つぶやき会議室

つぶやきなのに、会議室です。会議室ですが、つぶやきます。

1998/10/23(00:45) from 164.124.70.146
作成者 : きんちょ (AKIZUKI@chollian.net) アクセス回数 : 76 , 行数 : 227
Re: 三段論法は成立しないU(後半部分)
 『三段論法』にかかわる論議の後半部分への おこたえです。

 これからふれる部分は、多少本論からはずれていますが、すぐるさんが、「強
制連行を受けた比率はわずか0.8%から1.2%」と計算したことについて、わたし
が反発したことから はじまった議論です。
 すぐるさんは、この「わずか0.8%から1.2%」という推計を撤回するそうなの
で、その数について さらに追及するするかんがえは ありません。しかし、わ
たしが問題だとおもったのは、その計算の方法にみられる すぐるさんのかんが
えた前提条件なのです。すぐるさんは、「強制連行」を証言しているひとの か
ずを 「慰安婦」全体のかずで わって計算しました。そこで、

   >証言者がすくないのは、なのりでているひとが すくない
     >からでしょう。なのりでているひとの おおくが 証言し
     >て、その おおくが「強制連行」に該当するというので、
     >どうして いけないんですか。
     > 「なのりでていないひとは、みんな自分の意志でいった
     >んだろう」という 意味なんでしょうか。そんなこと、ど
     >うして いえるんでしょうか。

と、わたしは、といただしたのです。こういう計算は、どうかんがえても、「証
言していないひとは、全部 強制連行されたひとではない」という前提に たっ
ています。一方で、証言者の証言を全部信用するという仮定で計算していながら、
証言していないひとは 強制連行ではないという、根拠のない仮定をおくのは、
態度が一貫していません。「証言していないひとは、全部 強制連行ではない」
というのは、「証言は全部うそだ」と いうのにもおとらない乱暴な仮定です。
ちょっとかんがえてみても、強制連行されて慰安所のあるところで死亡したひと
もいるし、生還してからも なくなっているひともいます。50年ぶりに韓国に
帰国したカンボチアのホン・ハルモニのように、なのりでるにも 発見されるま
で うったえる方法もなかったひとも いるでしょう。そして、いま、証言して
いるひとたちも、ながいあいだ、家族にさえも自分の過去をかくしていたという
ケースがおおいのですから、いまでも沈黙をまもっているひとは かなりいると
かんがえるのが、当然というものです。一見、「証言を全部信用したとして」と
のべ、最大限におおく みつもっているようなかきかたをしながら、同時に、こ
のような、根拠のない非現実的な仮定をしのびこませて、数値をひくく計算する
というのは、ことばの詐術というべきか、とにもかくにも どうにも げせない
のです。

 この問題点は、すぐるさんが、「前回の”強制連行を受けた比率はわずか
0.8%から1.2%”という僕の論は撤回せざるを得ない」とした、修正された説明
のなかにも維持されているようです。なぜなら、すぐるさんが修正した理由が、
わたしの指摘にもかかわらず、「証言していないひとも強制連行の被害者である」
可能性に考慮したものではなく、全体の「慰安婦」のかずが より ひくくみつ
もられたからにすぎないからです。
 
 そうである以上、わたしは、つぎの疑念をふたたび提起せざるをえません。
     > スグルさんは、一般のレイプ被害者でも、なのりでて証
     >言したひとだけが被害者で、あとは、ほんとうは自分から
     >さそったりしていたから なのりでないのだと、かんがえ
     >ますか?

これを「非道人間よばわり」などと いうまえに、すぐるさんは明確に否定すれ
ばいいのです。わたしも、すぐるさんが そんなふうには まさか、おもってい
ないだろうという前提で こう きいているのですから。

 ただ、「非道人間」ではないのなら、つぎの質問には こたえていただきたい
とおもいます。

1.強制連行の被害者が慰安所にいれられたばあい、レイプがおこなわれている
 のでは ないのか。ちがうのだとすれば、どこが ちがうのか。

2.どこからみてもレイプである事件の被害者が 相当数 なのりでないでいる
 ことを みとめるのなら、強制連行をうけて「慰安婦」にさせられた被害者に
 も なのりでないでいるひとが 相当数いる可能性も みとめるべきでないの
 か。

3.うえの「可能性」を みとめるのなら、証言のおおくが「強制連行」があっ
 たと いっており、いったん それを全部信用すると仮定して計算する以上、
 なのりでていないひとも、おなじぐらいの比率で「強制連行」があったとかん
 がえるのが、「ゼロだ」と かんがえるのよりも はるかに妥当なかんがえか
 たではないのか


 以上は、すぐるさんが、いったん「証言を信じるとして」と仮定して、おおく
みつもったばあいの計算をしていたので、その文脈で反論したことです。しかし
すぐるさんは、実際のところ、証言のすべてを信じるにたるとはおもっていない
ようですから、わたしが、「証言が強制連行をうらづけている」と かいた表現
にも、つぎのように反論されました。
 
     それは「裏付け」とは言いません。それは単に元慰安婦と称する人達が「
   私は強制連行されました」と「証言」しているだけにすぎません。あくま
   で「裏付け」には証言に一致する証拠が必要なのです。・・《中略》・・
   あなたがた告発側が証言内容を証明する裏付けを取り、そこから僕ら反対
   論者の反論が始まるのであって「証言だけ」なら何とでも言えます。

 「強制連行をうらづけている」と かいたのは、文書などからよみとって、予
想されていたことと、でてきた証言が、一致しているということです。このばあ
いなら、被害者がなのりでるまでのあいだ、日本人の回想録や、匿名の体験談な
どから推測されていたことを うらづけたということです。それなら、「文書に
あわせて証言をつくっているのではないか」とおもうかもしれませんが、そうで
はありません。
 韓国で 金学順さんが なのりでた時点で、すぐるさんが指摘されているよう
に、韓国では「挺身隊」といえば「慰安婦」のことだというのが「常識」になっ
ていました。しかし、金学順さんは、自分が「挺身隊」として連行されたとは、
最初から一回も証言していません。また、そのころ、吉田証言などの影響で、軍
隊が暴力的に連行したのだろうというのが、日本でも韓国でもひろまっていたイ
メージでした。しかし、金学順さんをはじめ、それにつづいて なのりでたひと
たちのはなしは、圧倒的に「業者にだまされた」と いうものでした。そして、
軍が業者をつかってあつめさせていたという資料は、有名な『副官通牒』をふく
め、そのごに報道され、発表されるようになったのです。
 こういう、証言するがわの意図がはたらかないところでの一致こそが、証言の
シンピョー性をたかめ、同時に、資料解釈の妥当性を確保しているのです。

 こういう証言と客観状況のつきあわせから、証言そのものを認定していく作業
ぬきに、「証言はいくらでもつくられる」といって、その価値をはじめからすて
てしまっては、現実におこなわれている裁判はほとんどなりたたなくなってしま
います。裁判に証人をよぶ意味もなくなってしまうでしょう。
 さらにいえば、すぐるさんが今回、紹介してくれた「支那渡航婦女子の取扱に
関する件」が 内地からのおくりだしのみを規制していることは、「強制連行」
の被害をうったえる日本人「慰安婦」が なのりでてこないことと軌をいつにし
ています。この件に関しては ほかの理由もかんがえられそうですが、「支那渡
航婦女子の取扱に関する件」にみられる差別政策が、その証言全体の傾向と一致
しており、これら証言全体の傾向は、だれがどこでなにを証言するかをコントロ
ールするような権力を想定することができない以上、資料にひきずられておこっ
たものではないので、「証言が資料をうらづけている」といえるでしょう。

 反対に、むしろ文書のほうが、証言とちがって、はじめから「つくられた」も
のだと いうことを わすれてはいけません。すぐるさんは、

     そうですね。例えば有名な昭和13年2月23日に内務省から出された「
   支那渡航婦女子の取扱に関する件」(新ゴー宣3巻にも収録)などを見て
   も、渡航する際は本人自らが警察に出頭して身分証明書の申請を行わなく
   てはならない決まりとなっていたり、最近警察大学校から出てきた「通牒
   案 南支方面渡航婦女の取扱に関する件」では・・

などとかき、その文書がどのように「つくられた」ものかを 無視しています。
 「支那渡航婦女子の取扱に関する件」は、内地の各県の警察が、業者の乱暴な
徴集によって 地方で混乱がおきており、これを規制しないとたいへんなことに
なると、報告された資料に対応するかたちで、でてきています。このような規制
対して、「通牒案 南支方面渡航婦女の取扱に関する件」では、「それでは、軍
の要求にこたえられない」という問題意識が冒頭にのべられており、一種の規制
緩和をしたものだとかんがえられます。そして、その過程で、台湾や朝鮮からの
おくりだしがふえていくのです。
 こういう意図でつくられた文書であることをみていないから、それが内地から
のおくりだしを対象にしたものであることも、みおとしてしまうのです。「娼婦
の経験のあるものは、性病のもとになるから、性体験のない少女を朝鮮からつれ
てくるのがいい」という かんがえがあったことは、性病を検査した軍医の報告
書が、結果的にそのような方向へうごく一因になったのではないかと指摘されて
いることを のべたのですが、このことも、「処女を連れてこい」などという命
令があったということではなく、日本内地ではそんなことはしないように通達が
でるようになっても、朝鮮人にたいしては おかまいなしだったということをい
っているのです。

 
 のこった部分については、簡単に おこたえすることにします。


     > 戦地や植民地からの おくりだしで、軍がまともに犯罪
     >をとりしまったという証拠は どこにあるのですか。
     上記で紹介したURLで資料内容を御参照下さい。

これは、戦地や植民地に適用されたものではありません。


     >「慰安所を設置したこと」と「強制連行」とは表裏一体
     >だったといっているのです。・・
   ・・しかし「表裏一体」とは話にならない。犯罪というのはいつの時代も
   どんなに取り締まっても起きるもので、そう言い出したらこの世の人類文
   明自体が犯罪と表裏一体です。

 このひとつまえの投稿で、すぐるさんの文章の前半部分にこたえた文章をよん
で、わたしがなぜ「表裏一体」といったのか、もういちど かんがえていただけ
ればと おもいます。


   「強制連行と不可分の「慰安所」を あんなに大規模に経営したのは、や
   はり 例がない」と、結局のところ日本を特殊化している。なぜそうまで
   して日本を、ひいては祖先の代を50年以上さかのぼって犯罪者に追い込
   みたいのか、常識のバランスを失ってまで善人を目指したいという心理が
   全く理解できないところですが、・・

 すぐるさんの論理だてをおいかけることが困難です。日本の事例の特徴を、ほ
かのくにとの共通点と独特な点に わけてかんがえることが、「特殊化」なら、
日本についてなにかかたれば、すべて「特殊化」していることになりますが。そ
れと、「先祖の代を」「犯罪者においこむ」ことと、「常識のバランスを失う」
ことと、「善人をめざす」のと、なんの関係があるんでしょうか。
 こういう、まとをいていない心理分析はすぐるさんの想像の産物にすぎないわ
けで、それを「理解できない」のは、もともとの想像がゆがんだ像をむすんでい
るからでしょう。


     ではどちらにしろ結局証拠不充分により日本は無罪と言えるのではないで
   しょうか。

 わたしは、軍の力がおよば「なかった」から とりしま「れた」可能性がある
と、かいたのですが。


     >しかし、この「論法」と、"「慰安所の存在そのもの」を悪
     >とみなし""「当時の実情を踏まえぬ『架空の倫理』に基づ
     >いて断罪する"発想とは、さらに 無関係です。
     いいえ、決して無関係ではありません。

 以下、ながながと説明されていますが、「軍の関与による強制連行があった」
というのが、ここで議論してきた「三段論法」の結論なのですから、それだけな
ら、形式論理的にみちびきだせることで、やはり無関係なんですね。まえの文章
でくわしくのべましたが、無理してみじかくまとめれば、軍がある場面では「い
い関与」をしたということが、現実に存在する被害者に対しては、なすべき「い
い関与」をしなかったという「わるい関与」の証拠になっているわけですから。 


   今ほとんどの現代人の中では一方的に「日本は悪だった」という風潮が蔓
   延していますが、ただ単純にそう思っている人でも当時には当時の倫理観
   があるという認識と人間社会のへの厳しさぐらいはしっかりと心得ている
   ものですから、・・

 日本が過去におかした あやまりを、「日本は悪だった」とか、「善だった」
というかたちに集約して理解しようとするのは、そこのあさいかんがえかただろ
うとおもいます。同時に、国家権力による犯罪が認定されれば、わたしたちの先
祖が ねっからの悪人だということにされてしまうと かんがえるのも、へんな
かんがえなのであって、むしろ、それをはっきりとみとめることができない心性
のほうが、「当時には当時の倫理観」というりくつで、いまの倫理観もまた、仮
面にすぎないのではないかと、外部のひとに うたがわせるのにじゅうぶんな作
用をはたしています。
 人間は、社会に拘束されるから、そうそう、その時代の倫理観などから自由に
はなれないということなど、だれも否定しているわけではなく、そのことを無視
して、ひとりひとりの日本人をことさらに悪人あつかいしようとしているひとも、
実はほとんどいないのです。問題は、いま、日本人がもっている倫理観が、当時
と どれほどちがっているのかが、うたがわれているのであって、もし、倫理観
がほんとうにかわったのなら、きちんと反省できるはずのことが、反省できてい
ないように みえることなのです。
 もし、反省しているのなら、たとえ、「当時は、当時の倫理観の限界のために
うごかしがたいことがあった」といえる部分があるにしても、いま、謝罪と賠償
をもとめているひとたちに対しては、いまの価値観で対応できるはずなのではあ
りませんか?



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