つぶやき会議室

つぶやきなのに、会議室です。会議室ですが、つぶやきます。

1998/08/17(14:47) from 164.124.67.91
作成者 : きんちょ (AKIZUKI@chollian.net) アクセス回数 : 66 , 行数 : 182
Re:#130 『疑わしくは…』 再論
 スグルさんの#130の投稿の最後の部分は、いろいろと かんがえさせら
れます。

 一連の議論とは すこしはなれたところでの はなしなので、その す
ぐしたのコメントでは あまり ふれませんでしたが、むしろ こういう
かんがえかたに かかわる部分で、きちんと議論をすべきなのではないか
と、おもいなおしました。

 そこで、あらためて、別項のかたちで この部分をとりあげます。
 
 #130では、つぎのように かかれています。ながくなりますが、そのま
ま引用しましょう。

   ここで最後に僕の慰安婦問題における見解と疑問を示しておきます。
   僕としても証言がウソばかりとは思っていません。貧困ゆえ、過酷な運命を
  たどった女性はいたはずです。いわれの無い暴力を振るわれた人もいる事でし
  ょう。その中には自らすすんで慰安所に来た人ももちろんいるでしょうが、よ
  っぽど追いつめられない限り、大抵の女性は「出来れば売春行為はしたくない」
  と考えるものです。証言集を読んでみても、ジ〜ンと熱くなって涙が潤んでく
  ることも多々あります。しかし慰安婦問題について異論・反論を読んできた僕
  にはそこでどうしてもブレーキがかかります。

   もちろん元慰安婦の人達の目的には「過去の傷を癒す」という事が前提であ
  ることは理解できます。しかし彼女らが「日本が憎くてたまらない」などの発
  言をしたとき、そこでブレーキと同時に疑いの念が出てきます。「この人はも
  はや日本を憎む事でしか生きがいを見つけられなくなってしまったのでは…?」
  と。



 ここの ところで、わたしは しばらく かんがえこんでしまいました。

 じつのところ、韓国でくらしている わたしにとって「日本が憎くてたまらない」
などという ことばは、それほど びっくりさせるようなものでは、ありません。
もちろん、面とむかって わたしに そのようなことをいう ひとは ほとんどい
ませんけど、興奮したとき、わたしが日本人としらずに ちかくにいる韓国人と日
本はなしをするとき、これに類する ことばが はかれることは、まま、あります。
また、最近でこそ新聞に そんなことばが のることは すくないですけど、テレ
ビのドラマでの せりふなんかには 規制がないので、ときどき 日本に対するや
りきれない きもちが そのまま ことばになって でてくることがあります。

 しかし、こういう被害者たちも、個人として あいにいって、世間ばなしをして
いるときに、こんな せりふをはくことは、ほとんどありません。ほかにしらない
からという 理由もありますが、裁判なんかで来日したときには、日本の歌、とき
には軍歌をうたったりもします。それを わかい日本人がしらないと、残念がった
りすることも あります。

 わたしは、「日本が憎くてたまらない」という 直接的なことばより、そんな
すがたを みているほうが、むねが いたくなってりするのですが、あえて冷静に
なっていえば、こんなことも、彼女たちがおかれた痕跡なのであり、からだに き
ざまれた 「慰安婦」にされた「証拠」なんですよね。

 そのばの 状況をしらないので、断言はできませんが、「日本が憎くてたまらな
い」というのは、韓国社会では、このようなばあい、モンキリ型のいいかただと 
いえます。韓国では、記者会見などのときは そのようにいうのが あたりまえに
なっている、とでも いいましょうか。これは、なにも、「慰安婦」問題が浮上し
なくても、まえから そうなのです。で、もし、もと「慰安婦」の被害者が その
ようなことを いったとしても、演技をしているというよりは、はじめて記者たち
のまえにたたされて、なにをどういっていいかわからずに、そう いっているとい
う可能性もあります。日本人が、なれない結婚式の披露宴で どこかできいたよう
なつまらない はなしをしてしまうのと おなじです。

 もちろん、「日本が憎くてたまらない」という きもちを かのじょたちは実際
にもっていると、わたしも おもいます。それと 同時に、かのじょたちの支援を
みぢかでしているひとは、このようにも いいます。
  
 「かのじょたちは、ゆるしたくて たまらないのです。」  



 つぎに、失礼を承知で、スグルさんの心理分析も させていただきます。

 ご本人も およみのことでしょうから、まとはずれなら、そういってください。
あくまで、わたしの 想像です。あたっていないのなら、むしろ さいわいなこと
なのです。

 わたしは、もしかして、スグルさんは、「日本が憎い」という発言に、なにか、
イデオロギー的な反応をされているように おもうのです。たしかに、日本で、そ
のような ことばをはくひとは すくないし、そんなことをいうのは 尋常じゃな
い。そして、ごく一部の ちょっと理解しがたい極左的な思想のもちぬしだけが、
日常的にそんなことをいっている(ように おもわれる)。

 でも、韓国で「日本が憎い」というのは、そのような イデオロギーとは まっ
たく関係ないのです。みぎも ひだりも、そんなことをいうし、そういっている
同一人物が つぎの ひには 日本からのお客さんをもてなしていたりもします。
このへんの アンビバレンツな 感情については、このHPでも おりにふれて
かいていますが、どうも うまく えがききれていないようなきもします。
 たしかにマスコミや教育が それを増長させている面が なくはないけど、この
感情は、スポーツで自国のチームを応援し、ちかくの にたものどうしのチームに
はライバル意識をもつようなもので、そとから注入されて 意図的につくられた
感情だとはいえないものです。そして、実は、もと「慰安婦」たちの告発が、こう
した日本に対する感情にのみうったえ、かのじょたちが 戦後の韓国社会でうけて
きた くるしみや、現在の生活の問題に 韓国社会が意外と無関心になってしまう
ことに いちばん憤慨しているのも、もと「慰安婦」のかたや その支援者たちだ
ということも、いいそえておかなければなりません。

 ある意味では、韓国人が「日本が憎い」というのは、日本人の 戦前世代のかた
が ときおり くちにする「戦争がにくい」というのと、つうじるところが あり
ます。それと同時に、そこには のりこえがたい みぞも あるのですが。
 ただ、その のりこえがたい みぞには いまは ふれず、わたしは、スグルさ
んに、つぎのことを いってみたいのです。

 日本人の 戦前世代のかたが ときおり くちにする「戦争がにくい」という 
ことばは、「東京裁判史観」の影響によるものでしょうか。あるいは、日本にほこ
りをもてなくする、「自虐的」な思想の反映でしょうか。
 わたしは、ちがうと おもいます。これは、ことばにされたイデオロギーに さ
きだつ実感なのです。この「実感」は 「日本がにくい」でも、「アメリカがにく
い」でも、「ソ連がにくい」でもなくて、「戦争がにくい」なのです。ところが、
韓国では、その おなじ「実感」が 「日本がにくい」としか、表現のしようがな
いのだということ、そこで かたられている「日本」とは なんなのかと、とらえ
かえすことが、この問題をかんがえる わたしたち「日本人」に とわれている
ことであり、「自虐か傲慢か」というような 貧困な選択肢から脱するために い
ちばん大切なことなのでは ないでしょうか。




   96年SAPIO(1/15)号の西岡力氏によると故金学順氏は「なぜ過去の
  恥をさらしてまで名乗り出たのか」という問いに対し本当に心を許した人には
  「訪ねて来る人もいなくて寂しくて…。」と漏らしていたとか。この話が真実
  かどうかはわかりません。しかしこれにより僕は証言に対して一歩距離を置く
  という姿勢を持つべきだというキッカケがつかめました。

 わたしは、西岡氏の記述がウソだとは いいません。
 しかし、金学順氏が なのりでた理由は、かのじょ自身が なんども おおやけ
のばで いっていますよね。「日本政府が ウソばかりつくからだ」と。

 これを否定して、うえのはなしが真実だというのなら、西岡氏は どうして そ
う かんがえられるのか 根拠をしめす必要があります。でも、それは できない
でしょう。「日本政府が ウソばかりつくからだ」というのが とても強い かの
じょのきもちであったことは、みんなが しっているのですから。そして、そのう
えで、「訪ねて来る人もいなくて寂しくて…」という ことばも かさねて理解を
するべきです。

 わたしが しっている事例では、もと「慰安婦」の被害者たちが、なのりでるま
では孤独だったけれども、なのりでることによって、自己が解放され、あたらしい
理解者がうまれ、はじめて うちとけて はなしができる友人ができたと述懐する
ことが ありました。こういう事例も、西岡氏にかかっては、うえのように かか
れてしまうのかと、おもいました。
 

   例えば関釜判決がおりたその日の夜、ニュースステーションだったと思いま
  すが、その中で現在に至るまでの経緯を説明したVTRで「『慰安婦はいなかっ
  た』と言っている人がいるそうです。あんまりです。」と泣き叫ぶ元慰安婦が
  映し出されました。この時僕は自分の目を疑いました。そんな酷い事を言って
  いる人がどこにいるというのでしょう。僕は戦時中に兵士を相手に性のサービ
  スをしていた女性の「存在自体」を否定する言論人を見た事がありません。こ
  こまで来るとどうしても彼女らも一般人の同情を誘うための「戦略」に基づい
  て発言しているのだと思わざるを得ないのです。


 スグルさんが しらなくても、そういう「酷い事」を いうひとは います。
 もちろん、実際の発言は、『慰安婦はいなかった』ではなくて『慰安婦問題など
問題ではない』かもしれないし、『慰安婦というのは、公娼だ』かもしれません。

 しかし、もと「慰安婦」の ばあちゃんたちは、このひとたちと論争をしている
たちばでは ないのです。これらの ことばが 自分たちにむけられたと感じたと
き、どのようなレトリックであれ、自分たちの うったえを うけとめて発言して
いるのか、無視して発言しているのかを とうているのでしょう。
 有名な永野元法務大臣の発言などは、政治的信念をのべたものとさえいえません。
現実に自分たちが「慰安婦」として なのりでている状況で、それを無視して い
ったものとしか とりようがありません。で、なければ、永野氏は、この ばあち
ゃんたちが うそをついていると はっきりと証拠をあげて論じなければならなか
ったはずです。それもできないで、あのような無責任なことをいったのですから、
『慰安婦はいなかった』どころか、『証言している あなたたちは この世に 存
在しないのも おなじだ』ということを かれは いったのです。

 『慰安婦はいなかった』というのは、もしかしたら正確な引用ではないかもしれ
ません。しかし、以上のようなことへの感性を なくしたまま、引用が正確でない
ことを せめることに、どれだけの 意味が あるのでしょうか。



 おもわず、ながくなりました。思想にかかわることなので、その かんがえかた
の もとになっているところから かきはじめないと いけなかったからです。
 
 ほんとうは、こういうことのほうが、議論しなければならないことなんでしょう
けど、しんどい話題でもあります。

 いくら ことばをつくしても、共感するひともいれば、しないひとも いるでし
ょう。コメントは、きがむいたときだけで けっこうです。
(まあ、このば じたいが、全部 そういうルールなんですけどね。)

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