つぶやき会議室

つぶやきなのに、会議室です。会議室ですが、つぶやきます。

1998/08/26(13:58) from 164.124.70.140
作成者 : 竹国友康(神戸市) (takekuni@osk2.3web.ne.jp) アクセス回数 : 93 , 行数 : 44
【メール投稿転載】1998年夏・巨済島訪問記
 8月26日に、読者のかたから、メールで投稿をいただきました。

 いたく 感謝するとともに、ここに掲載させていただきます。

 投稿をいただいた、竹国友康さんには、投稿のなかで ふれられている
ご本が 出版されたときには、あらためて、おしらせいただきたいと存じ
ます。こちらでも、ぜひ、紹介させていただきたいので。

 また、この原稿は、「作者から/作者へ」のページにも常時掲載するこ
とにしました。


                        管理人  きんちょ

1998年夏・巨済島訪問記     





 私は、旧日本海軍が日露戦争後、韓国・鎮海(チネ。プサンの西方約50キロ)に軍港を建設する経緯を中心に、植民地時代(日帝支配の時代)の鎮海の歴史を研究しています。
 その研究のなかで、私が韓国・巨済島(鎮海の南にある、済州島に次ぐ韓国第二の大きさの島)に関心をもったのは、ひとつには、鎮海軍港の前身ともいえる海軍基地(「海軍仮根拠地」と呼ばれた)が、日露戦争期にこの島の北端部にある松真浦に建設されていたからです。鎮海の歴史を語るには、この巨済島にあった仮根拠地に触れなくてはなりません。
 もうひとつの理由は、作家・司馬遼太郎氏が「坂の上の雲」のなかで、ロシアのバルチック艦隊を迎撃するため韓国・鎮海湾に集結した連合艦隊について書いているのですが、それがかなり「いい加減なもの」だからです。それは次のようなものです。



「三笠はゆるゆると湾内に入り、やがて松真浦といわれるあたりに錨をおろした。
 おどろくべきことに、陸上にはこの艦隊が使用すべきなんの建物もたてられていなかった。むろん艦隊の乗組員をなぐさめるべき慰安施設もなく、待機がいかに長期にわたろうとも司令長官以下すべて艦内ぐらしをするしかないといった状態であった。要するに韓国の領土である陸上とはなんの交通もなかったのである。」(文春文庫版、第六巻)



 歴史「小説」とはいえ、司馬氏自身も取材者として「小説」内に登場するノンフィクション的な作品で、まったく事実に反した記述、つまり松真浦の海軍基地の存在を隠蔽していることはおおいに問題があるし、それこそ「歴史修正主義」ではないかと思ったわけです。
 以上のような理由から、1997年4月、1998年8月に巨済島に出向き、仮根拠地跡などを確認しました。



 巨済島に行くにはいくつかのルートがあるのですが、今回(1998年)は、プサン港の沿岸旅客船ターミナルから、巨済島の東海岸にある玉浦(オkポ)ゆきの快速艇を利用しました。船は、快速であるにはちがいなかったのですが、揺れも相当なものでした。
 玉浦は、「壬辰倭乱(文禄の役)」時に、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本水軍に壊滅的打撃をあたえた海戦のあった湾で、現在は大宇重工業の造船所があります。ここで、地元の郷土史研究者とおちあい、彼の案内で松真浦の根拠地跡や、連合艦隊が射撃目標とした無人島などを見て回りました。



 松真浦は昔からの半農半漁の小さな村です。ここへ、1904年2月、日露開戦直後に日本海軍が予定どおり侵入し(住民から見れば突然の出来事)、住民たちを強制退去させ、通信・補給・掃海などの機能をもつ前線基地を約4カ月の突貫工事で建設したのです(佐世保軍港から約二千名の労働者が連れてこられていた)。また、周辺の島にも要塞(砲台)や通信施設などがつくられました。
 司馬の記述とはまったく反対に、1905年2月から鎮海湾に集結した連合艦隊は、陸上にあったこの基地の支援によって、5月の日本海海戦までの間、さまざまな海戦演習を湾内でおこなっていたのです。
 基地司令部や関連施設は松真浦の丘を切り開いて建てられました。その位置は、いまも校舎だけは残っている松真浦国民小学校跡(初等学校と改称される前に廃校となった)あたりです。ことの順序としては、海軍基地がつくられ、そして基地が1912年に鎮海に移って後、その跡地には日本人たちが住んでいたらしいのですが、さらに解放後、そこに学校が建てられたわけです。
 巨済島から帰って、防衛庁の図書館で調べたところ、日露戦争当時の基地周辺の概略図を見つけることができました。石造りの桟橋、水の蒸留設備(飲料用だけでなく、当時蒸気機関であった艦船の給水用のものでもあったと思う)、食糧・衣料倉庫、病院、隔離病棟などをそなえた、本格的な基地であったことがわかります。その略図に描かれた道路は、現在もそのままあるので、司令部が松真浦国民学校跡地あたりにまちがいなくあったことも、これではっきりしました。



 今回の調査もふくめ、鎮海の近代史(そのまま日本の朝鮮植民地支配史です)について、来年の初めごろ、本にして発表する予定です(題名未定)。くわしくは、ぜひそちらの方をごらんください。
 最後に、司馬による、歴史の隠蔽についてひとことだけ述べたいと思います。
 司馬が、松真浦の海軍基地の存在を知っていながら(作品で「松真浦」という地名を上げていることから明らかでしょう)、その存在を隠したのは、日本軍が朝鮮に侵入していたのでは、日露戦争が侵略戦争であったことが明らかになってしまうからではないでしょうか。「清廉でモラルの高かった明治」という司馬のテーマを、この基地の存在は打ち砕いてしまいます。司馬は、読者の目をもっぱらロシアとの戦争にだけ向けさせ、「韓国の領土」には向けさせないようにしたのです。
 現在、日本の歴史教科書(日本史)にも、日露戦争の関連図が載っていますが、日本海(東海)海戦については記されていても、その出撃地点、つまり鎮海湾は空白のままです。この空白は、そのまま日本社会でのコリアについての歴史意識の「空白」を意味するものでしょう。私たちは、さまざまなテーマで、そしてさまざまな方法で、この空白を埋めていく作業をそれぞれの場所で地道に重ねていく必要があるのではないでしょうか。それはまた、この日本社会をどう作りなおしてゆくのかという問題とも重なるものだと思います。



(終わり)



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