとは、ちがう。(4)は「先週、プサンへ行っている/行ったのであった」(5)「いまごろ、みんな食べ終わっている頃だ」といったところだろうか。ところで、(5)の例文は、はたして「過去」を表しているだろうか?
한어에는 다음과 같은 회상법 시제가
있는데 일어에는 없다. 한어의 회상 시제는 과거이 경험을
단순히 회상해서 다음과 같이 나타내고 있다.
29) 그는 밥을 먹더라. (회상) -더-
경함기점
30) 그는 밥을 먹었더라. (회상완료)-었더- 회상과거
31) 그는 밥을 먹겠더라. (회상추정)-겠더- 회상미래
教科書の説明とは別に、p.203の図と、29)~31)の例文の対比は、日本語での
32) 彼はごはんを食べているところだった。
33) 彼はごはんを食べたところだった。
34) 彼はごはんを食べるところだった。
を思い起こさせる。ちなみに、これら32)~34)の例文では「~だった」は過去をあらわすテンス形式だとしても、「食べ{ている/た/る}」の対立は通常、アスペクト形式の対立として理解されるものである。(たとえば『初級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』では、これらは「時間を表す表現(2) -アスペクト-」の項目にある。)
この部分についても、『고등학교 분법』1996 교육부に該当する記述がある。以下は、さきほどの引用の「過去時制」の項目に書かれている説明である。
과거의 어느 때에 기준을
두고, 그 때의 일이나 경험을 돌이켜 생각하는 것을
회상이라고 하는에, 이는 선어말 어미 ‘-더-'로 실현된다.
다음 문장들은 모두 말하는 이가 주어에 대하여 직접
경험한 것을 회상하여 표현하고 있다. (★)
35) 태욱이는 어제 도서관에서
신문을 읽더라.
36) 어제는 날씨가 몹시
춥더군.
(★) 평서문에서
주어가 말하는 이 자신일 때, ‘-더-'를 사용할 수가
없다. 그러나 자기 자신을 객관화한 경우에는 그렇지
않다.
37) *나는 어제 집에서 공부하더라.
38) 어젯밤 꿈에 보니까,
나는 집에서 공부하고
있더라.
(객관화한
경우)
「~すル/しテイル/しタ ところだった」も、この(★)の説明と共通するところがあり、話者が自分のことを言うのに使うにあたっては、自己を客観化しなければならない。
39) *わたしは昨日、家で勉強しているところだった。
40) ゆうべ夢をみたら、夢のなかで自分が勉強しているところだった。
ただし「~しテイルところだ(った)」には、無意志動詞は使えないという制約がある(『初級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』 参照)。
김차균(1980)は、韓国語のテンス・アスペクトに関係する先語末語尾を次のように図示し、そのなかで終止法(마침법)や事実束縛法(사실 구속법 = 참일 매는꼴)などでの「-더-」のはたらきを次のように説明している。
았 었 겠 더
어간 ∥ ∥ ∥ ∥ 어미
[ㄱ] [ㄴ] [ㄷ] [ㄹ]
「았」은 [ㄱ]과 대립되어
「과거 : 비과거」의 의미 대립을 나타낸다. 「겠」은
[ㄷ]과 대립하여 미정(또는 미확인)과 확정(또는 확인)의
의미 차이를 나타낸다. 「더」는 [ㄹ]과 대립하여 기준
싯점이 마음속의 어떤 기준 싯점보다 과거이냐 또는
그와 같으냐의 차이를 나타낸다. 「었」은 [ㄴ]과 대립되어
기준 싯점이 「더」나 [ㄹ]보다 과거냐 또는 그와 같으냐를
나타 낸다.
「더」는 「과거 어느 때에 기준을
두고 말할이가 새로 알게 된 것을 회상적으로 말하는
데」에 쓰인다.
일어의 시제 표현은 어미로 나타내고 있는데 대하여 한어는 모두 보조 어간으로 나타내고 있다.
この教科書の記述は、日本語と韓国語を比較対照してるのではなく、日本の国語文法と韓国の国語文法の用語を対照しているのに過ぎないと思える。日本語の「-た」「-う/-よう」などを「語尾」というのは学校文法の立場ではない。p.173の松下大三郎による表によったものと思われる。韓国の学校文法では、「-었-」と「-겠-」は従来「補助語幹」と呼ばれていたが、そのなかから使動・被動・強勢の「接辞」を分離させ、「先語末語尾」という用語に変わっている(이철수
박덕유1999)。なお「-는/은」「-는다/-다」は語末語尾であり、従来の立場であっても「補助語幹」というのは当たらない。ちなみに前者は「語末語尾」中の「非終結語尾」に属し、その下位分類の「冠形詞形転成語尾」であり、後者は「終結語尾」に属する「平叙形」である。これら4者はすべて「用言の活用語尾」の一部となる。
このように「語尾」か「語幹」かということを比べるのは、呼称の違いに過ぎず、何の意味も持たない。ただ、日本語の松下文法と韓国の学校文法では、ともに「活用語尾」の一部であるといえるが、日本の学校文法では、「-た」「-う/-よう」は助動詞であり、独立した品詞になっている。
これとても、整理の方法の違いであり、言語自体の性質の違いであるとみることはできない。日本の学校文法に類似した方式で韓国語の用言の活用を説明することも可能であるからである。
以下の表は、河野六郎(1955)によるものである。(菅野
1997 から引用)
第Ⅰ語基 第Ⅱ語基 第Ⅲ語基
基本語幹 -φ- 잡 잡으 잡아
過去語幹 Ⅲ-ㅆ- 잡았 잡았으 잡았어
未来語幹 Ⅰ-겠- 잡겠 잡겠으 잡겠어
尊敬語幹 Ⅱ-시- 잡으시 잡으셔
ここでは「語基」「語幹」ということばが使われているが、ここで言う「語基」が、日本語の動詞の活用形を念頭に入れていることは明らかである。すなわち、「語基」までの「活用」は活用形の種類や不規則動詞などにより個別の規則が適用されなければならないが、各「語基」以下につく成分の形態は不変になるように工夫されている。たとえば「-고」は第Ⅰ語基、「-면」は第Ⅱ語基、「-야」は第Ⅲ語基につくというふうに、すべての動詞についていえるわけである。
この河野六郎の方式に従えば、従来多くの研究者が「-으면」「-아서」などを「-면」や「-어서」の変異体とみなし、それ以上分割できない語尾のひとつであるとみる見解をとってきたのに反して、「-으」「-아/어」は「語基母音」として「語基」の一部となるとともに「-면」「-서」がすべての動詞に接続することになる。このような方法は現在、日本における韓国語教育に広く使用されている。そして、「語基」が日本語の動詞の「活用形」を念頭に入れているとすれば、「-었-」と「-겠-」は日本の学校文法における「助動詞」に比定できるのである。(くわしくは、菅野
裕臣 1997 を参照)
-u/-る : -다/-는다
일어의 상태동사는 현재시제를 나타내고 있으나 한어는 형용사 범주로 그 형태가 달리 대응되고 있다.
41) 庭に桜の木がある。
42) 마당에 벚꽃 나무가 있다.
42) 学生たちが運動場にいる。 43) 학생들이 운동장에 있다.
日本語の状態性動詞は、終止形で現在の状態をあらわす。「ある・いる・要る・足りる・ちがう・信じる・思う」などがそうである。これらに対応する韓国語の用言は形容詞であることが多いが、動詞の活用をするものもある。油谷(1978)によれば、朴勝彬(1935)は韓国語の用言を「存在詞・指定詞・形容詞・動詞」に四分類した。現在の学校文法では、存在詞のうち있다と없다は形容詞に、계시다は動詞に含まれる。指定詞は認定しないようである(韓国で出版されている辞書によれば、「-다/이다」は「助詞」となる)。このように用言は形容詞と動詞に集約されるが、問題がないわけではない。動詞型の活用をするもののなかでも、油谷(1978)でいうA類「느끼다・믿다・알다・살다・모자라다など」B類「모르다・(약이)듣다・계시다など」は[+状態]であり、φ形で現在の継続相を表す。A類は「-고 있다」形式とφ形で、アスペクト上の差異が認められず、B類には「-고 있다」形式がない。なお、日本語では、「知る・住む」は「テいる」をともなわないと現在の継続相にならない。
현재 시제는 습관적 동작(8),
일반적 진리(9), 일정조건에 의한 동작(10)등의 시간을
나타내기도 하는데 이런 용법에서는 양어가 유사하다.
상태 변화를 표함하는 동작동사는 현재시제의 현태로 미래를
나타내는 것이 양어의 공통점이다(11)(12). 그러나 미래에 일어날
일에 대한 話者의 이지를 나타내는 데에는 일어에서는 현재
시제를, 한어에서는 「-겠-」(미래시제)를 쓰는 상이점을
보여준다.
日本語でも、未来への意志を表すためには「~すルつもりだ」の形式をつかうことができるので、「すル」で言い切る形式が韓国語よりも強い意志表現を包含している形式だと、ただちに言うことはできないだろうと思う。
현재 진행중에 있는 동작은 시상범주에 속하는 것으로 나타내는 것이 일반적이다.
43) いま本を読んでいます。 44)
지금 책을 읽고 있습니다.
45) まだ雨が降っている。 46) 아직
비가 오고 있다.
しかし、韓国語では同様の意味で、
47) 지금 책을 읽습니다.
48)
아직 비가 옵니다.
も可能ではないだろうか。伊藤(1989)は、用例を示した上、以下のようにまとめている。
非過去形が従来「現在形」とよばれていた最大の理由は、この形式が現在進行中の動作をあらわすことができ、かつそれが基本的意味だと考えられているからである。じっさい作例をして韻フォーマントにたずねてみれば、この形式がかなり自由に現在進行の意味をあらわしうることを知ることができる。今回用例を集めてみると他の用法に比べて意外と用例が少なかった。おそらくこれは文学作品の会話文にかぎったという資料的性格のせいかと思われる。進行中の動作をあらわしているとみえる用例は、47),48)のような移動動詞の例に多かった。
【例文番号・引用者改】
49) (指さしながら)“남은
괴수들이 내려옵니다.”
50) (みはりの叫び)“이크!
뭔가 한떼거리 온다!”
これら移動動詞の場合は、日本語でも「降りてきます」「来る」などと訳せるところである。しかし、それ以外の多くは、日本語のφ形では継続相を表せないものであり、そこに両語の大きな違いがある。
51) 너 여기서 뭘 하니? 뭐 해? 52)
あんた、ここで何やってるの?
何してんの?
-た(-だ) : -었/-았-/ㅆ
과거시제는 (1)과거시의 동작 (2)시상범주에 속할 현시점에서의 동작의 완료된 상태(완료상)를 나타내며 이런 용법면에서 양어는 동일하다.
この点には、くわしく検討するといろいろな問題があり、それぞれに両方の用法があるからといって、簡単に「同一である」といってすませることはできない。日本語学習のごく初級段階であっても、次のような、両語の差異に基づく習得の困難や誤用が発生しやすい基本文型が存在する。
53) A「いま映画館で上映している『JSA』を見ましたか?」
-B「はい、見ました。」
-C「いいえ、見ていません。」
54) A「もう、昼ごはんを食べましたか?」
-B「はい、もう食べました。」
-C「いいえ、まだ食べていません。」
ここでのCの発言は、53), 54)ともに「~ませんでした」「~なかった」にすることができないが、韓国語であれば「안 -었습니다.」「안 -었다」の形式で言えるところであろう。53), 54)の会話全体が単純過去のテンスのものではなく、現在のテンスにおける完了相(パーフェクト)のものであることは、
55) A「何年か前にヒットしたときに映画館で『西便制』を見ましたか?」
-B「はい、見ました。」
-C「いいえ、そのときは見ませんでした。」
56) A「きのう、プルコギを食べましたか?」
-B「はい、食べました。」
-C「いいえ、プルコギは食べませんでしたよ。」
と対比してみれば明らかであろう。つまり、日本語の「-た/だ」は、テンスとしての過去を表したり、現在における完了相を表したりするが、現在における完了相を表すことができるのは、肯定形に限られている。これは実用会話のなかでもしばしば問題にされる韓国語との違いである。
さらに、肯定形であっても、「-た/だ」が現在における完了相を表しうる条件は、韓国語に比べると制約が厳しいようである。越生(1997)によれば、
朝鮮語では、目の前の状況について、その状況が生じる際の経緯が把握でき、その状況を変化語の状態と位置づけられたときには過去形が使える。その経緯が把握できず、目の前の状況の位置づけがうまくできないとき、つまり、その状況をもとにして一つのまとまった出来事を再構築できないときには結果状態形を使う。
上記のことは、基本的には日本語の過去形と結果状態形の関係についてもあてはまる。ただし、日本語では、経緯が把握できたとする基準、つまり、過去形の使える基準がきびしい(直接知覚かそれに準ずる情報量を持っていなければならない)ので、結果的に結果状態形の使用範囲が朝鮮語に比べて広くなっている。このことを図示化して示すと、次のようになる。
朝鮮語 ∥ -어
있다 | -었- ∥
日本語 ∥ -テイル | -タ ∥
少 ← ………変化の経緯についての把握度………→ 多
越生(1997)があげた若干の例文と、より簡潔に要約された結語を、示しておく。
57) 電車の中で、前の座席の人の財布が落ちたのを見てすぐ、落とした人に
a. 지갑이 {떨어졌는데요 / ? 떨어져 있는데요}.
b. 財布 {落ちましたよ / (?) 落ちてますよ}。
58) 電車の中で、前の座席の人の持っている紙袋が破れ、中のものが今にも
落ちそうになっている。その人が気づいていないようなので、知らせてあげる。
a. 쇼핑백 {찢어졌는데요 / ? 찢어져 있는데요}.
b. 紙袋 { ? 破れましたよ / 破れてますよ}。
59) 道に誰かの財布が落ちているのを見て
a.
뭐가 { ? 떨어졌다 / 떨어져 있다}.
b. 財布 {
? 落ちた / 落ちてる}。
朝鮮語と日本語の違いをより簡潔に言うならば、日本語は目の前の状況が関わる出来事のすべてがわからないと過去形が使えない。一方、朝鮮語は目の前の状況がある出来事の結果だということさえわかれば過去形が使える、となろう。
この見解をふまえて考えると、以下のような現象も説明できるかもしれない。
60) Aが、会って間もないB、Cに向かって
A「あの、失礼ですが、結婚はされていますか?」
-B「ええ。わたしは結婚しています。」
-C「いいえ。結婚はしていません。」
61)
Aが、学生時代の友人であるB、Cに久しぶりに再会して
A「ひさしぶりですね。もう結婚しましたか?」
-B「ええ、3年前に結婚しました。」
-C「いや、わたしはまだ結婚していないんですよ。」
これらの下線部分は韓国語であれば、すべて「(결혼)했습니다
/ 했다」の形式でしめされるところである。しかし、日本語では60)
の状況では、Bが結婚していたとしても、それをAは結婚する場面から、その結果としての現在の状態までを一つの出来事として観察できる立場にいなかったことが明確である。それに対して61)
の状況であれば、すべてをしりえないとしても、独身時代のBを知っているAは、そのBが結婚することによって現在は既婚者となったということを一続きの過程として感じることができる。日本語の表現においては、この60)
と61) の差が重要であるが、「そもそも結婚するという過程を経なければ既婚者にはならない」ことが論理的に明らかであれば、その過程における場面に立ち会わなくても、行為の結果による状態であることを示す完了相(パーフェクト)の表現様式を選択する韓国語では、この違いは意味をもたない。したがって韓国語の「결혼하다」は油谷(1978)のD類[-상태,
+순간, -결과]に属する動詞となり、그치다, 느끼다, 다치다,
닮다, 미치다, 반하다, 보태다, 부티다, 식다, 입학하다などと同じく
-고 있다の形式も -어 있다の形式ももたないのだと かんがえられるのである。(なお、油谷は、吉川
1973 を引いて、日本語では「目撃する」「失恋する」などが類似の性格をもっていると書いている。)
그러나 형태상 배합은 상당한 상이점을 가지고 잇다. 한어의 었(-았-)의 형태는 용언어간에 연결되나 일어의 ‘-た(-だ)'의 형태는 용언의 어미에 연결되고 있다. 그뿐 아니라 전자는 어형변화가 없으나 두 변이형이 있다. 후자는 주동사로서 다음과 같이 어형변화가 있는 점이 다르다.
これは、上記の「語基」についての説明を参照すれば、別の見方ができることがわかるだろう。
また、-었-(-았-)に「語形変化がない」というのは、その部分だけをとりだして「補助語幹」あるいは「語尾」として見るからであり、「었」が接続した用言は、その語基が活用するかわりに「었」が「었다,
었지, 었으면, 었어, 었는데, …」と「語形変化」しているのだと説明しようと思えば、そういう説明も成り立つ。(たとえば、『朝鮮語辞典』
油谷 ほか 1993 は、「었」の活用表を掲載している。)
さらに、「~たら(だら)」「~たり(だり)」を「~た(だ)」の「語形変化」形、あるいは活用形としてみるかどうかは、それ自体が議論をよぶ問題であるだろうと思う。(6)の「つくだろう」は、「-た(-だ)」と無関係。
일어의 변이형이 음편형의 조건에 의해 ‘-だ'로 변이된다. 한어의 변이형의 조건 보다 복잡하다.
教科書のP.217によれば、この本の立場は「-た」を助動詞だとする日本の学校文法とは別に、「-た」を語尾形態として見るとあるけれども、そうであれば、上の記述のように「語形変化」があるとするのは矛盾しているのではないか。また、韓国語の学校文法でいう「語尾」でも、「助動詞」でもなく、動詞の活用形の一部であるとするのが、そこでも参照されている寺村(1975)の立場であると思う。そして、寺村のように、過去形は用言の活用のひとつであり、「-た」はその活用形の一部なのだと説明するのなら、「音便」などという概念を使う必要はなく、動詞の活用の種類により、「た」でおわる過去形と「だ」でおわる過去形があるということで説明はすんでしまうだろう。そもそも、すべての用言の「過去形」から「過去」をあらわしている成分をとりだそうとしても、「た」になったり「だ」になったり、「んだ」でおわるときに「ん」が動詞の語基なのか過去を示す形態素なのか判別がむずかしかったりするところから、それを無理にきりはなして共通の成分を抽出せずに処理しようとするのが「活用」という把握のしかたの基本にあるのではないかと思う。そうであれば、「異形態」が生じ、「~たら(だら)」「~たり(だり)」などとの機能の分化もはげしく類縁性がなくなってきている「-た」は「活用形の一部」という処理が妥当ではないだろうか。
そのうえで、あえて「音便」をみると、たしかに複雑ではあるけれど、韓国語でそれに比較すべき現象も実は教科書にあるものよりも複雑である。
오다 : 오+았+다=왔다 쓰다 :
쓰+었+다=썼다
부르다 : 부르+었+다=불렀다
하다 : 하+았+아=하였다 돕다 : 돕+았+다=도왔다
입다 : 입+었+다=입었다 듣다 : 듣+었+다=들었다
낫다 : 낫+았+다=나았다
これらの現象を、いくつかの法則ですべて説明することは容易ではないだろう。また、こうした変化を説明するときに、ハングルのよる形態主義の表記が、その複雑さを薄める役割を果たしていることにも注意すべきである。たとえば、
잇다 → 이었다 있다 → 있었다 잊다 → 잊었다
の違いを、「ㅅ, ㅆ, ㅈ」という받침の違いによって説明するのは、音韻論的には成り立たない。これらの基本形は、みな同じ音韻によって発音されるのであるから、ハングルによる書き分けを根拠に説明するのは、あらかじめ模範解答を見ながら答案を書くようなものである。音声言語の現象として説明するためには、説明されなければならないのは、
/이따/ → /이어따/ /이따/ → /이써따/ /이따/ → /이저따/
という現象のはずではないのか。
さらに議論を進めれば、音素主義による上の表記をみると、音韻論のレベルでは、「-었」の実現形態が何であるのか、まったくわからなくなる。これら3つの語形変化を音韻としてみたときに、それぞれの左右の差分は
/어/, /써/, /저/ であり、そこには分節可能な共通の要素は/ㅓ/しかない。しかし/가다/ → /가따/ での差分は[+硬音化]であり、/ㅓ/ないし/ㅏ/が
ここでもし音声言語を重視した記述文法の立場にたつとしたら、いったい、表記の上でしか存在し得ない要素をとりだして「前語末語尾」などと呼ぶことが、はたして正当なことなのか、という根本的な疑問すらわいてくる。
すくなくとも、日本語の「-た」形にまつわる「音便」を論じるときには、その議論の範囲では充分に表音主義的であるひらがな表記をもとに、音韻現象としても理解できる程度の音韻と表記との対応をつけながら議論しているのであるから、それに比べて韓国語の「-었」の接続の規則が単純であるか複雑であるかを論じるのであれば、以上のようなことも併せて議論するのが当然であるというべきではないだろうか。
일어의 과거시제는 현재 시점에서 표현되기도 하는데 한어에서도 대응하는 형식이 쓰인다.
教科書の(8)は、‘確認'、(9)は‘気づき'の用法。ただし、(9)の韓国語は誤訳しているようである。
伊藤(1990)から、韓国語の過去と非過去の対立があいまいになるとされている文の類型で、これら以外のものをひろってみると、‘反問'‘はじめての行為'‘現時点までの数量的到達'‘意志決定の成立'などがある。これらは、だいたい日本語も「-た」形が対応するようである。対応しないものを『朝鮮語辞典』
1993 の「-었」の項でさがすと、以下のとおり。
62) 부산은 아직 멀었어요? 釜山はまだだいぶ先ですか。
63) 너는 이제 큰 코 다쳤다. お前はたいへんな目にあうぞ。(断定的な未来)
64) 아차, 죽었구나. わあ、もう駄目だ。(断定的な未来)
そのほか、생겼다, 묻었다, 다쳤다, 틀렸다に注意するように書かれている。また、単に 「にている」というだけでは不十分であり、どういう条件で過去形が現在をしめしているのかを用法と語彙の面から究明しないと いけないが、それについては いまは おいておきたい。
일어의 과거 미래형 ‘… ただろう'는 한어의 ‘-있겠-'형이 대응하고 있다.
(10)は「よんでいただろう」のほうが自然。「よんでいる」と「읽었다」(읽고 있다ではない)の対応が、そのまま過去になって あらわれている。「だろう」は「겠」の部分に対応しているのだから、教科書の下線のひきかたは理解に苦しむ。また、(10)も(11)も過去に対する推量や、現在までに完了していることの推量であって、「過去未来」の用法とは違うようにも思われる。
…だろう(推定辞 推量形) : -겠-
65) 彼は、明日行くだろうが、 66)
그는 내일 가겠지마는 ←単純な未来
失敗するだろう。 실패할 것이다. ←話者の推定
67) 68) 가겠다. ←明確な意志
私は、明日行く。 나는 내일
간다.
「行くつもりだ」という「明確な意志」をしめす言い方もある。
‘-だろう'형은 ‘…う/-よう'형과 더불어 추정표현으로 쓰이는 것이 일반적 경향이다.
69) これを開けたら喜ぶだろう。 70)
이것을 열면 기뻐할 것이다.
71) 明日も天気がよかろう。 72) 내일도 날씨가 좋을 것이다.
73) そんなことはあろうはずがない。74) 그런 일은 있을
리가 없다.
「天気がよかろう」は老人語か、で、なければ文語。「あろう」も、慣用的に使う以外は口語的ではない。
일어의 추량조동사 -う/-よう가 화자만의 의지로 나타낼 경우는 한어는 -겠- 으로 대응되기도 한다.
75) 今年の夏は北海道に行こう。 76)
금년 여름은 복해도에 가겠다.
77) これからしっかりやろう。 78) 이제부터 착실하겠다.
これらは、独り言を言う以外には、「話者だけの意志を表す」ことはない。勧誘や激励に使う形式である。むしろ、「-う/-よう」形は、無意志動詞とむすびついて、未来をあらわすことがある。
79) あしたは雨が降りましょう。
は、最近でも天気予報で使われている言い方である。
ここでは、「時相」という用語を使っているが、この教科書の方針は、アスペクトをテンスといったん分けて考えようとしているのだから、「相」と呼んだほうがいいようにも思う。
時制が終止叙述の必須の機能で「modality」の一つだというのは、にわかには納得しがたい。“テンスは意識の作用であり、叙法の問題だ”とする考えは、伝統的に日本の国語学のなかにもあるが、ここでは、文の終結に関わるということが述べられているのだから、観点が違うようでもある。
すでに、時制を表す形式について検討しているなかでも、それらの形式がアスペクトにも関わっていることが無視できなかったのに、それらとは別の形式に「時相表現の形式」をあてがい、それぞれに「○○相」とまで名称をつけることは、あまり妥当であるとは思えないが、ここでは教科書の整理に従ってコメントをつづける。
…て/で いる : -고 있다
-어 있다
[a]. 동작의 진행 : 계속상을 가진 동사가 주동사가 된다. (1)(2)
[b]. 동작의 진행 / 동작의 완료 : (3)(4)
[c]. 동작의
완료에서 결과하는 현재의 상태
:
결과를 나타내는 동사가
쓰인다. (5)(6)
[a] の動詞は、「あるく、はしる、およぐ、なく、たべる、よむ、(風が)ふく」など。油谷(1978)によるアスペクト素性は[-状態, -結果, -瞬間]。
# 油谷は、これをF類と名付けたが、韓国語では、가다, 오다, 오르다 も、ここに含めている。日本語では「行っている」「来ている」「登っている」は結果相になることが多いが、韓国語では「가고 있다」「오고 있다」「오르고 있다」は進行の継続相である。「와 있다」「올라 있다」の形はあるのだが、油谷はこれを「와서 있다」「올라서 있다」と解釈し、アスペクト形式であるとみていない。そのため、これらの韓国語の動詞はF類であり、日本語は[-状態, +結果, +瞬間]だとみるのである。ただ、日本語のほうについては、それでは少し無理があるかもしれない。
[b] の動詞は、「着る、かぶる、(ズボンを)はく、(めがねを)かける」など。再帰性の他動詞で、アスペクト素性は[-状態, +結果, -瞬間]。「~て いる」「-고 있다」が それぞれ二種類の意味をもちうる。
この分類には出てこないが、同じ[-状態, +結果, -瞬間]のアスペクト素性の自動詞もある。日本語では、「浮きあがる、かわく、変わる」などで、やはり「~て いる」が二種類の意味をもつが、韓国語では、このタイプの自動詞の場合、「-고 있다(進行の継続相)」「-어 있다(結果の存続相)」の対立があり、両方の表現が存在しつつも、互いに異なった意味をあらわす。ただし、韓国語でこのグループになる솟다, 차다, に対して、日本語の「そびえる、あふれる」は[+瞬間]としてあつかわれるようである(金田一 1955 の「第4種の動詞」)。
[c] の動詞は、韓国語では「-어 있다」をつかって「結果の継続相」を表せる自動詞で、「-고 있다」は使われないか、使われても反復相に解釈される。日本語では、「~て いる」が「進行の継続相」にはならず、「結果の存続」を表す。アスペクト素性は[-状態, +結果, +瞬間]。「すわる、たつ、倒れる、行く、着く、死ぬ」など。ただし、前述のように日本語の「行く」はここに含まれても、韓国語の「가다」は含まれない。なお、これらの動詞も、「~つつある」を使えば、無理やりにでも「進行の継続相」にすることができなくはない。
この分類には出てこないが、同じ[-状態, +結果, +瞬間]のアスペクト素性の他動詞もある。日本語では、「かかえる, おぶう, くわえる, だく, もつ, にぎる」などで、やはり「~て いる」は「進行の継続相」にはならず、「結果の存続」を表すが、韓国語では、このタイプの他動詞の場合、「-고 있다」が「結果の存続相」をあらわし、「-어 있다」の形式は使われない。韓国語では「가지다, (눈을) 감다, 맡다, 의존하다, 의지하다, 잡다, (책임을) 지다, (열차를) 타다」などがこのグループにはいる。(이기다 지다 は?)
한어에서는 -고 있다 형으로 동작의 진행을 -어 있다 형으로 상태를 나타낸다.
油谷(1978)らの研究によれば、これは不正確である。まず、韓国語では「-어 있다」は自動詞にしか使われない。したがって、他動詞では「結果の継続」を表すのに「-고 있다」が使われることがある。「-고 있다」が「結果の存続」を表しうる他動詞は、「再帰性の動詞」とよばれる。なぜなら、「結果の存続」相をとる動詞は主体変化を伴わなければならず、他動詞が(客体でなく)主体の変化を伴うということは、そこに何らかの再帰性がなければならないからである。浜之上(1992)は以下のように整理している。
|
自動詞 |
他動詞 |
進行相 |
하고 있다 |
|
結果相 |
해 있다 |
하고 있다 |
[d]. 과거에 동작이 완료 또는 경험된 것이 현재상태로 남아 있는 것. ([c]와 비슷한 용법) (7)(8)
経験を表す日本語の「~て いる」は、(7)のように、韓国語で「-고 있다」と言えるか、疑問であるが、回数をあらわしているときには、反復相としての用法が対応するようである。
…て/で しまう : -어 버리다
미래 시간 속에 종결태 (1)(2)
과거형과 함께 쓴 경우 (3)(4)
「~て しまう」は完了を表すというのは、まちがってはいないが、完了のアスペクトを示すためだけに「~て しまう」が使われることは、むしろまれである。一般的には、「失敗」「想像外の事態への驚き・困惑」などをしめすときに使われることが多い。そして、それらの場合に「~て しまう」がなくても動詞が完了相になっていることが普通なのであるから、アスペクトを示しているのは「~て しまう」でなく「-た(-だ)」であると考える余地が大きいのではないだろうか。
과거형 ‘-た'가 겸유하고 있는 시상(완료)
この部分の教科書の記述は、上と一致しており、「-た(-だ)」にこそ完了相のアスペクト表示機能を認めたもののように読みとれるが、「現在完了、過去完了、未来完了などで表現する必要はない」と言うまでもなく、そのような特別な形式自体が、日本語にないのである。
-て/で ある : -어 있다
완료상에 포괄할 수 있으나 동작의 완료에 의해 결과가 남아 있는 (존속) 상태
상태의 지속으로 보아 계속상에 넣을 수 있으나 결과에 종점을 두고 본다.
「-て/で ある」がアスペクトとして「完了」後の結果の存続を表していることは、そのとおりであろう。しかし、問題は、それと「-て/で いる」との違いではないだろうか。7.2.1で見たように、「-て/で いる」も「結果の残存」を表すことがあり、それは他動詞であることもしばしばであった。それと「-て/で ある」とは、交換可能でないことはいうまでもない。おなじ「結果の残存」をしめしながら、両者は相補的な分布をしている。
多くの研究が示していることは、「-て/で いる」が「結果の残存」を表すことができる動詞は、主体変化をおこす動詞だと言うことであった。主動詞の主体が動作によって変化した状態が持続していることを「-て/で いる」が表すからである。
これに対し、「-て/で ある」は、主動詞の主体の状態をあらわさない。教科書の例文にあるのは、すべて主動詞の対象語となる客体の状態を示しているものである。
多くの場合、「-て/で ある」は主動詞の客体が、動作によって変化した後の状態が持続していることを表しているが、そういう場合には、「-て/で ある」がつくことによって格のいれかえがおこっていることも観察できる。すなわち、「-て/で ある」には、アスペクト表示とともに受動態をつくる機能と同等の機能があるのである。
「-て/で ある」が格のいれかえをおこさず、かならずしも主動詞の客体の状態を表さないこともある。しかし、その場合でも、主動詞の主体の状態を示すことはない。一般に、そういう場合は、なにかに対する「準備」が完了したという意味を表していると、いわれている。
일어 ている/ある에 대응해서 한어에서는 -어 있다 형이 쓰이고 있다.
以上の考察により、教科書のこの記述は不十分なので訂正されなければならない。この教科書のここでの「-て/で ある」の例文は、すべて、主動詞の動作の客体に生じた状態変化の変化後の状態の持続をしめすものである。したがって、「-て/で ある」は動詞の受動化の機能も果たしており、実際、対応する韓国語で、「 -어 있다」がついているのは、「-て/で ある」の主動詞に対応する韓国語の動詞ではない。すべて、それらの被動詞についているのである。
-れる/られる : 補助語幹 -이, -히, -기, -리; 接尾辞 -되다, -당하다; [동사]-게+助動詞
[1]직접대상의 피동
受け身動詞の主語となるのが、本動詞に対して「を」格。
[2]상대(相對)의 피동
受け身動詞の主語となるのが、本動詞に対して「に」格。
이하는 일어 특유의 피동태이다.대체로 이 두 용법에 대응될 수 있는 한어의 피동사는 발달하지 못했으므로 피동태로는 불자연스러운 표현되는 경우도 있다.
[3]이해(利害)의 피동
いわゆる、所有の受け身。 受け身動詞の主語となるのが、本動詞の補語を、所有をあらわす「の」格で修飾できる関係にある。
[4]제삼자의 피동
所有の受け身を除外した間接受け身。ほぼ、例外なく「迷惑・被害」の意味をおびる。
일어 피돋태는 기본태의 자동사가 피동사로 표현되는 경우도 있고 [4]에 속함
自動詞が受け身になると、構文上、[4]以外には属しようがない。
【문제점】
(1) 한어는 세가지 형태가 있어 다양하변서도 그것을이 결합하는 동사가 제한되어 있는 점이 다르다. 일어에서는 보든 타동사에 ‘-れる/-られる'가 결합하지만, 그 형태가 공대, 가능, 자발 등 여러 기능에 다치적으로 대응하고 있다.
(2) 이해(利害) 피동태와 제삼자 피동태에 있어서는 양자가 꼭 일치하여 대응죄지 않는 점이 있고 특히 일어의 자동사의 피동태가 한어에는 능동으로 대응하고 있는 점이 난점일 것이다.
(3) ‘-れる/-られる'가 자발동사가 되는 경우도 갱기는데, 이것도 일종의 피동태로 다루시도 하고 ‘原始受身'이라고 칭하는 일본삭자도 있다 (浅野 信 1973).
자발의 경우도 한어에서는 능동으로도 대응되므로 약간의 난점이 있다.
-せる/させる : 補助語幹 -이, -히, -기, -리, -우, -구, -추 ; 接尾辞 -시키다; [동사]-게+하다
한어의 사역보조어간은 동사에, 사역접미사는 명사에, 그리고 사역조동사는 동사 부사형에 각각 붙는다.
타동사가 사역동사로 된 것
자동사가 사역동사로 된 경우는 기본태동작이 주체는 ‘を'격을 취하여 사역문으로 만들어진다.
本来は、日本語の使役には「強制・命令」(ヲ使役)と「許可・放任」(ニ使役)の2系統があり、「を」格が二重にならないかぎりは、前者は「を」、後者は「に」をつかうことが多いとされている。
うえの説明は、「強制・命令」の系統を念頭にいれたものだと思われる。
자동사나 타동사에서 파생된 조어형식으로 어휘상으로 사역의 뜻을 지니고 있는 파생동사도 있다.
他動詞と使役動詞の境界は連続している。
그러나 이런 예들은 사역의 뜻에서 많이 이탈되어 있다.
<한어의 사역으로는 잘 대응되지 않은 일어의 특수한 사역태>
・ 주체의 힘이 남에게 미친 것이 아니고 다력에 의해 본의 아니게 일어나는 남의 동작을 표현한 것
「強制・命令」にあたらなくても、使役動詞の主語となる人物が、なんらかの責任感を感じているときには、目下の存在にむかって使役表現を使うことがある。
・ 사역법에서 다시 피동태를 만든 경우
これは、「強制・命令」(ヲ使役)にだけ、あらわれる。
이런 경우에는 ‘-せられる' 대신에 ‘-される'의 형태가 쓰이는 경우도 있다.
「さ」がかさなって続くときには、この縮約形は現れない。
【문제점】
(1) 사역법도 양어가 일대일로 대응되지 않은 형태구조다.
(2) 한어 사역법에 없는 일어 특유의 사역법이 있다.
(3) 변이형태 ‘-せる/-させる'의 구별 사용에 난점이 있을 것이다.
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