つぶやき会議室つぶやきなのに、会議室です。会議室ですが、つぶやきます。 |
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| 1998/05/06(09:34) from 164.124.67.151 | |
| 作成者 : きんちょ (AKIZUKI@chollian.net) | アクセス回数 : 92 , 行数 : 95 |
| 「古代から一本の糸でつづく日本語」批判 |
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「壁」の記事、《再び、「国語」と「日本語」問題について》にメーリングリストで質問が寄せられました。 これは、その質問と、わたしの回答です。 > ひとつ質問なのですが、こちらに書かせてください。「日本語は > 古代から一本の糸で連なる民族(祖国だなどと言う人もいる)の > 言葉だ」が「明らかなウソ」であるという点ですが、これは、 > 「古代から一本の糸で連なる民族」がウソだというのでしょうか。 > それとも「日本語は(古代から云々の)民族の言葉」という部分 > がウソだというのでしょうか。 自分の書いたものを読んで、ちょっと感情がつっぱしってしまったかと思い ます。論理構成もお粗末だし。ただ、一度文章にして、問題意識を明らかにさせ ておきたかったのです。たぶん、その問題意識がまだ錯綜しているので、わかり にくい文章になってしまっているのだと思います。 ご指摘のところですが、もとの文は、 わたしは、「日本語学」が、「国語学」と同一の対象を扱っている 以上、相互の批判があるのが当然だし、その中で、「日本語は古代から一本の 糸で連なる民族(祖国などと言う人もいる)の言葉だ」などという明らかなウ ソは克服されていくものだろうと楽観していた。しかし、事態はそうではない らしい。 です。で、結論から言えば、[a]日本人が「古代から一本の糸で連なる民族」とい うのも、[b]「日本語は古代から一本の糸で連なる言葉」というのも、 ウソだと思います。で、もっと問題なのは、[c]たとえ「民族」 「祖国」などの成立がある時点で確認されるのだと仮定しても、それ(古代)以 前から日本列島の住民は話し言葉を持っていたに違いないことを無視しているこ とです。つまり、民族や祖国のおかげで言葉があるわけではないんですね。ま たは、民族として認めてもらえない集団の言葉や、祖国に保護されない言葉こそ、 「日本語」以上に「古代からつながってきた」と言ってみることもできます。 [c]については、ここであまり深く書く必要がないと思います。[a]に ついても、民族のほうは、古代から繰り返された征服劇を想起すれば十分だと思 うので、ここでは[b]について、もう少し書きましょう。 古代に、いま「日本」と考えられている地域で使われた言語と、今の日本語 との関係ですが、無論、戦争その他の理由で、日本列島の住民が総交替してしま うような事態が認められない限りにおいて、そこにはなんらかの連続性があるで しょう。しかし、そういう「連続性」は、たまたま現在「日本」とされている地 域で展開されたものだけに認められるものではなく、現在「周縁」「国境」と意 識される地域でも、現在意識される「境界」をこえて認められるものだというこ とです。同時に、「日本列島の住民が使った言語」とひとくくりに言ったものの なかにも、古代から現代に至るまで常に非常に大きな変異がありつづけてきただ ろうということも付け加える必要があります。 一例をあげれば、「万葉集」などがいい例で、これが朝鮮語であると決めつ けるのも一方の側のファナティックな議論なのかもしれないけれども、少なくと も渡来人たちがかかわって、「万葉がな」とよばれる漢字を駆使して書いたもの ですから、「日本語として読まれなければならない」という根拠もないと思いま す。むしろ、これを「日本語」だと意識させるためにどれだけの手続きを必要と しているかということを考えたら、私には高校で習った「漢文」だって、日本語 だったんじゃないかと思えてきます。(じっさい、擬漢文というものは日本でず っと生産されてきたわけでしょう?)一般の日本人には、現物を見せられても、 (不可能な話しだが、その音声−−それがあったとして−−を再現して聞かせら れたとしても)まず自分たちの言葉との連続性さえ理解できない「日本語」を「 日本語」というのであれば、「日本語」の定義のほうがあやしくなってくるのが 正常な感覚だと思うんですが、そこを無理矢理に「一本の糸で連なる」(昔の言 葉で言えば”万世一系の”)集合体だとくくるくくりかたは、政治的意図抜きに は説明できないのではないでしょうか。 いったい、言語学の風習には、地理的な広がりの中での差異には厳しく区切 りをつけても、時間的な広がりの中での差異にはどこまでも同一性を保証すると いうきめごとでもあるのかと、疑わしくなります。 むしろ、今言われているような「日本語」”概念”が、いつどのように成立 したかを究明しなければならないし、そうしたら、「民族」「祖国」などの概念 の成立を待って、そのサイズと性格付けに合わせた「日本語」”概念”が人為的 に作られていったということが、琉球語の事例などの分析からもはっきりしてく ると思います。 わたしが、「日本語学」をかっている最大の点は、それが共時的な研究と、 はなしことばを主にするという言語学の伝統を守っているように見えることです。 そこでは、規範としての言葉よりも社会的事実としての言葉が重視されます。で すから、言語そのものとは無関係な、「古代からつづく日本語」というようなイ デオロギーとは離れたところで発言ができるはずなのです。 そこからは、今の日本語の不合理な表記システムや、機能不全に陥っている 学校文法や、建て前とはおよそ異なった機能を果たしている待遇法(敬語)や、 異文化交流の要素を切り捨てた文学教育や、話すことに恐怖を抱かせる話し言葉 教育などに対して、自らの内部や近傍への問いをつきつける力が生まれてきてし かるべきだし、そうなる可能性があると考えます。しかし、日本のアカデミズム の慣例に従って、隣のことには口出ししないという態度が続くのであれば、結局 は日本語を閉じた言語のままにして、それを押しつけることばかりを考える結果 になりかねません。 今でも、日本語能力試験や就職のチャンス、日本語学校の成績などをちらつ かせて、日本語にまつわる不合理で差別的な機能に無批判に、「伝統」として、 漢字のトメ・ハネとか、女性語/男性語とか、おべんちゃらに近い敬語表現など を半ば無自覚に押しつけている面があるのです。それが、単に日本語学習者に困 難をしいるというだけなら、日本語が嫌われていくだけのことで自業自得ですが、 日本に住む”言語弱者”(田中克彦)にたいする差別を解き放つてがかりをみずから放棄し、 これから日本で生きていこうとする学習者の人格への抑圧にもなるのだというこ とを、肝に銘じるべきではないでしょうか。 |
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